羅漢拳  第28回 | 芸能界のちょっとだけ、知っていることについて

芸能界のちょっとだけ、知っていることについて

芸能人の追いかけを、やったりして、芸能人のことをちょっとだけ知っています、ちょっとだけ熱烈なファンです。あまり、深刻な話はありません。

第28回
江尻伸吾
大阪府警の広報部長室は一昔前の刑事ドラマにでも出てきそうなほど古色蒼然としていた。部屋を仕切る目隠しの衝立はベニヤ板にニスを塗ったもので作られていたし、その衝立の前にはイカを逆さまにしたような帽子かけが立ててあり、さらにその前には厚手のベニヤ板をその周囲を見栄えよくカットしたウォールナットのニスが塗られた机が置かれガラスをダイヤのようにカットした見栄えは良いが安物の灰皿が置かれていた。その灰皿はかなり長い間使われていたらしくきれいに洗われていたにもかかわらずガラスの表面はすっかりと光沢を失って曇っていた。そこが広報部の応接室でさらに壁の横に廊下に出なくても行ける部屋があり、そこが事務室でそこで広報部の警官が事務を執っている。窓のところには薄い板を何枚も重ねたようなブラインドではなく、場末の映画館の幕のようなカーテンがつり下がっていた。そのカーテンもかなり古く痛んでいる。小柄でその小太りの体から雪だるまを連想させるこの広報部長尼山六兵衛は酔うといつも若い頃の唯一の自慢話、筒石事件のことを同じ課の若手に話すのだった。尼山六兵衛がその事件の指揮を執ったというわけではなかったが彼が関わった唯一の昭和の犯罪史に残るような事件だったからだ。筒石事件の指揮を執ったのは若い頃の尋問のテクニックからカツ丼刑事と呼ばれた、落としの名人、中山正吾だった。中山正吾が取り調べにおいてカツ丼を始めて取り入れたと警察史の雑学の今は古典となってしまったが昭和三十五年に刊行された尾木野勘助の警察現場捜査詳解記述には書かれている。今はその事件のことを知る人間はほとんどいないかも知れないが、何の政治的力もなく、ただ現場捜査をすることだけをモットーにしていた中山正吾が政治的に微妙な問題を含んでいるあの事件を解決したことは希有な出来事として現代の警察史の研究者も新たに取り組んでも良いかも知れない。それほどあの事件は重要であり、歴史に残るものだった。筒石というのは新潟県の上越市にある日本海に面した小さな町でその場所と東京を結んで事件は起こった。かいつまんで言えば中国で特殊政治工作の訓練を受けた秘密工作員が筒石を根城にしてその本来の目的を離れて自分たちの収得したスパイ技術や工作用の秘密機械を用いて麻薬の搬送と密売をやっていたという事件だった。この事件においては中山正吾が中国本土に渡り、秘密工作員の本部の協力を得て、何しろ自分たちの分身が起こしていた事件だったからその手の内を全部知っていたので彼らの裏をかき全員を逮捕することができたのだつた。そのとき尼山六兵衛は新潟と東京を行き来して犯人逮捕の一翼を担ったのだがその頃にはもちろん新幹線などなく東京から筒石へ行くには四時間近くかかったから捜査のめども立たない間にそこへ行くことは精神的にも非常に疲労困憊したことだろう。しかしその苦労もあって事件は解決した。そしてその事件が彼の関わった事件の中では日本の犯罪史上に残る唯一の事件だった。だから酒がまわるとその若い頃の輝かしい武勇談を誰彼となく周りの誰にでも吹聴して歩くのだった。その姿はラッパを口にくわえた雪だるまのようだった。
「浜館さんは今、何をやっているの。」
尼山六兵衛は今は現場から離れて広告の方に移っている村上弘明が二、三度しか話したことがない警察回りの記者の名前を出した。天山六兵衛の人物評価によれば日芸テレビの人間で浜館を知っているかどうかということが信用出来るかどうかという判断の基準になつていた。そして報道探検隊の村上弘明という名前は彼にとっては煙たい名前だった。尼山は二つの仮定を立てていた。いい方の仮定と悪い方の仮定の二つだった。いい方の仮定としてはつい二ヶ月くらい前に解決した大阪市内の雑居ビルの二階にあった偽造五百円硬貨の製造場所を特定し、証拠物件と重要参考人を五人ほど確保したことだった。製造場所と言っても偽造硬貨の試作場所と言った方が良い場所だった。外国から運ばれた偽造硬貨の試作品がここを中心としていろいろな自動販売機で使われ、また修理解体屋から取り寄せられた硬貨の選別機と組み合わせて新しく対応した自動販売機で使用できるように偽造硬貨の手直しがなされていた。そんなアジトを見つけたのだから大阪府警ははな高々だった。尼山はそのことでテレビ局の取材が来ることを内心期待していたのだがもっともそのための捜査のためには特殊な自動販売機を利用しなければならなかった。
「御免ください。」
入り口のドアが開いて風呂にも入らないような感じの髪型が変な今にも死にそうなバッタのようなやせた男が広報室に入って来た。尼山六兵衛はその人物の顔をちらりと見ただけで返事もしなかった。
死にそうなバッタは村上弘明の方を見ると警察官が職業上の必要から身につけた威圧的な表情を村上弘明の方に向けたがその偉力は皆無だった。
「資料を取りに来ました。」
バッタはそう言うと広報室の奥の方の部屋に消えて行った。尼山六兵衛は苦々しい表情をしながら彼が部屋の奥に入って行くのを見送った。村上弘明は彼らの間にある種の距離があることを何となく感じとった。今回の偽硬貨のアジト発見においてはこのバッタが多くの役割を担っていたのである。アジト発見のポイントになったのは自動販売機のある工夫で、この犯罪捜査のために開発された自動販売機がなければ犯人のアジトは発見されなかっただろう。一つ目の自動販売機は難波のあたりを中心にして二十台くらい投入された。それは正規の自動販売機を改造したもので変造硬貨も受け付ける仕組みになっていた。ただし、変造硬貨が機械の中の識別装置を通り抜けるとそのことが認識されテレビカメラと連動して犯人の姿を撮影する仕組みになっていた。そのテレビカメラも自動販売機の中の外から見てもわからないように内蔵されていて犯人の姿を写した。そしてここがポイントなのだが釣り銭にこそ特殊な仕組みがなされていた。これはこの大阪府警のバッタ、本名を江尻伸吾というのだが彼のFBI帰りの知識がなければ開発できなかったことだろう。FBIの犯罪装置研究所において開発されたもので人体に有害にならないほどのある二つの放射性物質をある割合でゆるく結合させると、これはイメージ的な言葉で、専門的には結晶構造に関した専門的な定義がなされているらしい、微弱な固有周波数を持つ電磁波を発生させるという最新の量子力学の応用でその金属を個別に識別ができるのだ。つまり一つ一つの数ミリグラムの金属片が個人名を持つということになる。そしてその金属片の埋め込まれたお釣りの硬貨を識別するために同じく難波を中心にして二十数台の警察の用意した自動販売機が設置された。そこから偽造犯のアジトを割り出すことに成功したのだ。だから一番のお手柄は改造された自動販売機ということになる。そしてその自動販売機を作ったのはFBI帰りの江尻伸吾ということになる。しかし尼山六兵衛はそのことを認めたくなかった。江尻伸吾の経歴は変わっていた。創生期のマイクロソフト社においてビル・ゲイツとOS言語の製品化に当たっていたが、そのあとアップル社のスティーブ・ジョブスと共同経営を始めた。その後、スティーブ・ジョブスが一時期会社を追われたのに従って彼もアップル社を退き、FBIの犯罪研究所に入って犯罪捜査のための装置の研究開発に当たり始めたのだ。彼を大阪府警に呼び込んだのは警察関係者の中でも狂人として知られていた神山本太郎だった。彼の本名は山本次郎というのだがある理由から彼は神山本太郎と名乗り始めた。父親の名前は山本太郎といい、売れない詩人だった。もちろん詩人で財をなした者はいないだろうが山本一家は赤貧洗うような状態だった。山本次郎は猛勉強をして官僚への道を歩き始めた。山本次郎は警察に入ってからは父の名前をつぎ神山本太郎と名乗り始めた。彼が二十三才で研修のおりは共産圏の秘密警察に留学した。そこで彼は尋問の研究を続けたのである。
そして五年の留学の後に大阪府警の署長に二十八才の若さで迎え入れられたのである。その彼が江尻伸吾をFBIからこの大阪府警に呼び込んだのだった。大阪府警では二大勢力が拮抗していた。それは尋問の仕方においてカツ丼派と呼ばれる中山正吾を師として仰ぐ一派である。そしてもう一派は神山本太郎を中心とする拷問派と呼ばれる一派である。もちろんあからさまな物理的暴力に訴えるのではないが、やり方としては自白剤の投与、寝させない、銀行口座の停止、家族の監禁、光の入らない部屋に三日間閉じこめるなどというものがあった。それに対してカツ丼派は容疑者を一ヶ月ほど閉じこめて、その間にその家族のところに行き、お手伝いさんをやったりして、その家の子供と一緒にお風呂に入れるまで仲良くなり、お手紙を容疑者に届けたり、最後は容疑者にカツ丼を食べさせて自白を促すというやり方だった。この二派が大阪府警内では対立していたのだ。江尻伸吾は前者に、尼山六兵衛は後者に属していたからお互いに反目しあっていた。それが今回の神山派の点数を上げた快挙である。尼山六兵衛はおもしろくなかった。それにカツ丼派には失点があった。それが村上弘明と吉澤ひとみが大阪府警にやって来たとき、このテレビ局のリポーターが今度の警察の不祥事をかぎつけに来たのではないかと懼れた理由だつた。ある暴力団の幹部が刑務所に収監されたとき、まだ盗品のルートが確定していなかった。それでカツ丼派の出番となり、一人の刑事がこの暴力団の幹部の家に入り込みお手伝いさんを始めた。その家庭がよくなかった。この幹部の女房というのがある映画会社のニューフェースとなった評判の美人でその刑事は自分の業務を忘れてその女房と駆け落ちしてしまったのである。もしかしたら、この二人のリポーターはそのことを記事にしに来たのかも知れない。何も言わないうちから村上弘明と吉澤ひとみはすでに応接室のソファーに腰掛けていた。
「ここら辺の交通量も最近増えたと思いませんか。それでも割と交通の流れはスムーズやからね。これも違法駐車の取り締まりに効果が上がって来たということやないかな。これは警察に点数をあげてもいいんやないかと思うんや。どないやろう。本当に大阪人はどこにでも駐車しよるからな。」
「私は東京にいたんですが東京でも同じようなものですよ。」
「じゃあ、大阪府警の交通行政について取材に来たんじゃないの。じゃあ、あれやろ、偽造硬貨製造のアジトが見っかったんやで、あれは大阪府警のお手柄や。うちからもあの事件に関してはぎょうさん人を出したからな。」
すると広報室のドアの向こうからせき込むような音が聞こえた。
「あの事件のことでテレビ局から来なはったんやろ。そならもう少し早く来てくれなきゃ。」
「いいえ、違うんです。」
村上弘明の横にいた吉澤ひとみが声を出すと尼山は今度は吉澤ひとみの方を向いた。
「あの偽金事件の解決じゃないとすると、ここ最近でテレビ局さんが飛びついてくるような事件があったやろうか。」
尼山六兵衛は首を斜めに傾けた。
「そんな新聞に載るような大きい事件じゃありませんわ。ある看護婦、元看護婦なんですけど彼女から聞いたんですけど、K病院って知っていますか。」
「いいや、知らない。どこにある病院なの。」
「栗の木団地駅のそばです。」
尼山六兵衛はそう聞いて安心したようだった。
「福原豪氏って知って居るでしょう。あの人が作った病院なんです。」
「もちろん知っていますわ。関西では名前の知られた経済人やからね。」
「じゃあ、逆さの木葬儀場って知っていますか。」
「それも知っていますよ。いつだったかな、昔あそこに遠足で行ったことがあってね。遠い昔のことですわ。」
「その葬儀場の管理人のことなんですけど、栗毛百次郎という人、昔は城主だったけど今はすっかりと落ちぶれて葬儀場の管理人をやって細々と生計を立てているんですが、その人がK病院の看護婦さんに痴漢行為をしたというんですけど、警察の方ではちゃんと調べてくれないと言ってK病院の看護婦さんが文句を言っているんです。何故、警察の方ではちゃんと調べてくれないんですか。」
「突然、そう言う話をこっちの方に持ち込まれてもねぇ。警察と言っても巨大な組織ですからねぇ。だいたい、その栗田、なんと言いましたっけ。」
「栗毛百次郎です。」
「その人物が痴漢行為を働いたというのは確かなんですか。あっ、そうだ。思い出した。栗毛百次郎ってそこら辺にある城の城主だつた人やないか。なんかでその名前を見たことあるわ。」
「ええ、逆さの木城の城主だった人ですよ。」
「何で、そんな偉い人が痴漢なんてするの。」
「昔は偉くて、金持ちだったかも知れないですが、子供の頃に家がすっかりと落ちぶれて独り身で貧しい生活を送っているんです。」
「だいたい、栗毛百次郎が痴漢をやつたかどうか、それを調べるのが警察の仕事でしょう。」
「そんなことをいちいち調べていたらカツ丼が何杯あっても足りないやろ。」
尼山六兵衛は口の中でぶつぶつとつぶやいたが吉澤ひとみには彼がなんと言っているのか、聞き取れなかった。
「そもそもですなぁ、警察にはそういう訴えが毎日、どのくらいあるのか、ご存知か。」
「いくつあるんですか。」
尼山六兵衛は口をつまらせて答えられなかった。
「警察は住民すべてのためにあるんですわ、テレビ局さんのためにあるわけではないんでね。」
「私は住民を代表して来ているわけですよ。そもそも、栗毛百次郎が痴漢行為を行ったかどうかということより、何故、その事件が途中でうやむやになってしまったかということの方が重要なんですよ。そこに関西を代表する経済人の福原豪の影響があるからではないかということを問題にしているわけです。あなたも福原豪のいろいろとよくない噂についてはご存知でしょう。」
「まあ、知らないわけではありませんがね、私がこんなことを言ったなんて記事にしないでくださいよ。」
そう言いながら尼山六兵衛は吉澤たちがテープレコーダーを持っていないか、じろじろと見回した。そのとき少し離れた棚の上にある内線電話がなり始めた。
「もしもし、何だ。うん、わかった。」
電話を受話器の上に置くと彼は吉澤ひとみたちの方を振り返った。
「急用ができたので、ごめんなさいね。この穴埋めはそのうちしますわ。」
尼山六兵衛は警察人でありながら商売人のような愛想の良さを見せてこの場を離れた。彼にとってはそれは都合の良かったことかも知れなかった。
「兄貴、あいつ、うまい具合に逃げたわね。」
「このまま、話していてもこっちは何も重要な栗毛百次郎に関したことを知らないんだから仕方ないさ。」
「仕方ないことはない。」
そのとき応接室の隣のドアが開いて今にも死にそうな、それでいて、しぶとく生に執着しているような感じの男が身を出した。
「今の話、ミーが聞いていました。ドュ・アンダースタンド。」
「彼は警察の本分が何であるかアンダー・スタンドしていない。疑わしいときこそ警察が働くべきでしょう。」
「あなたは。」
「失礼、先に名乗るべきでした。ミーはムッシュ、江尻伸吾ともうします。」
この男がこの広報室に入って来るときも吉澤ひとみはちらりと見ていたが、そのときはまるで今にも死にそうなバッタのようだったが今はすっかりと元気だ。まるで昔、算盤を片手に漫才をしていたコメディアンがいたがその話し方はそれに似ていた。死にそうなバッタから今は地獄から出て来た気の良い伊達男の悪魔という感じだった。
「あなたは、もちろん、警察関係の方ですよね。」
「ウィ、ムッシュ、二年前にはFBIに勤めていました。ゼロゼロセブンを見たことがありますかな。あそこでジェームス・ボンドがいろいろな秘密兵器を使うでしょう。ああいう物の開発を担当しています。」
そう言って窓のそばまで行くと江尻伸吾はブラインドの隙間から隣の交通安全協会のビルを指し示した。
「あそこで研究を行っているんでがす。ここもカツ丼派とミーたちみたいな維新派の対立があるんでがす。」
「カツ丼派。」
吉澤ひとみがいぶかしがって聞いた。
「尋問のあとにカツ丼を出すんでげす。」
「じゃあ、維新派というのは。」
「自白強要剤から始まって、催眠術、眠らせない、効果的な方法を使って泥をはかせるんでげす。」
村上弘明はこれは大変な人物に出会ったと思った。公的機関である警察に何でこんな人物がいるのだろうかと思ったが、何か役に立ちそうなのでこの男に話しを合わせておくことにした。カツ丼派である尼山六兵衛が居ないことが江尻伸吾の口を軽くしているのかも知れなかった。
「カツ丼派はこの大阪府警の恥でがす。あんな奴らがいるから検挙率が下がるんでがす。」
「維新派って何人いるんですか。」
「神山本太郎署長、・・・」
それから江尻伸吾は指を折って人数を数えるふりをしていたがすぐに数えるのをやめてしまった。
「とにかく維新派が増えなければこの大阪府警の改革はなされませんね。あの尼山六兵衛の態度を見てもわかるでしょう。警察官が船場の商人みたいな態度をとっていていいと思いますか。あなた方はここにどんな用件で来たのですか。いや、言わないでいいでがす。ドア越しに聞いていましたから。偽金作りがどうとかこうとか言っていましたがあれもみんなミーの開発した固有周波数発生金属がなければ成功しなかった捕り物でがす。まあ、そんなことはどうでもいいでがすが、お二人とも逆さの木葬儀場の管理人が何故、痴漢を働いていたのに警察が動かないのかと言っていましたね。少しはミーがあなた方の力になれるかも知れませんでがすよ。ミーの研究開発室に来て見ませんこと。」
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江尻伸吾の研究開発室は大阪府警の向かいにある交通安全協会という小さなビルの最上階の五階にあった。大阪府警の前が三つ又になっていて陸橋が離ればなれの島にかかっていてその陸橋を渡って交通安全協会のビルにわたることができた。もともとある保険会社のビルだったらしいが十年ほど前に交通安全協会がこのビルをゆずり受けたらしい。アコーディオンのようなドアをあけてエレベーターに乗り込むと五階でエレベーターは止まった。五階の鉄製のドアを江尻伸吾は鍵を取り出して開けた。ちょっと歴史のあるような古色蒼然とした、中古の、と言うのはあけるときにドアの蝶番のところがぎしぎしと音をたてたからである。しかしそれでいて軽い装飾のほどこされたそのドアを開けると村上弘明の目に飛び込んで来たのはほおずきを逆さまにしたような形をした金魚鉢とその中で松藻の間を泳いでいる金魚の姿だった。金魚の鉢はドアを開けてすぐ目の前にあるカウンターの上に置いてある。カウンター向こうにはなにやらねじれた感じのフラスコやそれにつながっているくるくるストローのようなガラス管、不気味な腐ったような緑色の液体の残っている試験管、赤いインキを水で薄めたような液体の入っているビーカーなどが部屋の左側の机の上に乱雑に置かれている。その机の横にはラック形式ではめ込まれている計測機械が五、六台置かれていた。金魚鉢の向こうの正面には頭蓋骨からつるされた人体の骸骨模型が横を向いて立っている。そのうしろにはとじひもで閉じられた資料が棚の中に乱雑に投げ込まれていた。それに反して、吉澤ひとみがこの部屋に入ったときから、何か、無機質な機械の動作する音が聞こえると思ったのは間違いがなかった。右手の方には最新式の電話局の交換機が多数収納され、作動していたからである。部屋の真ん中は両翼に十人ぐらいづつ座れる大きな大理石の机になっていてその机の真ん中はたて一列にテレビのモニターが埋め込まれていて机の両脇からその画面がのぞき込めるようになっていた。それらの家財道具の間にには黒い網で覆われた名前のわからないような鑑賞植物がいく鉢も置かれていて、触るべからずという札が貼ってある。入り口の左には大きな流しとガス台が置かれていた。右の方には入り口と同じような旧式のドアがあってその上にはトイレットと書かれている。部屋の大きさは左右に五メートル、奥行きが七メートルぐらいあった。
「おおっ。マドモアゼル、触らないで、エクスモゼ。」
吉澤ひとみがその珍しそうな鉢植えの植物を黒い網越しに触ろうとすると地獄から這い出て来た伊達男はあわてて吉澤ひとみを押しとどめた。
「マドモアゼル、これは大変な猛毒でござんしょう、触ると肌がただれるでざんすよ。」
吉澤ひとみは少しむっとした顔をした。
「マドモアゼル、あなたの仰りたいことはわかるでがんす。何で警察の中でこんな植物を育てているかってことでござんしょう。マドモワゼルの言うことはもっともでごんす。これは最近、生駒山の古豪の家で野生の毒草を使った毒殺事件があったでごんす。そのための資料でごんす。エクスモゼ。」
「江尻さん、仮にもここは大阪市民の税金を使って建てられた警察の機関ですよ。そんな勝手なことが許されるのですか。」
村上弘明はこの大仰な部屋の中を見回しながらあきれた顔をした。
「ノン、ノン、あなた方はカツ丼派に毒されているざますね。警察の犯罪捜査のゴールは何でごんすか。犯罪者の検挙でざます。われわれは法の番人でごんす。それが大阪府警の使命であり、市民に対する義務ざましょう。そのためには予算を最大限に割いてもらうのが、もっとも大阪府警を有効にアクティブ状態にする条件でごんす。おわかりかな。」
「そんなことを言っても訳の分からない植物を都会のど真ん中で勝手に栽培なんかしていいんですか。危ない植物なんかも栽培しているんじゃないですか。」
「ノン、ノン、ミーは法を守る者、あの川田定男なんかとは違うでごんす。」
川田定男の名前が出て来たので村上弘明は耳をそば立てた。
「江尻さんは川田定男のことを知っているんですか。」
「オー、イェー、あの義賊気取りの男でしょう。」
「兄貴は川田定男フリークなんです。」
「余計なことを言うなよ。」
村上弘明は耳を赤らめた。江尻伸吾は明らかに不快な顔をした。
「世の中のことが分からない人の中にはよくああいう人物を偉い人だと勘違いする人間がいるざんすよ。要するにあの男のしていることは株の不当な操作ざましょう。それも詐欺まがいのことをして。自分の私服を肥やすためにやっているんでざましょう。あれは最近捕まったあの詐欺の相場師と違いがないでごんす。」
村上弘明は内心、不服そうな顔をした。もしかしたらこの変な錬金術師は川田定男にライバル心を持っているのかも知れないと村上弘明と吉澤ひとみは思った。そう感じていることを微妙に江尻伸吾は感じとったのかも知れない。
「川田定男のやっていることぐらいなら、ミーと神山本太郎署長が共同で開発したこの装置を使えば簡単に出来るのことよ。」
そう言っておフランス帰りの伊達男はこの部屋の右手にある最新式の電話交換機みたいな機械を指し示した。
「ミーがこの装置について説明するざんす。これを使えばあなたたちがここを尋ねたというのも無駄じゃないということになるでごんす。これもみんな神山本太郎署長が金を出してくれなければ実現しなかったでごんす。うーん。」
ここで江尻伸吾は感嘆のため息をついた。そう言いながら彼は左手にある流しの方へ行き、アルマイト製のやかんに水をつぎながら吉澤たちにこの部屋にある大理石製の長い机につくように言った。
「今、紅茶をわかすから机に座って欲しいでごんす。」
見ると流しの左端の方に木製の食器棚が置かれて中に紅茶茶碗が逆さに伏せられて置かれていた。吉澤ひとみが机に座って後ろを振り返ると若いのか年をとっているのかわからない江尻伸吾がたくましいわけではないのに節くれ立った指で不器用にレモンを切っていた。吉澤ひとみは急にびっくりした。急に光りを感じたからだ。机の真ん中に埋め込まれているテレビの電源が入ったからだ。
「ああ、お嬢さん、びっくりしたみたいだね。そうでしょう。ミーにはわかるでごんす。その机の真ん中に埋め込んであるテレビは人がこの部屋に入って五分経つと自動的に電源が入る仕組みになっているでごんす。」
江尻伸吾は片方に包丁を持ちながら吉澤ひとみの方を振り返りながら声をかけた。机に備え付けられている椅子は鉄パイブが骨組みになっていたが厚い一枚皮が張られていた。吉澤ひとみと村上弘明はこの会議用の大理石の長椅子が大きいので江尻伸吾が立っている流しの方に座っていた。江尻伸吾は紅茶をいれて村上弘明と吉澤ひとみの前に置いた。そして彼は吉澤ひとみの横に座り、自ら紅茶をすすった。
訳の分からない植木の向こうに電話交換機の親玉のようなものが壁一杯をしめていてパイロットランブがぴかぴかと点滅していた。吉澤ひとみたちの前にはかりんとうも置かれていた。江尻伸吾はそのパイロットランプが点灯しているのを見て満足そうだった。彼はかりんとうをぼりぼりとかじった。
「さっき、江尻さんは川田定男のやっているようなことだったら、自分にもできると言いましたよね。どういうことですか。」
村上弘明がこの算盤漫談の親玉みたいな男が川田定男にライバル心を燃やしているのではないかと思ったのは当たっているようだった。
「川田定男のやっていることはほとんど詐欺のようなことでがしょう。そうでがしょう。ミーなんか、この装置の配線を変えればあんなことなんか朝飯前でがんす。、大阪府民の税金でやっているからそういうわけにもいかないんでがすが、それができれば川田定男のやっていることなんていとも簡単にできるってことでがんす。」
「よくわからないんですが。」
吉澤ひとみは異議を唱えた。
「これざんすよ。」
江尻伸吾は右手の壁一面をすべてしめている低い作動音をたてながらパイロットランプの点滅している電話交換機の親玉みたいなものを自分の子供を見るように目を細めて眺めた。
「これを使えば株で大儲けすることなんていともたやすいことでがんす。」
そう言って伊達男はあごをしゃくりあげた。
「こっちにご注目あれ。」
気が付くと江尻伸吾は安物のテレビのリモコンを片手に持っていた。吉澤ひとみと村上弘明は思わず手に持っていた紅茶茶碗を宙でとめた。芝居気たっぷりに伊達男がリモコンのボタンを押すとテーブルの真ん中に埋め込まれている十数台のテレビが一斉について電源の入った小さな音がして吉澤ひとみは静電気が生じているのを感じた。
江尻伸吾がリモコンのボタンをいじくるとテレビの画面にホームページのようなものが動きだした。
「吉澤さん、今年の五月十二日に大阪刑務所でオムライスを食べたのではないかな。時間は十四時二十八分以降ではござらんかな。」
江尻伸吾はそう言ってまた得意そうに顎をしゃくった。村上弘明は確かに五月の中旬ころ大阪刑務所に取材に訪れたことがあるような気がした。そのとき確か案内した刑務官にたのんで出前のオムライスを頼んで食べたことがあるような気がする。しかしそれが事実だとすると江尻伸吾はどんな手品を使ったのだろうか。よくあなたの誕生日をあててみせますと言っていろいろな日付を聞いてそれらの日付からの組み合わせでその人物の誕生日をあてる手品があるが、ちょうどそれにかかっているような気がした。しかし、村上弘明は江尻伸吾に何も言っていない。伊達男は少し得意気に鼻でせせら笑った。
「お主も報道の仕事に携わっている者ならこの大阪で起こったまことに興味深い事件を見逃しているとは笑止千万じゃぞ。」
いつの間にか江尻伸吾の口調は侍のようになっていた。江尻伸吾は口元に不気味な笑みを浮かべた。
「まず、君たちの住んでいる町で起こった事件でごんす。君たちの町のはずれた場所に照光寺という人が住まなくなってうち捨てられた古寺があるじゃろうが、そこで奇怪な事件が起こったことをご存知かな。そのあたりには何の建設用の重機もないのにかかわらずじゃ、夜があけたら古寺の屋根は落ちていてぺしゃんこになっておった。柱が何かにへし折られたからじゃ。そして古寺の回りの古木も幹の途中から変な具合に折れており、人間ではとても動かせないような大きな庭石の位置が違っていたり、墓石がこなごなに砕けておったりした。」
それは吉澤ひとみが松村邦洋と学校新聞のネタになると思って取材に行った事件だ。吉澤ひとみは当然、その不思議な出来事のことを知っていたが村上弘明はそのこと全くを知らなかった。
「まあ、この不思議な出来事のことは一部の新聞には載っていたでがんすがね。出来事という言葉を使ったのは被害者がいなかったからでごんす。無人の荒れ寺がつぶれただけでごんすからね。さらにどこの新聞でも取り上げなかった出来事で不思議なことがこの大阪で起こっているでごんす。ご存じかな。」
ここで江尻伸吾は目をぎょろりとさせて顔を斜めにして顎を再びしゃくった。
「大阪府立体育館をご存知かな。大阪に住んでいるのだから当然、耳にはしているだろう。変事はそこで起こったのじゃ。怪物プロレスラーとして広く世間に知られているゴーレムという招待選手の試合が日本の興業団体の段取りで行われた。ゴーレムは怪物めいた能力の割に試合においてはいつもクールだった。金めあてでその突然変異のような巨体を使っていたから試合が終わればいつでもすぐにロッカールームに引き上げて行ったのだが、その日は違っていたでごんす。」
吉澤ひとみは兄の村上弘明は知らないことだったがその試合会場に松村哲也や滝沢秀明と供にいたからその試合会場での出来事は知っていたが黙っていた。しかし、江尻伸吾はその場所に行ったのだろうか、さもなければ誰か情報提供者の力によってその情報を得たのだろうか。
「その試合会場で何かあったのですか。そのプロレスラーに関して。」
「それが大ありでがんす。いつもならその恐竜のような巨体を利用して早々と試合を終わらせて引き上げるのがいつものゴーレムの試合パターンなのじゃが、その日は違っていた。試合会場に意趣返しだと言ってある空手家がリングの隅にやって来て決闘を申し込んだでがんす。いくら身体を鍛えているからと言って相手は突然変異で生まれたような怪物だ。最初のうちは良かったがたちまち空手家の方の形勢は不利になってぼこぼこにやられ始めたでがんす。試合会場にいた観客は最初は空手家を応援していなかったがあまりに体格の差は如何ともしがたく、その上空手家が負け初めてぼこぼこにされているのを見て空手家の方を応援する気になっていたでがんす。そうしたら。天井から墨染めの衣を着た若い僧が降りて来て怪物を一撃で倒してまたどこへともなく消えたのでがんす。しかし、ミーはそんな表面的なことに目を奪われているのではないでがんす。ちょうどその頃ゴーレムの控え室で盗難が起こったらしいでがんす。それは後になって関係者が気づいたでがんすが。ゴーレムは誰にもその中身を教えないでがんすがいつも肌身離さず持ち歩いていた金属製のアタシュケースがあったでがんす。どうもそのアタシュケースが盗まれたらしいでがんす。その二、三日後にゴーレムは急遽帰国してしまったでごんす。ここ数ヶ月でこの大阪でこんな不可解な事件が起こっているんじゃ。お二人はそのことを知っておったかな。」
「もちろん、知りませんでした。江尻さん、あなたがそういう話をするということはK病院で起こった痴漢事件についても何か情報を持っているということですか。」
村上弘明はかりんとうをぽりぽりとかじりながら江尻伸吾の目を見た。
「ミーはその事件のことは知らないでごんす。しかし、たちどころにそのことを調べることができるでごんす。ただし、その元看護婦が一言でもその痴漢事件についてどこかの交番か、相談所にしゃべっていればでがすがね。」
「と言うと。」
すると伊達男は顎で電話交換機の親玉みたいなものを指し示した。
相変わらすその機械はぱちぱちとパイロツトランプを点滅させている。
「これは神山本太郎署長の特命で作られたものでごんす。ミーが留学中の研究と神山本太郎署長の情熱がなければこの装置は完成しなかったでごんす。同じようなものが東欧にあるでごんすが、ミーの作ったものの方が規模が大きい、その上、東欧の方が広い地域に張り巡らしているのに対してミーの方は大阪府内だけに限定しているのでがんすからその密度は遙かに高いでがんす。ミーがこうして話している間にもこの機械は稼働しているのでがんすよ。うひひひひ。」
江尻伸吾は下品に笑った。
「この機械で何できると言うんですか。何か、電話交換機の親玉みたいだけど。」
吉澤ひとみがテーブルの上に置いてある安物のテレビのリモコンをいじろうとするとあわてて伊達男はそれを遮った。
「だめだめ、それをいじったら、マドモワゼル、一般人には見せられないものがいっばいでてくるからね。よろしいかな、マドモワゼル。」
「でもなぜこの機械で僕が刑務所に取材に行ったときオムライスを食べたとわかったんですか。」
「ウィ。」
江尻伸吾はフランス語で同意したが小さな子供だったらその答え方も可愛いだろうにと吉澤ひとみは思った。
「この機械は神山本太郎署長の強い肝いりで制作されました。そもそも東欧の秘密警察がその原型を考え出したのじゃが部品の信頼性はあまり高くなかった、そこでミーは大阪の日本橋で部品を調達してリメークしたでごんす。この機械のさきには大阪府内のすべての交番の電話、大阪府警、裁判所、刑務所、救急病院、大阪市役所の市民苦情相談所、等々すべての苦情が持ち込まれそうな場所には有線、無線を問わずその電話線とつながっているでごんす。また神山本太郎署長のたっての願いにより大阪府警の課長以上の自宅の電話線にもつながっているでごんす。その電話線を通してその電気信号がこの機械に入ってくるでごんす。この機械に入ってくるとその電気信号はデーターか、音声信号かに分類されるざます。データーはそのままこの機械に入るざます。音声信号はこの機械に入るとその声紋を分析してその氏名を割り振るでごんす。それから音声信号はデーターに変換されて情報の圧縮がなされるでごんす。このリモコンでこの機械を操作するでごんす。だからこの機械の中には日芸テレビ、ニュースキャスター、村上弘明氏に関した項目が何百と入っているざますよ。うしししし、それであなたがうちの広報課に来たときにあなたの項目を調べて大阪府刑務所を訪れたときにオムライスを執務官が出入りの洋食屋に注文をしているのを調べたでごんす。ちなみにこの機械の名前は神山本太郎署長の栄誉を祝して神山本次郎と名付けているざんすよ。」
吉澤ひとみは話しを聞いていて胸がむかむかするのを禁じ得なかった。大阪府の許可さえも得ないで警察署長がそんなことをすることが許されるのだろうか。大阪府内の何千という電話線や無線の中継基地にそんな工事をしているとしたら工事費だけでも大変な金額になるだろう、吉澤ひとみには神山本太郎が自分の地位を守るためにこんなことをしているとしか思えなかった。
「工事費だって大変な額になるでしょう。大阪府民の税金を使ってそんなことをしているとしたら許せないわ。」
「ノンノン、マドモワゼル、お金なんて全くかからなかったざんす。さっき言ったざますよね。あのインチキ相場師の川田定男なんかのやることはミーにもできるって。神山本太郎署長の許可を得て大阪株式市場にこの機械をつながせていただいたでごんす。その結果、川田定男の偽名が判明したでごんす。ノンノン、それを知りたがってもだめざますよ。マドモワゼル、それで川田定男が株を買い始めたらミーも同じ銘柄を買って売り逃げるのでごんす。慣れない株の取引にはミーも大部頭を悩ましたでごんすが、川田定男もいい面の皮でごんすね。ミーに利用されているとも知らないで。うひひひひ。」
またもや吉澤ひとみは不快になって江尻伸吾に何かを言おうとしたがそれをさえぎるように村上弘明が口を出した。村上弘明は江尻伸吾が持っているリモコンを指で指し示した。村上弘明はここを訪れた本来の目的は忘れていなかった。
「じゃあ、この機械を使えばK病院のことで何か情報をつかむことができるというわけですね。」
「ウィ、ムシュ、もちろん、そうざますよ。」
江尻伸吾は手に持っていたリモコンを胸の前でぶらぶらさせた。
「ムシュ、アンド、マドモワゼル、実はミーもあのK病院のことは前から気になっていたざんすよ。大阪府内の七不思議の一つってことで、ゴーレムというプロレスラーの不思議な出来事があったでごじゃります。ミーはそのことに興味を持ったでごじゃります。それでもってゴーレムが来日している一週間前後に変わった出来事がなかったかこの神山本次郎こと別名神山本太郎二号で調べたでごんす。そうしたら、マドモワゼル、K病院の名前が出て来たんでがす。」
巨人プロレスラーとK病院、吉澤ひとみにはどうしても結びつかなかった。
「K病院に出入りしている牛乳屋が他の緊急病院に暇つぶしの電話をかけているのをこの機械が入力したんでがす。」
江尻伸吾はリモコンを操作するとテレビのブラウン管に文字が浮かんだ。
「みずほちゃん、さっきK病院に牛乳を届けたんだけどさ。」
「K病院ってあの市の肝いりで出来たという気味の悪い病院、」
「そうだよ。あのK病院。あそこの裏門にうちの軽貨物をバックで入れていたら、すっごく大きな外人がいるの。人目でわかったよ。特注の背広を着ていたけど、あれプロレスラーのゴーレムじゃないの。」・・・・
確かにK病院の名前が出ていた。ゴーレムとK病院、一体どんな関わりがあるのだろうか。
「確かにこの人はゴーレムをK病院で見たと言っていますね。」
吉澤ひとみも大きな瞳を見開いてそのブラウン管の文字を見た。でも何故、フランス帰りかアメリカ帰りかわからないこの男がプロレスラーに興味を持っているのだろうか。
「江尻さん、あなたは何故、ゴーレムに興味を持っているのですか。確かに大阪府立体育館で不思議な出来事があつたのは事実ですがね。」
村上弘明は実際にはその出来事のことは知らなかったから事実だと判断するしかなかったが。
「その疑問はもっともです。ムッシュ、実はミーはゴーレムの姿を見るのは日本に来てからが初めてだというわけではないんでがす。アメリカのFBIにいたときにも彼の姿をサーカスのプロレスで見たことがあるんでがす。それが背は高いんですがすっかりやせていて力も全くなく弱いプロレスラーでがした。それが二年前のことで、それが今は誰も対戦相手がいないような怪物プロレスラーになっていたんでがす。ミーはすっかり驚いてしまったざます。」
二年前には全く弱かったプロレスラー、それが今は対戦相手もいないような怪物プロレスラーになっていた。これは興味のある問題だと言えるかどうか微妙なところだ。人間離れをしたあれだけの巨体である。自分の身体を支えるのがやっとだった状態から自分の身体を動かせるようになっただけで体力だけで試合に勝てるということは充分に考えられる。
「ゴーレムとK病院に関連して何かあると考えているんですか。」
「さぁ、ミーには何もわからないでがんす。しかし、K病院が何か謎を持っている病院だということは明らかざます。それでミーはK病院で神山本太郎二号ちゃんを使って調べて見ました。その時の記録がとってあるざます。ムシュ、アンド、マドモワゼル、ご覧になりますか。」
村上弘明と吉澤ひとみは思わず身を乗り出した。
「もちろんですよ。」
「それなら。」
江尻伸吾はまたリモコンを操作した。テーブルの中央に埋め込まれているテレビのブラウン管にはまた文字が流れ始めた。
「春日安代、48歳
主婦、大阪府栗の木町5の8の9
K病院のことなんですが、私、義理の父が死んだので葬式を逆さの木葬儀場でやることに決めたんです。それで、もちろん、義理の父親の死因は変な死に方ではありません。お風呂から急に出て来てその前にお酒を飲んだのが悪いのかもしれません。急に倒れたんです。救急車を呼んだときはもう手遅れでした。それで前から栗の木互助会に入っていたのでそこで葬式をやろうと思ったんですけど、警察の方から死因に不明なところがあるから死体を燃やすのは少し待ってくれなんて言われて、警察がK病院の死体安置所に義理の父の死体を運んだんです。」
「それはいつのことですか。」
「今年の六月一四日のことです。」
「何日くらい死体はK病院の安置室に留め置かれていたのですか。」
「約一週間です。」
「警察に不当に死体を留め置かれていたことの補償ですか。」
「いいえ、そんなことより、一週間後に死体を焼き場に持っていくために受け取りに行ったら、受け取りに行ったのは逆さの木葬儀場の人なんですが逆さの木葬儀場で死体を見たら首のあたりに縫ったあとがあって、死体を傷つけられたと家族みんなで憤慨して逆さの木葬儀場の人にそう言ったら、死因が不明だったので解剖した。そのあと自分が死体の修復をしておいた。って言うんですよ。そのあと焼き場で死体は焼いたんですが、家族に聞きもしないで義理の父の死体をかってに解剖するなんてどういうつもりですかって、警察に抗議しに行ったら、警察の方は解剖なんてしていないと言い張るんです。補償問題はどうなるんでしょうか。」
「じゃあ、その死体が傷ついているのを実際に見たのは誰なんですか。」
「私の家族とその逆さの木葬儀場の人です。K病院の人も見ているかも知れませんが本当のことを言うかどうかわかりません。」
これが大阪府住民苦情相談所に来た春日安代という主婦の苦情電話の内容だった。この苦情を神山本太郎二号がデータとして入力したのだった。これが単なる文字でなく肉声として聞こえて来たらもっと迫真力があったかも知れない。しかしK病院に関する情報としては気抜けしたものだったことも事実だった。葬式のあと焼き場で焼くことになっていた死体が病院の死体安置室で留め置かれてその間に死体に傷がついたとその家族が大阪府庁の苦情相談所に苦情を申し入れたということは。
「ミーは初耳でしたがK病院には死体安置室があるざんすね。」
「それが条件で市が建設費を出したんですって。もちろん、それだけではないんだろうけど。」
「マドモワゼル、その死体安置室にマドモワゼルは入ったことがあるざんすか。」
「いいえ、ありません。」
吉澤ひとみはうんざりした顔をして答えた。もっと重要な情報がつかめるかも知れないと思っていた吉澤ひとみにははなはだ期待はずれな結果となった。これなら最新の技術を駆使して作った神山本太郎二号もあまり役に立たないということになる。しかし、村上弘明の方を見ると少し目に光りが感ぜられた。何故だろう。おもしろくないので吉澤ひとみはかりんとうを口に含むとばりばりとかじった。
「江尻さん、あなたはFBIにいたとき秘密兵器の開発だけをやっていたのですか。」
「ノンノン、そのほかには暗号の開発とか、交通費の削減の研究とか、やっていたでごんす。」
そう言いながら、江尻伸吾は左手で右手の指を折る仕草をした。
「ちょうど良かった。江尻さんに解読してもらいたいものがあるんです。」
村上弘明は手帳の間に挟んであったコピーを取り出すと江尻伸吾に手渡した。
「何ざますか。これ。」
それは
十月十一日
 こてにきうけおでぃう
という不可解な一文が載っているあの下谷洋子の手帳のコピー全部だった。
「どうも何かの暗号らしいんですが、僕らには解けないので江尻さんに解いてもらいたいんです。
「何ざましょう。暗号にしてはずいぶんと低級みたいざましょう。よろしい、こんなものならミーが解いてあげるざましょう。」
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