羅漢拳  第31回 | 芸能界のちょっとだけ、知っていることについて

芸能界のちょっとだけ、知っていることについて

芸能人の追いかけを、やったりして、芸能人のことをちょっとだけ知っています、ちょっとだけ熱烈なファンです。あまり、深刻な話はありません。

第31回
素人探偵
栗の木市のその工場は川の横に建てられていた。川の両側には百メートルにわたりけやき並木が続いていた。けやきの上の方の枝がたわわにしなって屋根のように川の上の方を覆っている。その枝の下で川が静かに流れている。けやきの木で川面の上の方が覆われるくらいだから小川と呼んでもいいくらいな川だったがそれでも川幅は五メートル以上はあった。川の土手の両側は整備されていず、野草が自生している。それが土手の地盤を固めている役目も果たしていた。川の水が増えているとき、それは今なのだが水面下に隠れて見えないがこの川の横に建っている工場からの排水口があるらしい。この川の土手を上がっていくと錆びて赤茶けた金網の塀があってその向こうに工場がある。そんな赤錆た金網が工場の周囲をぐるりと覆っている。川に平行して自動車の通れる道路があり、工場の敷地にぶっかったところでその道路は直角に折れ曲がり、その折れ曲がったところが工場の入り口になっている。おおまかに考えてこの工場の敷地が四角だとすると隣り合った四つの辺は川と道路にはさまれている事になる。そして他の二辺は雑木林になっていて住宅や農地からは離れている。工場の本体は木造の板を張り合わせて作られているもので平屋建てになっている。もうすでにこの工場は操業を停止しているが水銀に何種類かの劇物に指定されているような金属を化合させて他の部品工場で使うような材料を提供する工場だった。十数年前に工場は操業を停止してここに通う人もなく建物は取り壊されずに残っているが長年の風雨のためにすっかりと朽ち果てている。窓ガラスなどはすっかりと割られ、機械類はほこりをかぶり蜘蛛の巣を張ったままそのまま残っている。工場の周辺を囲む赤錆た金網は錆びてはいるが人の入れるような穴もなく体裁を保っている。しかし金網の高さは一メートルぐらいしかなく人が足をかけて乗り越えようと思えば乗り越えることのできる高さではある。金網の内側には世話をする人がいなくなっても植物は地上から水分や若干のミネラル、空から太陽が当たるので植木が枯れずに生えている。そして敷地の中には雑草が我が物顔に生えている。この工場が操業していたときは取り扱いにいくつもの条例や規則を必要とする劇物を使用していたからコンクリート製の頑丈に作られた倉庫が用意されていてその保管には万全をきされていた。木下郁太の話によるとその入り口は残留物による危険性を考えて工場が閉められたときにコンクリートで封鎖されたという。しかし福原豪の命令によってその入り口が再び開けられて中に何かが運び入れられたという話だ。吉澤ひとみと村上弘明が車を工場の入り口につけてそこから降りて入り口の鉄格子を見るとその鉄格子を閉めている鉄の鎖とその鍵は錆びてはいず金属性の光沢を帯びて光っていた。これはその南京錠が最近に掛け替えられたことを意味している。そしてその下には車が通ったらしく雑草の生え方が他の部分とは少し違っている直線部分が続いている。その直線部分が廃墟となった工場の裏手の方にまで続いている。吉澤ひとみは入り口の門についているステンレス製の鎖を引っ張った。
「木下郁太の言った話は本当だつたのね。最近ここに誰か入ったというのは本当だわ。鎖も南京錠も新しいもの。それにきっと車が、貨物用の車じゃないかしら、兄貴、雑草の生え方がおかしいもの。」
村上弘明はさらに向こうの方を見ていた。工場の裏側の方だ。そこに木下郁太の言った倉庫があるらしい。しかし直線的にその後が工場の裏手に続いているわけではなく、工場の手前の方に小さな整備工場のようなものがあってその前にはガソリンスタンドにあるようなガソリンの給油機が立っている。もちろんその給油機も赤い塗装がところどころ剥げて錆び始めているが。この工場が操業しているときはここで貨物用のトラックがガソリンか経由を補給していたのだろう。
「とにかく、入っちゃおう。」
「お前、いいのか。勝手に人の敷地にはいっちゃって。」
「いいよ。いいよ。兄貴、入っちゃおう、入っちゃおう。」
こういう捜査に関しては法律上なんの権限もない吉澤ひとみはおかまいなしにこの工場の敷地内に入って行くつもりらしい。
村上弘明が何かを言おうとする前に吉澤ひとみはすでに金網の方へ向かって歩き始めていた。
「いいのかな。」
村上弘明は少し頭をひねったがやはり彼女の後をついて足を進めていた。金網はあってないも同然だったから左足を金網の中程にかけ、右足で金網の上部にもかすらず乗り越えることができた。。村上弘明は吉澤ひとみの後をついて金網を乗り越えた。
「待ちなさい、ひとみ、ひとみってば。全く何でこんなお転婆女が生まれたのか。」
村上弘明はぶつぶつとつぶやいた。それでも
吉澤ひとみは村上弘明の止めるのも聞かず、雑草の中をずんずん進んで行く。
「ここであの修理工場のようなところに立ち寄ったのね。雑草が横になぎ倒されて道順みたいになっているあとがここで一度立ち寄っているわ。兄貴、何でだと思う。」
「何でだって言われてもね。昔は結構、運送用の車が出入りしていたんだな。雪の日に使うチェーンなんかも置きっぱなしにしてあるよ。あっ。わかった。コンクリートを壊す時、工事をした人間がここで休んだんじゃないか。おかずかお菓子かコンビニの弁当かわからないが食べ物を包んでいたらしいアルミ箔が修理工場の中に散らばっていた。
「その通り。」
修理工場の後ろにガソリンの給油機が置いてあり、その給油機を背後にして村上弘明と吉澤ひとみは立っていたのだがその給油機の背後からぬっと首が出て来て声をかけられたので二人はびっくりして振り返った。
「お久しぶりでごんす。しばらくお暇しておったが、いかがお過ごしでしたかな。」
あごをさすりながら伊達男が挨拶をした。大阪府警の中で会った本山本太郎一派の主要構成員でありながらただ一人のシンパサイザー兼、党員である江尻伸吾だった。
「何を不思議そうな顔をしてござるのかな。」
江尻伸吾は得意そうに顎のあたりをなでると二人の方に近寄って来た。
「江尻さん、何でここにいるんですか。」
最初は大声で江尻さんと叫んだが後は周囲に誰かいたらという気遣いからか村上弘明の声は小さくなった。
「また例の捜査システム、あの何て言いましたっけ、本山本太郎二号で私の行動を調べたんですか。」
江尻伸吾はまた得意気にあごをさすった。
「ノン、ノン、本山本太郎二号というのは俗称でがんす。正式には神山本次郎、なかなか頼りになる相棒でがんす。捜査員五人分の働きをする働き者でござる。これをさらに有効に利用するために懸賞金制度を設けて神山本次郎あてに有力な情報を提供してくれた者には懸賞金を差し上げるという仕組みを大阪府警内に設けようと思っているのでがんすが、反本山太郎一派のためになかなか実現しないでござる。これは由々しき問題でござる。」
江尻伸吾は聞きもしないことを答えた。
「江尻さん、どうしてここに居るんですか。」
相手は一応、大阪府警の重要人物なので吉澤ひとみは尊敬の念を表して聞いた。
「これも神山本次郎の有効性を証明する結果でごんすよ。あなた達は拙者に松田政男氏の情報を集めるように言ったでごんす。それで拙者はその場で三ヶ月以内の範囲で松田政男に関する情報を集めてみました。それで見つかったのがK病院に関しての二、三の事実でがんす。松田政男に関する情報は何も得られなかったでごんす。それでさらに範囲を一年に広げて見ました。そこでまた松田政男がどこかに電話をかけていないか、調べたでござる。そうするとあったでござる。」
「松田政男はどこに電話をかけていたんですか。」
吉澤ひとみはこのうち捨てられた整備工場に置かれた椅子に腰掛けながら江尻伸吾の方を見た。この板張りの廃墟は窓ガラスが割れていて送電線とは切り離されているのだが電線が外に繋がっている。その電線に名前のわからない蔓草がからんでいる。
「フリーウェー貿易という会社をご存知かな。あっ、いや、答えないで結構でござる。大阪府警の中では名前がよく挙がる貿易会社でござる。ここは通常の貿易をやって商品を国内に入れているのではないでござる。たとえば輸入が禁止されているような商品をごまかして日本に輸入しているのでござる。」
「松田政男がその貿易会社に電話をしていたのですか。その内容はわかっているのですか。」
「残念だが、その内容はわからないのじゃ。なにぶん大分前のことだからな。ただ。松田政男が一昨年の十二月二日にその会社に連絡をとって何かを不正に輸入していたのは確かなんじゃ。」
「何で、不正に輸入されていたとわかるのですか。」
「店も構えてていない人間が大量にその会社を使って何かを輸入するという事はないからでござる。」
「きっと、松田政男は生化学者だから化学薬品か、試験機械に違いないわ。」
吉澤ひとみは勝手に断定した。
「しかしですね。江尻さん、僕たちと同様にしてこの廃屋となった工場にあなたがやって来たのはどういう理由からなんですか。」
「これもまた、拙者の頼りになる部下の神山本次郎の指し示した道に従ったに過ぎないのじゃ。」
「と言うと。」
吉澤ひとみは江尻伸吾がしゃべりたそうなので相づちを打った。
「松田政男がフリーウェー貿易に関係していることから拙者はフリーウェ貿易に関連した情報をやはり神山本次郎で調べてみた。そうしたら、興味のある電話の記録が残っているではないか。フリーウエー貿易に福原豪の会社から注文が出ている。そして今度の電話記録の方は残っているのじゃ。そこにはJ国を経由した輸入がされているのじゃ。お主らはJ国のことをご存知かな。輸入できないようなものをJ国は国ぐるみで外貨を稼ぐために書類捜査をやって不正に他の国に送りだすのでござる。松田政男がフリーウエー貿易に電話をかけた直後、やはりフリーウェー貿易からはJ国に向けてテレックスが送信されていた。前々からフリーウェー貿易が怪しいと睨んでそこにも大阪府警は神山本次郎を接続しておいたのじゃ。」
「フリーウェー貿易からこの工場にその品物が運びこまれたことがわかったということですか。」
「そうでござる。それで貴殿らは何故、ここに目をつけたのでござるかな。」
「福原豪の第二秘書という人物が情報を提供してくれたのですよ。四ヶ月前にここに何かわからないものが運びこまれた。奇妙に感じるところは一度閉鎖されている工場で倉庫に至っては入り口をわざわざコンクリートで固めていたのにそこもわざわざ壊して入れるようにしたと言ったんですよ。僕たちもきっと何か知られると困るようなものが運びこまれたと思ってここにやって来たんです。」
「と言うことはその倉庫に運びこまれたという事でごじゃるな。」
江尻伸吾はまたあごをしゃくった。三人はその倉庫に入って見ることにした。倉庫は工場の本棟の裏側にある。貨物用自動車でこののびきった雑草の間を走ったからか倉庫までの道ははっきりとわかった。いくつものうち捨てられたドラム缶が横に転がっていてふたの開いているドラム缶には中に水がたまっていた。
「あっ、あそこ。」
吉澤ひとみがその倉庫を見つけて指をさした。
倉庫というから掘っ建て小屋のようなものを想像していたが、かまくらのような球面をしていてこんもりと盛り上がっている前方に鉄製の扉がついている。
その左右にはコンクリートのがれきが積まれていて最近その入り口の部分を壊したということがわかる。村上弘明が入り口の取っ手の部分をがちゃがちゃと動かすと取っ手は回転しなかった。取っ手には鍵がかかっている証拠だ。村上弘明は今更ながら自分がこういった犯罪捜査に関しては全くの素人だという事を実感した。当然、鍵はかけられている事を想定していなかった。
「どれどれ。ミーがやって見ましょう。簡単に開いたら拍手喝采といってくださるかな。」
江尻伸吾が前に進み出た。ポケットの中から何か歯磨き粉のチューブのようなものを取り出した。
「江尻さん、それ、何ですか。」
「形状記憶形成剤。」
江尻伸吾はぽつりと言った。さらに江尻伸吾は鍵穴のところにそのチューブの口を押し当てるとチューブの中の歯磨き粉のようなものを鍵穴の中に入れた。それからチューブを引き抜くと一緒にガムのようなものも鍵穴から出て来た。最初は練ったうどん粉のようだったが江尻伸吾が持っているとしだいに鍵の形になっていって三分もするとすっかりと鍵の形になって江尻伸吾が指ではじくと小さな金属音をたてた。
「よし。」
江尻伸吾はまた自分で確認をとるとそれを再び鍵穴に差し込んだ。吉澤ひとみと村上弘明は江尻伸吾の左右にいてその様子を覗き込んでいた。
「形状記憶樹脂はチューブから出して最初の三分間はゴム状でがす。一分経ったときの形を覚えていて三分を過ぎるとその形に固まって金属のようになるでござる。」
そう言いながら江尻伸吾は鍵を回転させた。鍵はがちゃりという音を立ててあいた。ちょうどそのときだった。吉澤ひとみは後ろの方に人影を感じた。振り返ると五、六人のサングラスをかけて人相の分からない黒い背広に身を固めた男たちが立っていた。
「何をしている。」
男たちは低くうめくように言った。
「そう言う君たちこそ誰でござるかな。」
江尻伸吾はもったいぶって服の内側のポケットに手を入れたが、吉澤ひとみは江尻伸吾が警察手帳か何かを出すのではないかと思った。警察官として不審者を見つけたから工場の中に入ったとでもなんでも言えるだろう。しかし吉澤ひとみが江尻伸吾の内ポケットから何がだされたのか確認する前に江尻伸吾が手に持っていたものを外に出すとすぐに五、六人の男たちは倒れた。江尻伸吾がポケットから出したものは強力な睡眠剤の噴出器だった。
「ここを離れるでごんす。」
まだぴくぴくと身体を動かしている男たちを見ながら江尻伸吾は吉澤ひとみの手を引っ張った。
「きっと、あの鍵にはアラームがセットされていたに違いないでござる。お主たちが乗って来た車があるのでござろう。」
「こっちです。こっちです。」
村上弘明は自分の乗って来たルノーのとめてある場所の方へ急いだ。三人はまた金網を乗り越えて車のある場所へと行った。あわてて村上弘明は車のドアをあけると三人はそこに乗り込んだ。すぐに車は発車した。車を走らせて小さな山にはさまれた道をおりて行き、環状道路に出てから村上弘明は後ろに座っている江尻伸吾に話しかけた。
「あの取っ手のところにはアラームが仕掛けてあったんですね。電気なんて来てないはずなのに、随分と厳重な警戒をしていますね。あんな人間も見張りをしていたなんて思いませんでしたよ。」
「ミーの見るところ、それほど重要な何かがあの倉庫には隠してあるということに違いないでござる。」
江尻伸吾はまたあごをさすった。
「正式に捜査令状をとってあの倉庫の中を調べるというのはどんなものでしょうか。」
「明日になれば倉庫のものなんか、みんなどっかに移送されているに違いないでござるよ。福原豪の一味の仕業だすればそんな事は当然でござるよ。それにしても喉が乾いたでごんす。」
前の席では村上弘明が運転していて後ろの席に座っている江尻伸吾に話しかけた。横には吉澤ひとみが座っている。江尻伸吾は後ろの座席で自分の横に黄色いビニール製のクーラーバックが置かれているのに気づいた。クーラーバックのふたは開いているので中に入っている缶が見える。
「この缶コーヒーを貰っていいかな。」
江尻伸吾は缶コーヒーに手を伸ばした。
「どうぞ。」
江尻伸吾は喜んでその缶を取り出すと缶の上面に付いているプルトップを引き上げた。鉄製の缶で缶の側面には白とクリーム色と茶色を混ぜたような色が塗られている缶だった。うれしそうにその缶コーヒーを飲んでいる姿を見て吉澤ひとみは笑いを抑えられなかった。
「江尻さんって缶コーヒーが好きなんですね。」
「もう一本飲んでもいいでごじゃるかな。」
江尻伸吾は一本目の缶コーヒーを味わいつつ飲んでいてまだ三分の一も飲んでいなかっただろうがバックの中に入っていたもう一本のコーヒーを取り出すと上着の横に付いているポケットの中に押し込んだ。添田応化工場というのが三人が忍び込んだ工場の名前だったがその工場から大部離れた場所に来ていた。横には大きな送電線の鉄塔が見える。左側は畑になっていた。ここは高台になっているので高架式になっている栗の木団地駅が下の方に見える。その工場から離れてここまで来ていたが吉澤ひとみも村上弘明も次にどこに行こうかという当てもなかった。再開された、と言っても倉庫だけだがその工場に何かが運びこまれたかはわからないが、世間に公言できるものではないものが運びこまれたのは事実に違いないだろう。一体それが何であるのかは村上弘明には特定できなかった。しかし同じJ国経由で何かがこの栗の木市に時期をずらして運び込まれているというのは江尻伸吾の捜査システムを信用するなら確からしい。しかし松田政男が栗の木市に運びこんだものと福原豪が運び込んだものが同じものであるという保証はない。
「江尻さん、松田政男氏が栗の木市に運びこんだものと福原豪が栗の木市に運び込んだものは同じものなんでしょうか。」
車を止めて村上弘明は後ろの座席に座っている江尻伸吾に問いただした。しかし江尻伸吾はその問いには答えなかった。
「ユーが大阪府警のミーの犯罪捜査装置開発室に来たとき聞きましたでごんすよね。松田政男について調べてくれと。」
村上弘明は松田政男個人に関して調べてくれと言ったわけではなかったが、K病院や松田政男の不審死について調べてくれと言ったわけだから、まあ、同じ事かと納得した。
「松田政男は一年半ぐらい前に栗の木市に来た形跡があるでごんす。」
「それはうちの高校に講演に来たときの事じゃないかしら。」
吉澤ひとみが後ろを振り向きながら缶コーヒーを両手に持っている江尻伸吾に聞いた。
「ノン、ノン、それは二年前の事でごんす。そのあとにまたこの栗の木市を訪れているのじゃ。」
江尻伸吾の話方は妖怪じみて来た。
「貴殿たちは松田政男についてどの位の事を知り得ているのかな。」
「まず、彼には弟がいて今は兄の殺人事件がショックで病院に入院しているという事でしょう。それから松田政男は化学の方で大変な秀才で新薬か、化学薬品を開発してかなりの特許料を貰っているという事でしょう。」
それからそのさきの事を言おうかどうかと吉澤ひとみは躊躇した。松田政男は成功する前に矢崎泉という人物と同様にして謎の化学薬品の製造開発会社に就職していたのだ。その事をこの大阪府警の特異な構成員に話すべきかどうかわからなかった。すると村上弘明が言葉をつないだ。
「矢崎泉という今はアメリカで働いている化学者がいるんですが、その人物と同じ新薬の研究開発会社で働いていた事もあるそうですね。私はその人物とテーマパークで面会したことがあるから確かです。それに松田政男がS高で講演をしたビデオテープが残っていてその中にも矢崎泉の名前は出て来るんです。」
「その講演をしたという月日のことはわかるかな。」
「日にちまでは覚えていませんが、確か一九九九年の二月頃だったと思いますが。」
「それから半年後だ。ふらりと松田政男はこの栗の木市に立ち寄ったらしい。」
ここで江尻伸吾はまたあごをまるで名探偵のようにしゃくった。
「江尻さん、どこに行ったか、わかるの。」
「お嬢さん、もちろん、わかりますよ。」
「どこですか。」
村上弘明はこらえきれず止めてある車の運転席から後ろの座席に座っている江尻伸吾の方へ首を向けた。
「一九九九年の二月に松田政男はひとみ殿の通っている高校で講演をしたのだが、わずか半年後の七月十七日に松田政男はこの栗の木市にやって来ているのじゃ。これは確かである。」
江尻伸吾は得意気にまたあごをしゃくった。
「江尻さん、何で確かだと言えるの。」
「警察の記録に残っているからでござる。七月十七日に松田政男はレンタカーに乗ってこの街にやって来ているのじゃ。そのとき農家の庭先に停めてそこを離れてどこかに行ったらしくその家が駐車違反として警察に訴えた。その結果、駐車違反となり罰金を払っている。」
「何で、松田さんはこの街に来たのかしら。」
「お嬢さん、そうむずかしく考える必要はござらん。人は誰でも時として生まれ故郷を訪ねてみたくなる事があるのではござらんかな。」
「でも具体的にこの街のどこを訪ねたの。」
その点については村上弘明もきわめて興味がある。
「そこでじゃ、ミーもそのことについて興味があったのでどこで駐車違反をしていたのか、調べてみたのでござる。栗の木市の西方のアンテナ公園山の裏手にあたる場所に縦五百メートル、横二百メートルの人工池があるのをご存知かな。名称はなまずひょうたん池と言うのじゃが。」
村上弘明はただ単に栗の木団地に寝泊まりに来ているだけだったのでその人工池のことは知らなかった。しかし吉澤ひとみの方は高校生の活発さから栗の木市の中を結構歩き回っているようなのでその池の事を知っていた。
「アンテナ公園山と寝そべりカバ山の間にある池の事でしょう。」
寝そべりカバ山というのは正式な名称ではないが山の形が寝そべったカバの形に似ていることから古くから住んでいる住民がそういう名前で呼んでいる山のことでここら辺に住んでいる小学生は遠足でよくそこに行く。
「山がそういう名前で呼ばれていることは知らないでござるがその二つの山に挟まれた場所にある池のことでござる。そこで人工的に鱒の養殖がなされているのでござる。ミーはそこら辺に住んでいる人間で松田政男に関わりのある人間がいないか調べたでござる。」
そう言って江尻伸吾はポケットの中から電子端末を取り出してその画面をのぞきこんだ。自分の調べた結果がそこに記録されているらしい。その記録の細かいところを覚えていないのだろう。
「あったでござる。あったでござる。ミーは松田政男の知り合いが住んでいないか調べたところ太田原善太郎という中学時代の同級生がなまずひょうたん池の前にある土産物屋の長男だということを調べたのでござる。ここで大田原善太郎は土産物屋をやっていてここに住んでいるのでごじゃります。これは。あはははは、松田政男のことを調べるのに有力な情報ではないかな。松田政男の乗っているレンタカーが違反切符を切ったのはここのそばの農家の庭先でごじゃる。そしてここら辺には松田政男に関連した人間は住んでいないのじゃ。あははは。」
ここでまた江尻伸吾は高らかに笑ったが彼が何に対して勝ち誇って笑っているのか吉澤ひとみには理解できなかった。
「松田政男はその人のところに何をしに行ったのかしら。」
「まず大田原のところに行くことじゃな。その人工湖はアンテナ公園山の裏にあるそうでがす。」
村上弘明もアンテナ山には最近登ったばかりだ。村上弘明はサイドブレーキをはずしてルノーのアクセルをふかした。江尻伸吾はポケットの中に今入れたばかりの缶コーヒーを取り出すとまた開けて口に持って行った。松田政男は以前行ったことのあるアンテナ公園山の測道を抜けてその人工湖に抜ける道をルノーを走らせた。道の片側では雨による土砂災害を防止するために補修工事がなされていた。アンテナ公園山の裏を抜けるとねそべりカバ山が薄い霧の中にたたずんでいた。その手前になまずひょうたん池の姿が広がっている。なまずひょうたん池のまわりには松の木が並んではえていてそのまわりは舗装されていず砕いた中くらいの石がまかれているだけだった。池の端から端まで一番近いところでもかなりの距離があった。ここを泳いで渡ることなどよほど遠泳に自信のあるものではなければできないだろう。休日や小学校の終わった時間だったら何人か子供がここにつりに来ていることもあるのだが今日は誰もいなかった。池というよりも小さな湖だった。この人工湖の真ん中にはドラム缶が二十個くらい組み合わせて人工の浮島が作られていて上の部分が板敷きになっていて人が二、三人入れるくらいの木造の小屋がたてられている。小屋の屋根のところには竹竿で旗が立てられている。
「あそこでござる。ほらほら、白い二階建ての建物がござるでがしょう。あれが太田原善太郎がやっている土産物屋に違いござらん。」
人工湖の前後は二つの山に、と言っても丘のようなものだったが、はさまれていてこの湖に入っていける道路の向こう側は川になっている。そこには道はなかった。川をまたぐ橋が架かっているだけだった。だから道路の側から入って行くと湖の周辺をぐるりと回ってまた元の道路に戻って来るという地理になっている。もっともその橋が架かっている湖の端まで来ると川の測道がついていて自動車では無理だがオフロードバイクぐらいだったらさらに先に入っていけるようになっていた。土産物屋はその道路の入り口のところに湖から立ち上がるもやに少し煙って建っていた。白いコンクリート製の二階建ての建物で建築年数は作られてから十数年ほど経っているようだった。一階は土産物屋になっていて二階は住居になっているようだった。その土産物屋の後ろの方に長い塀が続いていてそちらの方はコンクリートが黒っぽく変色している。それがこの塀の建てられた年月を物語っていた。中の方で水の流れる音がしている。ここが鱒の養殖場らしかった。土産物屋の一階の方にはたばこの看板とボートの貸出券ありますという看板がかかっている。ここでボートも貸出しているらしかった。村上弘明は自分の車を土産物屋のそば近くに斜めにつけると車から降りた。同じようにして江尻伸吾も吉澤ひとみも降りて来た。土産物屋と言っても店の表側には特産品というのではなく全国各地どこででも見られるメーカー製のスナック菓子、キャラメル、チョコレートといった菓子類、使い捨てカメラなどが段々になつた金属製のかごに置かれていた。店の中にはデコラ製のテーブルが三つほど置かれてテーブルの真ん中にはアルマイト製のやかんが置かれていた。店の中にもやはりボートの貸出券あります。という張り紙がされている。店の前を水をまきながらほうきで掃いている三十前後の男がいる。これがこの店の主人の松田政男の幼なじみの太田原善太郎なのだろう。太田原善太郎は自分の店の横に車が止まったことも気づかないようだった。村上弘明が前に出て吉澤ひとみと江尻伸吾を従える形になって太田原善太郎のそばに近付いて行った。
「太田原善太郎さんですか。」
声をかけられてそばに人が来ていることにやっと気づいた太田原善太郎は背中を曲げていた姿勢のままで首だけを回して三人の訪問者の方を見た。
「そうですが。」
「私は日芸テレビで報道探検隊という番組を担当している村上弘明と言います。この二人は番組のスタッフで。」
村上弘明は余計な事を言うなというように江尻伸吾の方に目配せをした。江尻伸吾はいまいましそうに口をへの字に曲げた。
「何だ。どこかで見たことがあったと思ったんや。あんさんの顔、たまにテレビで拝見してますんや。うちの店がテレビに出るんやろうか。それともなまずひょうたん池の取材で来たんやろうか。こっちにテーブルがあるから座りながら話したらどうやろうか。」
太田原善太郎は今持っていたほうきとちりとりを地面の上に置くと三人を中のテーブルに案内した。三人が安物の椅子に腰掛けると店の中の自動販売機の表側のふたをあけるとガラス瓶に入ったコーラを四本取り出してふたについている栓抜きで栓を抜いた。ガラス瓶を水平に持って自動販売機に固定されている栓抜きに当ててガラス瓶を下に押し下げると栓が抜ける仕組みだ。自動販売機の方も料金を入れると一番下段の一本が引き抜ける状態になるので思い切り引き抜くのだ。今は都心ではガラス瓶用の自動販売機をあまり見ることがなくなったので珍しい品物と言えるかも知れない。もちろん料金を払わず中身を出すためにこの店の主人は前蓋を自前の鍵であけて四本のコーラを取り出した。太田原善太郎は自分の店を村上弘明たちが宣伝してくれるのだと思っているようだった。目の前に出されたコーラを江尻伸吾は下唇を付きだして飲んでいる。
「それでどんな御用なんですか。」
太田原善太郎の表情は自分の店を取材してくれるという期待が表情に出ていた。しかしすぐにその期待は裏切られた。
「太田原さん、あなたは松田政男さんの中学時代の同級生ですよね。」
「ええ、そうですが、それがどないしたんですか。」
「松田政男さんが去年の七月十七日に遊びに来ませんでしたか。」太田原善太郎の表情には失望の色が隠せなかった。太田原善太郎は頭の中でそのときの様子を反芻しているようだった。それもその事が事実であるかどうかという事ではなくその事実のあった時間が七月十七日として当たっているかどうかということを確認しているようだった。
「確かに松田政男はうちに来ました。でも、それが七月十七日かどうかという事はわからへんがな。でも来た日が七月十七日かどうか、わからなくても七月の半ば頃来た事は確かだったと思うんや。」
「ミーからも質問してもいいざんしょう。」
太田原善太郎はわけのわからない人物が口をはさんで来たのでとまどった。
「この人、誰や。」
「失礼な。こう見えても拙者は大阪府警のナンバー2という重責を果たしているのじゃ。」
「まあ、まあ、」
村上弘明は変な事になる事を恐れて江尻伸吾を制した。
「じゃあ、七月の半ば頃にここにやって来たという事は事実なんですね。」
「そうやな。ふらりとやって来たんや。」
「太田原さんは松田政男さんと親しかったんですか。」
「特別に親しいという間柄ではなかったんやけど。割と誰もがみんなわてには気安くものをしゃべるのや。」
そうなるとここで松田政男が何を話したのかが問題になる。
「松田さんとはどんな話をしましたか。」
「そうやな。」
太田原善太郎はその時の様子を思い浮かべているようだった。
「今と同じように店の前を掃いていたんや。そしたら湖のほとりをふらふらと歩いている人物が目に入ったんや。ちょうど光りが逆光になっていたんで誰だったかよくわからなかったんやけど、その人物は湖の方を見たりうちの店の方を見たりといささか挙動不審やったんや。湖の方を見ているかと思うとうちの店の方を見てわての方に歩いて来たいのか来たくないのか、迷っているようやった。でも結局うちの店の方に歩いて来たんや。遠くからではよくわからなかったんやけど近付くにつれて誰だかおぼろげにぴんとくるものがあった。中学時代の面影があったからや。ほぼその人物が松田政男だろうという事はなんとかわかった。松田政男の方も挨拶をしていいのか、悪いのか迷っているようだったからわての方から彼の方に近寄って行ったんや。それで今と同じようにこのテーブルに座ってコーラを出したんや。」
「このテーブルで差し向かいになつて話したんですか。どんな話をしたんですか。」
「それは昔の同級生の近況とかな、結婚したとか、子供が生まれたとかそんな話やな。わては噂で松田が化学薬品の開発かなんかで成功したとか言う話を聞いていたからその方の話をしたんやけど全然のってこなかったんや。あんまり自分自身の話はしなかったんやな。」
「話したことはあんまり深刻な内容ではなかったと。」
「そうやな。わてはあんまり松田政男と親しかったというわけやからなかったからな。」
「中学時代の同級生の誰それが誰と結婚したとか、そんな話ばかりしていたと言うわけですね。それで松田政男さんはどんな様子でした。」
「なんか、あんまり元気がなかったな。」
七月十七日にここに来たとするとその五ヶ月前にはS高校で意気こうけんな講演をしている。一体どうしたのだろう。太田原善太郎からはこれ以上聞いても有力な情報を得られそうにもなかったので三人は暇をとることにした。江尻伸吾は自分の住んでいる場所のことをはっきりとは言わなかったがどうも大阪府警のそばに住まいがあるらしく難波の近くまで江尻伸吾を送っていくために三人はルノーに乗り込んだ。そして大阪府内に入るとすっかりと夕方になっていた。大阪三光テレビのそばにおいしいハンバーグ屋があるのでそこで飯を食べようという事になった。鉄板の中に丸いボール状になったハンバーグが湯気をたてながら三人の前に運ばれて来た。目の前に置かれたハンバーグを店員が切り分けると肉汁がこぼれて熱くなった鉄板の上に落ちてじゅうじゅうと音を立てた。
「何故、松田政男はなまずひょうたん池にやって来たのかしら。」
ナイフとフォークを持ったまま江尻伸吾は無表情で吉澤ひとみの方を見た。
「人は時として故郷の山川を見たくなることがあるでごんす。」
「松田政男も故郷の空気に触れたいと。」
「そうでごんす。」