羅漢拳  第30回 | 芸能界のちょっとだけ、知っていることについて

芸能界のちょっとだけ、知っていることについて

芸能人の追いかけを、やったりして、芸能人のことをちょっとだけ知っています、ちょっとだけ熱烈なファンです。あまり、深刻な話はありません。

第30回
村上弘明がいつものように自分のアパートの食堂でテレビを見ながらビールを片手に南京豆をぼりぼりとかじっていると吉澤ひとみがうれしそうな顔をして玄関から片手に何かを持ってやって来た。
「兄貴、兄貴、来たわよ。来たわよ。恋人から手紙よ。」
その一言に村上弘明はビールにむせびそうになってしまった。吉澤ひとみはまだ笑っている。
「兄貴の恋人から。」
村上弘明はどきりとした。吉澤ひとみが自分の恋人なんて知るわけがない。東京に残して来た、と自分では勝手に思っている岬美加しか恋人と呼べるものはいない、しかし変な噂がたって自分の妹が見当違いの相手を自分の恋人だと思っているのだろうか。しかし封筒の送り主のところを見ると納得した。そこには村上弘明が情報を提供してくれるように依頼している伝説のフリーライター、川田定男の名前が書かれていたからだ。
「恋人と言うのは言い過ぎだろ。」
村上弘明はその封筒の裏面を見ながら吉澤ひとみをたしなめた。しかしそれが同性の相手なのにこんなに胸がときめくのが何故なのか自分自身でもわからない。しかし、とにかく川田定男なら知り得ない多くの福原豪に関する情報を持っているに違いない。村上弘明は期待を持って封筒をあけた。彼の後ろの方からは吉澤ひとみが好奇心を剥きだしにしてその手紙を覗き込んでいる。
「兄貴、何が書いてあるの。」
「あせるなよ。」
「あせるなって、兄貴の恋人からの手紙でしょう。」
吉澤ひとみから催促されて村上弘明はどこにでもある袋が二重になっている封筒をあけると中の青い内袋が見えた。中に入っている便せんは一枚だけのようだった。しかしその手紙の内容は充分に有意義なものだった。というのはには便箋が一枚入っているだけだと思ったのは間違いでこのコンサルタントに対する支払いの銀行振り込み用紙が金額入りで入っていた。その料金が川田定男のところにどういう仕組みで届くのかはわからなかったが今までに一度もそのことで川田定男に足がつくことはなかった。情報提供者と川田定男との接触で報酬の半分を依頼者との接触により残りの半分を情報提供者は受け取る仕組みになっているらしい。その手紙の内容は福原剛の情報を提供できる人物を村上弘明に紹介する事が可能だからどこそこで会えという内容だった。
「福原剛の最近の事を知っている人物と梶原インターチェンジの休息所で会えという指示が書いてあるよ。相手の名前も書いてある。福原豪の下で経理のような仕事をしていた人間らしい。相手の人物の携帯電話の番号も書いてある。会う日時は明後日の日曜日の午後二時ということになっている。」
村上弘明がその手紙を折り畳んで再び封筒の中に入れていると吉澤ひとみが弘明の顔を覗き込んだ。
「兄貴、もちろん、私も行っていいでしょう。」
しかし、何故か吉澤ひとみの顔は少し曇っていた。村上弘明は渋々了解した。日曜日の昼過ぎにルノーを走らせて止まった梶原インターチェンジの休息所は思ったよりは広いところだった。なにしろ最初は時代劇に出て来る茶店をイメージしていたから予想はすっかりとはずれてしまったのだ。そこは小さなフアミリーレストランぐらいの大きさはあり、道路公団から許可を得た個人経営のうどん屋が営業していた。車が何台か停まっている向こうに大きなガラス窓を擁したその建物があった。もちろん出している食べ物はうどんだけではなく、ごはん類、つまり丼ものも出していた。うどん屋の外側は大きな窓になっていて窓側のところに客が五、六人座っている、村上弘明が指定された電話番号を自分の携帯からかけると窓側に座っていたポマードで頭をなでつけた灰色の髪の中年の男が自分の持っている携帯電話を耳に当てたのでその人物を特定することができた。村上弘明と吉澤ひとみはガラスのショーケースを横に見ながらその店の内部に入り、その人物の横に行った。
「木下郁太さんですか。」
「ええ。」
そう言って木下郁太と呼ばれた人物は不安そうにあたりを見回した。
「川田定男氏から紹介された村上弘明と言います。こっちは助手のひとみくん。」
木下郁夫に頓着せず村上弘明と吉澤ひとみは向かい会わせのテーブルになっていたので彼の前に座った。
「私はあなたの事を知っていますよ。日芸テレビの人でしょう。まず約束してもらいたいんですがカメラやテープレコーダーは持っていないでしょうね。メモをとるぐらいならよろしいんですが、そういう条件なら何でも私の知っていることなら何でも話ますよ。わかるでしょう。まだ完全にあなたの事を信用しているというわけではないんですからね。」
村上弘明はそう言った木下郁太の態度は暗に謝礼金を要求していることではないのかと勝手に解釈した。
「そうだ。忘れていた。お礼のお金を持ってきたんですが。」
村上弘明が謝礼の金を渡すと男はあからさまにうれしそうな顔をした。銀髪で髪をポマードでなでつけているというと立派な中年の紳士を想像するがかなり貧相な感じの男だつた。金を受け取ると男の口は軽くなった。
「これでも結婚が遅かったからまだ子供が小さいんでね。何かとお金がかかりますよ。」
男は聞きもしないことを答えた。この席から少し離れたところに家族連れが一組と若い男女のカップルが一組いたが何かの商談で話していると感じているのかも知れない。吉澤ひとみはかばんの中からメモ用紙を取り出した。
「まず、あなたの事ですが、福原豪さんとの関係は。」
「福原氏の二番目の私設秘書のようなことをしています。そもそも福原氏には公設の秘書と私設の秘書の二つがあって私は私設の秘書として二番目の位置にいます。私より偉い秘書がもう一人いるからです。」
「じゃあ、福原氏のかなり個人的な事も多く知っているのでしょうね。」
「ええ、まあ。」
「福原氏に最近変わったこととかありませんでしたか。」
「変わったことと言うと。」
「K病院をご存知ですか。福原さんが実質的に経営者の。」
「知っています。あの気味の悪い建物でしょう。何であんな悪趣味な建物を建てたのでしょうか、よくわかりませんよ。」
「あのK病院のそばに逆さの木葬儀場というのがありますよね。あそこに元お殿様だとか言う栗毛百次郎という人物がいるんですよ。K病院に勤めている看護婦から聞いたんですが、その栗田が痴漢めいたことをしていたのに栗田を全くK病院側は訴えようとしないんですが何故なんでしょうか。」
「栗毛百次郎のことは昔からあそこに住んでいる連中ならみんな知っていますよ。今はあの市は実質的には福原豪のものですが元を正せばあそこら辺一帯は栗田家のものでしたからね。栗毛百次郎にしてみればK病院に対しても福原豪に対しても複雑なものがあるんではないやろうか。もしかしたら、K病院も本当は自分のものだと思っているのかも知りません。だからついふらふらとK病院に来るという事もあるし、そもそもあそこら辺が栗毛百次郎の遊び場になっていたんじゃないんですか。」
村上弘明は言葉をつないだ。
「栗毛百次郎はK病院の中も出入りしていたようですね。」
「ええ、あの敷地が元々自分の家の敷地だったからという事だけではなく、K病院の中に死体安置所があるのを知っていますか。栗毛百次郎はどこで覚えたのかわからないんですが死体修復の技術を持っていたんです。それでK病院の中、死体安置所に自由に出入りしていたみたいやね。」
「じゃあ、栗田はK病院の内部での出来事はいろいろなことを知っていたかも知れないんですね。」
「まあ、死体安置所は自由に出入りしていたやろ。だから死体安置所に関してはいろいろな事は知っていたかもしれないんや。」
「ちょっと前の時期に起こったことなんですが松田政男さんの事故について何か知っていますか。」
「K病院で起こった事故やろ。あれにはいろいろと噂があったんや、警察の発表では自分の部屋で事故で死んだということになっているんやが、死んだのは自分の部屋から風呂場に行く廊下だったとか、警察の方では松田政男が入っていた病室で事故死をしたんだとか、いろんな話が飛び回っているみたいやな。」
「松田政男さんの病名は何だったのですか。」
「さあ、生きているときはその人に会ったことがなかったのでわからないんやけど、もし事故というのが自殺なら鬱病かなんかやないやろうか。」
木下郁太は松田政男についてあまりよくわからないようだった。
「わては福原豪の秘書を四ヶ月前にやめたんやが、福原豪の様子は最近、変なところもあったんや。」
村上弘明と吉澤ひとみは思わず聞き耳を立てた。このインターチェンジは少し高いところに作られていてインターチェンジの内外を分けている亜鉛メッキをされた鉄板の向こう側には葡萄園が広がっていた。それも近郊農園の特徴を生かしてぶどう狩りもさせているらしく、葡萄園の外側には白い看板が掲げられていて、入園料一日大人一人三千円、巨峰一箱お持ち帰り、と書かれている。その看板の向こうの方に灰白色の葡萄の枝が見えるのだつた。木下郁太の向こうのガラス窓の外にそんな景色が見える。
「変な様子というと。」
四ヶ月前と言うと松田政男が不審な死を遂げた前後の出来事だ。その事に関係があるのだろうか。
「今まで何にも動ずることのなかった福原豪さんやったが、ときどき妙に落ち着かない様子を見せることがあったんや。自分の応接室の置物や机の上の書類なんかが、どこに何が置いてあろうと、全く頓着しなかつたんやけど、いつだったか、書類を置いて置く位置が変わっていたと言ってすっごく怒られたんや。」
「今まで、そんな事はなかったと。」
「そうや。あの人にはこわいものなんか、あらへんがな。金はあるし、この大阪では政治的力もある。」
「それが四ヶ月前なんですか。」
「そうや。」
「あなたとしては福原豪さんが何かを恐れていると、もしくはそれ程ではないにしても何か心配事があるとお考えですか。ちょうど四ヶ月前と言えばK病院に入っていた松田政男さんが死んだ頃ですね。その事と関連しているとは思えませんか。」
「いいや、違うんやないか。」
「木下さんの考える範囲で福原豪さんが人からうらみを買っていたという事はありませんか。相手が何の力のないような人間でもかまわないんです。いくら福原豪さんが力を持っているとしても、警察を自分の私兵のように雇えるわけではないし、やくざの力を借りて何かをしようかと思っても相手が特定しなければそんな非合法的手段には訴えられないわけですからね。」
「そうやな、わての思うところでは福原豪さんを一番恨んでいるのは栗毛百次郎やな。いわゆる、栗毛百次郎は昔の貴族で福原豪はその貴族につかえる侍という関係やったんじゃないかな。それが貴族の方はすっかりと没落して侍が天下を取った。福原豪の屋敷にある国宝とか言われているものも皆、栗毛百次郎の屋敷にあったものばかりなんやからな。みんな福原豪が金の力にものを言わせて栗毛百次郎から買い取ったものばかりや。でもそれで特別に恨みを抱いて栗毛百次郎が福原豪に何かをするとは信じられないや。」
「じぇあ、何か、心配事でも、福原豪さんは三人家族ですよね。あの広い屋敷に三人だけで住んでいるのですか。福原豪さんには奥さんと息子さんがいますよね。」
「そうや、でも、わてはあの家族に会ったことはほとんどないんや。奥さんには年に数度しか会わないし、福原豪の息子に至ってはほとんど会ったことがないんや。」
「福原豪さんの一人息子はいずれ福原家を継ぐのでしょう。その人に会ったことがないんですか。」
「何や、詳しいことは知らんのやけど、何か病気を持っているということを聞いたことがあるわ。名前は、ええと名前はなんと言ったかな。」
「福原一馬でしょう。どんな病気ですか。命にかかわるような病気ですか。直らないような。少し噂によると精神病にかかっているというような事を聞いたことがあるんですが。」
「かも知れんわ。詳しいことはわからない。」
K病院を建てるという名目が警察や市当局からの要請で死体安置所のある病院を建てるというのが一つあった、そして自分の利益誘導としての方面からものを見ると一つには自分の建設会社を使うことにより、不正に利益を得ていたのではないかと、村上弘明はそう思っていた。それが福原豪がK病院を建てる目的だと、しかし、福原豪の息子が不治の病に冒されているとしたら、金が無尽蔵にあるような金持ちなら自分の息子のために病院を一つ建てるぐらいの事はするかも知れない。福原豪は自分の息子の病気の事があって何かを恐れていたのだろうか。しかし、福原豪の息子が病気になったのが最近のことだと断定することはできない。そうなら三ヶ月前という時期に特別な意味合いをつけるのはどうしてだろうか・
「福原豪氏が何かを気がかりにしていた様子のほかに何か変わった様子を見せていた部分はありませんか。」
「それが変なことをやるなという出来事が一つあるんや。三ヶ月前のことなんやけど、福原豪の所有していた工場で今は使わなくなった工場があるんや。工場の作業場自体はちゃちな建物なんやけど劇薬物を使うという事で立派な倉庫がついているんや。その倉庫は地下に降りて行けるようになっていたんや。水が入らないようにその倉庫の中は一段地上よりも高くなっているんやけど中に入ると下に降りて行ける階段がついていて下に降りて行けるようになっていたらしい。しかし工場が閉鎖されて工場の敷地の中には誰でもすぐに入っていけるようになっていた。もちろん入るべからずという立て札は立っていたんやけど。子供がその倉庫に入って行くのは危険やからと言って倉庫の入り口を完全にセメントでふさいでしまったんや。それなのにわざわざセメントで作った壁を壊させてその倉庫を再び使えるようにしたんや。その工場の操業が再開されているわけではないのにやで。」
「じゃあ、その倉庫に何かを入れるつもりだったんですね。」
「そうや。」
「そこに何を入れていたのかはわからないんですか。まさか、コーヒー豆の麻袋をそこに入れるためにわざわざ作られているコンクリートの壁を壊したというわけではないでしょう。」
村上弘明は目の前に置かれた白いコーヒーカップの取っ手の部分を少し指に力を入れて聞いた。コーヒーカップが受け皿から少し離れた。いつの間にか店員がコーヒーを三人の前に運んでいたのである。村上弘明は自分でそのコーヒーカップの中に砂糖を入れたのかどうなのかよく覚えていなかった。吉澤ひとみもそのことに興味を持っていることは少し目を開き気味にした表情でその話を聞いていることからわかる。
「それがわからないんですよ。わざわざその倉庫に行ったわけでもありませんからね。」
しかし木下郁太の表情には少し余裕の笑みがあった。次に投げる玉を用意している投手のように、そしてその玉が打者にとって充分な効果のある球だと本人も自覚しているらしい。その言葉にならない腹芸のようなものを村上弘明も感じていた。木下郁太は何かもう少し掘り下げた部分を少しは知っているらしい。そして本人も村上弘明にとってその情報が有効なものだとわかっているらしい。
「福原豪が一泊で東京に泊まりに行ったときのことなんやけど、たまたま無くした伝票を探して福原豪さんの机の引き出しを物色していたら、そのとき福原豪は引き出しに鍵をたまたまかけていなかつたんやな。その中にその倉庫への移送伝票があったんや。品物は保冷材五百箱という事になっているんや。しかし一種類の保冷剤のはずなのに十数種類の品番が書かれているのや。福原豪が関連している会社で保冷材をそんなに大量にいろいろな種類のものを使う会社なんてあらせんがな。単に見本品としてそんなに他品種を取り寄せたとしてもそんなに大量に取り寄せる必要があるやろうか。そこでその保冷材はどこから輸入されているのか見ると中央アフリカのJ共和国という名前になっていたんや。わては信用していなかったんやけどテレビで見たことがあるで。J共和国というのは軍需産業のさかんな国で周辺の内戦状態にある国なんかに自分の国で開発した兵器をただで貸し出してその性能をテストして他の国に売り込むなんてことをやっている国だと聞いたことがあるで、またJ共和国経由で国際条約で輸入が禁止されている商品や原材料も輸入出来るという話を聞いたことがあるで。テレビで言っていたんやけどどこまで本当なのか信じられなかったやけどな。」
村上弘明もその話しは聞いたことがある。J国で開発された生物兵器があるゾーンを越えてその外に出てしまったのでエボラウィルスとなって広がったのだという説だった。それが本当かどうかわからない、まゆつばものの話だがJ国経由で何かが福原豪のもとに届けられたのは事実らしい。そんな作り話をしてもこの木下郁太にとっては何の利益もないだろう。しかし何が福原豪のもとに届けられたのだろうか。
「誰が福原豪の元に届けられたのか送り主についてははわからないのですか。」
「それは知らんがな。」
梶原インターチェンジの休憩所の大きな窓ガラスの向こうには客引きのための黄緑色の旗がひらめいていた。その旗には名物うどんなんとかかんとかと書かれている。そしてその向こうには葡萄園が見える。さらにその向こうには京都方面の山だろうか、滑らかな稜線が見える。テーブルの高さと大きな窓の下の部分の高さがほぼ一致しているので店内に居ながら外にいるような気分になる。店の中には五、六人の客がいるが村上弘明たちが福原豪の秘密をかぎ出すために川田定男から郵送されて来た手紙によって金まで払って福原豪の私設秘書に会っていることを知っているものがこにいるだろうか。遠い距離にあるJ共和国が関わっているという事は見えない何者かがこのインターチェンジの回りを影も音もなく囲んでいるように村上弘明にはした。この店の中の客たちは葡萄園を背景にした田園の風景の中で何も知らず昼食を食べていた。
「その工場の場所を教えてくれますか。」
村上弘明はたまたま栗の木市の全体の地図を持っていた。木下郁太はその工場の住所を言っただけではなく、そのテーブルに備え付けられていたコンピューター恋人占いの申し込み用紙の何も書かれていない白い裏面を使って栗の木団地駅からその工場へ行く道順と工場周辺の地図のあらましを描いて村上弘明に差し出した。木下郁太も車で来ていた。木下郁太がテーブルを離れてからも大きな窓越しに彼の姿を追っていくと白い八人乗りのワンボックスカーに乗り込むのが見えた。その車はハンドルを切ると車の向きを変え、高速車線の方へ向かって行った。村上弘明たちもインターチェンジを出ることにした。村上弘明はハンドルに両手をかけながら横に乗っている吉澤ひとみの顔を見た。吉澤ひとみは背もたれに身体をあずけながら前を見ている。吉澤ひとみの手には栗の木市の地図が握られている。車の天井についている毛糸で編んだマスコットがゆらゆらと揺れた。これは吉澤ひとみがつけたマスコットで村上弘明がこんなものはつけるな、と言っているのに強引につけたのである。
「行く場所はわかっているよな。」
「もちろんよ。兄貴。」
吉澤ひとみの手に栗の木市の地図も握られているし、木下郁太の描いたメモ用紙もある。
「とにかくその工場へ行くんだよね。」
「もちろん。」
村上弘明の乗ったルノーは高速車線に合流した。栗の木市に一番近いインターチェンジにつくには二十分分もかからないだろう。高速の下に大きな木々が途切れ途切れに見える。窓の外の景色は凹面鏡に映った中央部が肥大したゆがんだ映像として映っている。これは時間と空間の関係を表しているようだった。つまり空間が時間の作用によってゆがんでいると。中央分離帯によって仕切られた対向車が向こうから通り過ぎて行くときはその風景は絵を描くようにはけを横に動かしたものとなった。二十分のデートである。時々感じることだが隣の助手席に座る吉澤ひとみを見ながら考えた。村上弘明は吉澤ひとみのことを自分の妹だと感ぜられないことがあるのだ。どうしてだろう。吉澤ひとみは現在十七歳で村上弘明は二十八才である。九つの年の違いがある。しかし何故かその年の差をあまり感じられないのだ。ときどき吉澤ひとみのことを二十代半ばの大人の女ではないかと思うことさえあるのだ。吉澤ひとみは村上弘明がそんな事を考えていることを知っているのだろうか。吉澤ひとみは美しい横顔を真っ直ぐに前に向けたまま助手席のサイドボードの横、運転席と助手席の中間にあるCDのスイッチを入れた。CDのトレイに吉澤ひとみはケースの中から取り出したCDを滑り込ませると車内には音楽が流れ始めた。その曲は村上弘明がまだ東京で芸能関係のプロデューサーとしてぶいぶい言わせていた頃に流行っていた曲だった。その曲を聴くと東京に自分では残して来たと自分では思っている岬美加のことを思いだした。岬美加は今頃何をしているのだろうか。彼女との東京での数々の思い出がよみがえってくる。岬美加は特別に可愛いとも美人だというわけでもなかったが、男がまわりに集まって来た。それは持って生まれた才能ではあったが自然なものというよりも人工的な部分があった。いや、しかし生まれながらにして持って生まれたものだからこそそれが作り物のような感じを与えていても自然と言えるかも知れない。その意味では自然からのさずかりもの、しかし自然の摂理にあっていない印象もあった。岬美加も同じ職場に居たからその集まってくる男というのも芸能関係者や他のテレビ局のプロデュサー、広告会社、俳優、そんな華やかなエリートたちが多かった。そう言ったライバルを押しのけて村上弘明は岬美加を自分のものにしたのである。岬美加を自分のものにしたときは村上弘明は鼻高々だった。しかし何故、岬美加が彼らにもてたのか、今になって冷静に考えるとよくわからない部分もあった。自分も何故、彼女にそのように惹かれていたのだろうか。一時の熱病に冒されていた。岬美加が誰にもわからないような遠隔操縦の機械を持っていて村上弘明のことをあやっていたのではないだろうか。その一言で片づけるにはあまりにも多くの思いでを東京に残して来ていた。要するにあの頃には自分自身エネルギーに満ちていたのだ。そのエネルギーが枯渇したから東京を追われたのだろうか。東京を追われるように大阪に来てからは彼女からは何の連絡もない。村上弘明の方から連絡しても彼女はなかなか電話に出ようとしない、もしかしたら、彼女にはもう男が出来ているのだろうか。そんなことはない、東京ではあんなに激しく燃え上がった恋だったのに。彼女の愛らしいくちびる、神秘的な目、甘くやさしい声、でも何故、彼女の虜になってしまったのだろうか。再び車中に流れている音楽に刺激されて自問自答してしまう。確かに岬美加は可愛いが、特別な美人だというわけではない。美しさという点では遙かに自分の妹の吉澤ひとみには及ばない。東京での数々の思い出、六本木で雨の降る深夜、家に帰る電車もなく、ホテルに泊まった。何故だ。何故だ。しかしその岬美加は今はいないのである。横を見ると吉澤ひとみがにやにやと村上弘明の顔を見て笑っている。
「兄貴、また岬美加さんのことを考えているのでしょう。」
「ばか、そんなことはないだろう。」
すると吉澤ひとみは子供を見るような馬鹿にしたような顔をして村上弘明の方を見た。村上弘明の自尊心はひどく傷付けられた。内心を見透かされてしまったからである。
「ほら、兄貴、前をしっかりと見てこんなところで兄貴と心中するなんていやだからね。」
「わかっていますよ。全くこんな女がS高のマドンナなんてなんで言われているのか、わからないよ。」
「私がそう言ってくれって頼んでいるんじゃないもん。」
吉澤ひとみは洗い晒しのTシャツのように口をとがらした。
「君もいい加減に恋人でも作ったらいいんじゃないの。」
するとすかさず吉澤ひとみは反論した。
「兄貴も岬美加さんから、川田定男に乗り換えた方がいいんじゃないの。」
村上弘明は顔を赤くした。
「ばか、川田定男は男じゃないか。僕にはそんな変な趣味はないの。」
「でも、兄貴、川田定男に憧れているみたいじゃないの。」
「男のロマンだよ。男のロマン。」
「どこがロマンなのよ。単なる総会屋じゃないの。」
「たった一人で資本金が何十億という大会社の株価を自由に操作できるんだぜ、あのKやTでも出来なかったことだよ。」
ペテン師かつ総会屋として十年ぐらい前に闇の世界で一世を風靡したKやTの名前を村上弘明はあげたが、それはまた時代の生んだ申し子だということを村上弘明も承知していた。しかし吉澤ひとみはくすりと笑った。村上弘明は現代のこのかなりゆがんだ英雄にやはりゆがんだ想像と期待を肥大させているようだった。逆に言えば村上弘明がそんな川田定男の持っている力の数万分の一も持っていないことを意味しているからかも知れなかった。それでもやっぱり吉澤ひとみは村上弘明の子供っぽく思う。村上弘明は川田定男に対して空を飛ぶスーパーマンをイメージしているような気がした。村上弘明は川田定男に会ったことがないから余計そう感じているのかも知れなかった。いつまでも村上弘明がそんな思い出に浸っていても仕方がないと思ったのか、吉澤ひとみはCDを取り出した。すると車についているオーディオ装置は電源が落ちていなかつたのでラジオに切り替わった。そこに関西で人気のあるパーソナリティが出て来た。
「今日は思い出の人という番組やで、今日も忘れられない人を捜し出す企画です。今日は少し変わった人が出て来ました。この前の、疑獄事件で検察に引っ張られて、捜査を受けたという運転手さんです。その運転手さんはお亡くなりになりましたがその奥さんがスタジオの方に来てくれました。確かあの事件は首謀者の政治家がクロの判断をされて政治家生命を失った事件ですね。その政治家に雇われていた運転手さんの奥さんです。あのときは大変でしたね。今日はどんな人を捜していらっしゃるのですか。」
「ええ、主人はもう死んでしまったんですが、老衰でした。でも刑務所の中で自殺する寸前まで行ったんです。でも、助けてくれた人がいるんです。」
「どういう事ですか。わてにもわかりやすく教えてください。」
「わての主人は死んだ真壁六郎先生の運転手をやっていたんです。真壁六郎先生は真壁証券の社長でもありました。検察に証券に関する不正な政策を遂行するために不正な裏工作をしたことで追いつめられていました。それで私の主人も真壁六郎先生の秘書をやっていたことで検察に捕まってしまったのです。しかし検察のやり方はひどいものだったんですわ。私の主人に狙いをつけて来たのです。犯罪をやっている真壁六郎先生の方は検察の上の方の人がじきじきにお出迎えになり、失礼のないようにと気を遣っていました。冷暖房完備の部屋に三時間だけ入っただけで一時保釈金を払ってすぐ出て来ました。そこで検察は運転手である私の主人に目をつけたのです。いろいろな法律を引っ張って来て私の主人は窓もなく光も入って来ない取調室に入れられてこうこうと電気をつけられ眠れないようにされてやくざのような取調官に五人ぐらい囲まれて重要な鍵となる証言を強要されました。三十六時間連続でお前は真壁六郎が運んでいたのが札束だと見たんだな。とマシンガンのように何千回となく言われたそうです。でも途中で十分だけ休む時間があって休み時間に真壁六郎先生の知り合いという人から電話がかかって来ました。その内容はここで自分が札束を運んでいることを検察に話せばお前は主人をないがしろにする運転手だと世間様に顔向けできなくなるんだぞ。そんな事で次の就職口が見つかると思うのかと脅されたそうです。二日後に私が会いに行ったときはげっそりとやせていて今にも自殺をしそうな雰囲気でした。私も絶望して家に戻ってくると電話がありました。全く知らない人物でした。運転記録を全部提出してくれれば私の主人を助けてくれるという話でした。私はわらにもすがりたい気持ちでしたのでそうしたのです。それからです。真壁六郎先生の証券会社がつぶれたのは。保釈金の払えなくなった真壁六郎は再び刑務所に入れられて、主人は拷問のような取り調べから解放されたのです。」
「自宅にかかって来た電話の主にお礼をしたいと。」
「ええ。」
「でも、探し出すのは大変ではないでしょうか。」
今までラジオを聞いていた村上弘明が急に声を出した。
「これだよ。これが川田定男がやったことに違いないよ。」
「でも、いくら高級取りだからと言ってもつぶれた証券会社の人たちはどうするの。」
吉澤ひとみには少しの疑問が残った。
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