羅漢拳  第27回 | 芸能界のちょっとだけ、知っていることについて

芸能界のちょっとだけ、知っていることについて

芸能人の追いかけを、やったりして、芸能人のことをちょっとだけ知っています、ちょっとだけ熱烈なファンです。あまり、深刻な話はありません。

第27回
栗毛
「この田舎の町で御姫様やさむらいが出て来るのは逆さの木しかないんですぜ。それでほら、こうして日本酒のラベルにもなっているんだからね。」
どこに醸造元があるのかはわからないがこの町の地酒、たぶんただ一つの地酒だろうがそのラベルに使われているということはこの町の中ではその逆さの木という固有名詞がそれなりに郷土史家に研究されているということだろう。
「あっしはそのじいさんから聞いたんですけね。ここいらは昔、摂津の国と呼ばれていて守護大名の細川高国から謀反を起こしてお家を乗っ取った細川晴元という室町時代末期の大名がいてその有力に配下に栗毛光昭という武将がいたそうなんですよ。その時代、そいつがここら一帯を治めていて、ここからあのK病院の裏のくぬぎ林を抜けていくあたりに見えるでしょう。逆さの木葬儀場があそこに山城を築いていたという話なんですがね。栗毛光昭が何でここいら一帯を治めるようになつたかというと細川晴元に滅ぼされた高国の重臣たちが軍をたてて細川晴元を伐とうとしたとき大がかりなわなを仕掛けてあのK病院のあたりで皆殺しにしたという話なんですぜ。それもあのじいさんから聞いた話なんですけどね。それでご褒美ということになってあの逆さの木葬儀場のあたりに山城、屋敷も兼ねていたんですが、建てたんですね。それで最初はその名前が栗毛城と呼ばれていたという話でした。その城が何で逆さの木と呼ばれるようになったかと言えば栗毛光昭には娘がいてその娘がインドから送られて来た大猿を飼っていたんですが、その大猿の活躍でそんな名前が付いたという話ですよ。これもそのじいさんから聞いたんですがね。山城と言っても一族郎党がそこに住んで軍事上の拠点になっているというだけの小規模のものでしたから謀反人に攻められる可能性も多大にあったという話、そこへ自分は六角満高の弟だという大規模な盗賊団が表れて栗毛城を占拠してしまって栗毛光昭は命からがら生き延びて彼らしか知らない洞窟の中に隠れていた。そこには栗毛光昭とその奥方、娘、何人かの家来たち、それに姫君の飼っている大猿がいた。大猿に栗毛光昭が言うことにはインドからやって来たお前だが随分おいしい物を食べさせてやって暖かい寝床も与えやった。もしわしの恩義に感じるところがあるならあのわが館を奪った奴らを殺して館にある櫓の上からつるせ。栗毛光昭が大猿にそう言うと大猿は洞窟から飛び出して栗毛城の方へ走っていった。そして一時間くらいたったら櫓の上から謀反人が逆さにつるされていたんだって言う話なんだな、これが。それでその城は逆さの木城、そのに洞窟はインドから来た大猿にちなんで天竺のほこら、K病院から逆さの木葬儀場に続く、くぬぎ林の中の道をその大猿が薄緑色をしていたのでその道を薄柳の梯子と呼ぶようになつたという話ですぜ。」
そこで親父は寿司屋の湯飲み茶碗の中に入ったお茶を飲んだ。
「それでその葬儀場は本当なら栗毛葬儀場と呼ばれるはずなのに逆さの木葬儀場と呼ばれることになったの。」吉澤ひとみが横から口をはさんだ。
「そのじいさんの話によると栗毛光昭の子孫はまだここにいるんだよ。誰だと思う。」
親父が思わせぶりな言い方をするので村上弘明は思わずこの食堂の店長の方に目で合図を送りそうになった。
「俺が、まさか。東京からここに来たんだぜ。」
「まだこの市に住んでいるの。」
「逆さの木葬儀場を一人で守っているのさ。これもじいさんの話だけどね。」
逆さの木葬儀場という言葉が出たとき元看護婦の彼女は露骨にいやな顔をした。親父はまだ話しを続けた。ここいらのお大尽といったら今では福原豪ということになっているけど百年前なら栗毛百次郎一家ということになっていただろうな。何しろこの市だけでなくここいら一帯の大地主だったんだから福原豪なんて目じゃないよ。それが戦後のどさくさで商売気がなく、どんどん土地は売り払って今では栗毛百次郎は焼き場の番人に成り下がったということだよ。」
「栗毛百次郎という人が栗毛光昭の子孫なの。」
「それは間違いない。何しろじいさんの話によると戦前は栗毛家の豪勢な暮らしぶりと言ったら語りぐさになっていたそうだ。それに歴史的に価値のある書画骨董のたぐいは数え切れないぐらいにあって年中、日本国中からいろいろな研究者がその研究に来ていたそうだ。あの逆さの木葬儀場も元はと言えば栗毛家の別宅だったんだけど栗毛家が零落してからは市が全部その建物を買い取って焼き場に変えたんだそうだ。栗毛百次郎はその中の一室だけを宿直室みたいにしてそこで寝泊まりしているのさ。焼き場の番人としてね。だからこの市でもあの葬儀場は一番立派な建物なんじゃないかな。フランク・ロイドの建てた帝国ホテルみたいなもんだよ。」
「栗毛百次郎ってどんな人なの。」
吉澤ひとみがそう聞くと、元看護婦は再び嫌な顔をした。
「逆さの木葬儀場に行って見なさい。本人を見ることができるから、今、五十の半ばくらいかも知れない。背が低くてやたら太っている男だよ。結局、十才になるかならないうちに家がつぶれちゃって本人も何の才覚もなく貧乏なままだったから結婚もできず、独身で親戚もみんなてんでんばらばらになつているみたいだね。誰がどう見てもそんな大地主の跡取りだった人間には見えないよ。」
アンテナ食堂の親父の話は意外だった。K病院でののぞき事件の話を親父に聞かれるとまずいので、何故ならこの親父ならそこら中にその話を吹聴して歩くに違いないから。そこを切り上げて食堂を出ることにした。
「これからその逆さの木葬儀場へ行ってみますか。」
村上弘明がそう言うと元看護婦は頷いた。アンテナ公園を降り、畑に囲まれた道を通り抜け、前に来たことのあるK病院の裏手に出た。相変わらずK病院は謎をひめて物言わぬ鉄のかたまりのようにくぬぎ林の中にたたずんでいる。
「前にこの病院に勤めていらっしゃったんですよね。その頃と変わっている部分はありませんか。」
「外見は全く変わっていませんわ。あの時代錯誤の建物の外観も、建物の左右と正面は塀に囲まれているんですが裏のくぬぎ林に抜ける道に面したところは建物の垂直な壁が立っているでしょう。あの壁のところの一階に女性職員のための浴室があるんですけどあそこから覗かれたんです。」
北向きのくぬぎ林に面したこの建物の壁にはその窓を覗いては一階には一つも窓がなかった。二階から上には不規則に小ぶりの窓が配置されていて、この建物は三階建てになっていたがその窓の配置の仕方や窓の大きさが明治時代の軍艦を連想させるのだった。村上弘明が愛車のルノーを停めてその窓を眺めていても窓からは誰も首を出さなかったし、この建物の外に出て来る人間も、小沼さえも出てこなかった。まるで時を止めた死人のように沈黙を守っていた。
「あのアンテナ公園の食堂でのぞき事件があったと言われましたよね。」
「ええ。」
「その犯人が逆さの木葬儀場の番人の栗毛百次郎なんですか。」
「そうです。」
元看護婦に抱かれた赤ん坊は何が起こっているのか、どういう状況に置かれているか自分でも全くわからないので目をばちくりさせた。
「何故、その犯人が逆さの木葬儀場の番人だとわかったの。」
「あの病院に出入りしていたからですよ。」
これは意外な事実だった。しかし、もっともそう感じたのは村上弘明だけで吉澤ひとみはそういうこともあり得ると思った。医者と葬儀屋、病院と焼き場、近いところにあると言えば言える、どちらも人生の終着駅に近いところを担っているから。
「何故、栗毛百次郎はK病院に出入りしていたの、お葬式の関係。霊柩車を運転してこの病院に入って来たとか。」
吉澤ひとみがそのことに気付いて彼女に聞くと病院の内部のことについて彼女は語った。
「K病院と逆さの木葬儀場とは特別な関係があるんです。」
「特別な関係って、何。」
「K病院が特別な目的を持って建てられたということはご存知ですか。この市にある病院はみんな大きな病院でも死体安置室の設備が整っていないんです。警察署にもそれがないし、市の方ではちゃんとした死体安置所を作るという条件で福原豪に病院を建てる許可や資金援助をしているんです。だからこの病院の地下室には温度調節の設備も整った最新式の死体安置所があるんです。」
「焼き場に死体を運ぶ関係で栗毛光昭はこの病院に出入りしていたのね。」
まだその死体安置所という場所を二人は見たことがなかったがそこから死体を運び、それもまだ、観覧車のゴンドラの上でしか見たことがなかったが逆さの木葬儀場でその死体を火葬にするのかと思った。ただこの病院と火葬場を行き来しているだけならのぞきの犯人と確定している時点ですぐに警察に突き出せばいいのにと思った。
そうできない理由が何かあるのだろうか。吉澤ひとみは不審に思った。
「ただ単に死体を運んでいるという関係だけじゃないんです。栗毛百次郎は死体修復の名人で事故なんかで傷ついた死体を生前のきれいな状態に戻す名人なんです。それでちょくちょくK病院の死体安置所に出入りしていて死体の修復なんかもやっていたのかも知れません。」
「でも、のぞき犯だと確定しているのに何で警察に突き出さないのかしら、それがおかしいと思うわ。」
吉澤ひとみは元看護婦の抱いている赤ん坊をあやしながら言った。
「あなたは死体安置所を見たことがあるんですか。」
いろいろな制限のあるK病院、それもこの病院の理事長の福原豪の仕組んだことかも知れない。死体安置所のある場所さえも村上弘明は知らないのだ。この看護婦は市内唯一というこの病院の死体安置所に入ったことがあるのだろうか。ガーゼのような肌着を付けている赤ん坊をあやしているこの元看護婦に再び尋ねた。
「いいえ、入ったことがないんです。死体安置所や私は見たことがないんですがみなさんが収容されていたという松田政男さんの病室は別棟になっていましたから、わたしたち職員でもあの病院は入っていけない場所がたくさんあったんです。そもそもあの別棟は最初の計画では建設計画になかったものなんですって。あの病院を設計した人を知っていますか。今泉寛司という新進気鋭の建築家なんですけど、私たち職員の噂ではあの離れを建設するにあたっては随分うまいことをやつたらしいですよ。」
「私たちもうどん屋さんで今泉さんには会いましたよ。なんかやたら理屈ぽい人で自分の建築論を熱心に私たちに説明していたんです。」
吉澤ひとみは何かを食べながら話したことは結構覚えていた。
「その人は離れの建設のことで何か言っていましたか。」
「今泉さんの計画では最初に離れを建設する計画はなかったんだけどあとからそれを建設して欲しいという要望が出たのであとから設計に変更を加えたと言っていましたよ。」
「本当ですか。私たち看護婦仲間では離れの方の設計や建設から一切関知しないという約束で仮のそこの設計図を作って書類や審査を通るようにした上でその代わりとして福原豪が今泉寛司に別口で料金を払っていたという噂があるんです。」
「じゃあ、そこまでして作った離れというのは一体どんな目的があるんですか。」
村上弘明には全くの初耳だった。どちらにしてもあの病院を作るに当たっての主導者は福原豪だろうから、何か人に言えないようなやましいことがあるに違いない。そこで逆さの木葬儀場の死体修復の名人、嘗てのここいらの支配者の子孫である栗毛百次郎の存在が気になる。この世捨て人がのぞき事件を犯しながら警察にも通報されなかつたという理由は何なのだろうか。
「とにかく、あなたが盗まれた下着が投げ込まれていたという天竺のほこらという場所に行ってみましょう。それから逆さの木葬儀場へ行って栗毛百次郎という人物にも会って見ましょう。あなたが彼に会うのが嫌だというなら、あなたは車の中で待っていてくださればいいです。」
K病院の裏に停めてある村上弘明の愛車ルーノーのヘッドノーズは室町時代末期から続く樫の木林の間を抜けている道に続いている。その道は薄柳のはしごと呼ばれ、その道はかって山城であった逆さの木葬儀場に続いている。山城は明治の時代には栗毛家の別荘として有機建築理論に基づいた煉瓦と大理石を多様した別宅になっていたのだ。それが栗毛家の没落により、その邸宅は市に没収されて火葬場と姿を変え、その当主の栗毛百次郎は無一文な生活破産者としてわびしくその葬儀場の番人としての生活を送っている。椚の木林の中の道は現代においても整備されていず、室町時代に比べればその道幅ははるかに広くなっているだろうが霊柩車が一台通れるぐらいだった。地面は舗装されていないのであまりスピードは出せない。でこぼこの道を走っているので車は前後に揺れる。そう言った道路を走るような仕様になっていない車だったから余計だった。左右の椚の木はあまり人が入らないらしく下草が鬱蒼と生えている。車を走らせてから二、三分で椚の木の林が少し途切れて大きな岩が道にせり出している場所に来た。小さな一戸建ての家くらいある花崗岩で岩の上の方は土が被っていて草が生えている。その上には松の木がねじくれた幹の形をして生えている。岩の下の方は乗用車が一台入るくらいの洞窟になっていた。椚の木林の木立を眺めていた元看護婦は赤ん坊を抱いている手を片方離してその洞窟の方を指で指し示した。
「そこが天竺のほこらなんです。」
そう言われて村上弘明は車をとめた。三人と一人の赤ん坊は舗装されていない道の上に立った。外から見ると乗用車が一台入れるぐらいの広さがある。入り口の片方のところに朽ちかけた石仏が立っている。まるで第二次大戦中に作られた防空壕のようだった。入り組んだ宗教事情の国、いろんな宗教が同時に同一地域に存在する国ではこういうことが起きるのだろうが、つまりご本尊を人目につかない洞窟の奥に置いてうやまうということだが日本では珍しかった。アンテナ公園の親父の又聞きによればこの中には天台宗に関連した石仏が洞窟の奥に鎮座しているということである。室町時代のその伝説は栗毛百次郎の先祖、栗毛光昭が山城を奪われてその飼っている大猿が華々しい活躍をして謀反人を山城にあるやぐらの上から逆さにつるしたという話だが、もちろんそんな大きい猿がそんなことができるわけがないわけでそう言った家来が居たということを暗示しているのかも知れない。
「ここです。ここです。」
片手に赤ん坊を抱いている上に道が舗装されて居ず大きな石がごろごろしているので足をとられてよろよろしながら元看護婦はその洞窟の入り口のあたりに近寄って行った。
「きゃあー。」
すると急にもと看護婦は声にならない叫び声を上げ、それにつれて赤ん坊も泣き出した。
「どうしたの。」
吉澤ひとみは彼女の方に駆け寄って行った。吉澤ひとみと弘明は凍り付いたような表情で彼女が指さしている方を見て驚いた。そこには半ば白骨化した犬の死骸が三つ横たわっていたからだ。目玉は落ちくぼんで飛び出し毛は半ば抜け落ちている。
「何で、こんなところに犬の死骸が置いてあるのかしら。」
元看護婦は誰にも答えられない問いを発した。吉澤ひとみはすぐに最近起こっている犬の連続殺害事件を思い出していた。深見美智子の言っていたことは本当だったのだ。深見美智子の家を訪れた押し売りがいかさまであるかないかということはとにかく、犬の惨殺事件がこの市で起こっていることは間違いがない。
「深見美智子の言っていたことは本当だったわね。この市で犬が惨殺されているということが。」
村上弘明は無言で頷いた。元看護婦は何のことかわからず二人の顔を見比べるだけだった。
「もちろん、あなたがK病院に勤めていてのぞき事件が起こったときはこんなものはここにありませんでしたよね。」
「もちろんです。私たちがのぞき事件の犯人を追って行ったときはそこにわたしの仲間の下着が置いてあったんです。犯人が逃げて行くとき証拠になることをおそれてそこに捨てていったんですわ。それでもし、見つからなかったらまた持って帰ろうという魂胆でわかる場所に置いて行ったに違いありません。」
この犬の死骸の後ろの洞窟の奥の方には名前もわからないような宇宙の象徴である仏像が置いてあるのだから随分と罰当たりな話だ。犬の死骸には首にくびれたあとと胴体には指されたあとがあった。
村上弘明の判断によればまず首のあたりを縄のようなものでしめられて動かないようにして腹のあたりを凶器で刺したものと思われる。相手は動物にしても随分と残酷な殺し方をしている。たぶん犯人は犬に対して非常な憎悪を感じているのかも知れない。
「あなたはのぞき犯人が栗毛百次郎だと思っているんでしたね。栗毛百次郎だとしたら彼が犬に対して非常な憎しみを感じているとか、そう言った動物を殺すことで何かの欲望を解消しているとか、そんなことは考えられますか。」
「わかりません。その人のことは何一つ個人的には知らないんです。」
やはりこの犬の死骸は現在この市で起こっている犬の殺害事件に何らかしら関係しているに違いないと村上弘明は思った。彼はその犬の殺害現場を二、三枚の写真に納めるとまた車に乗り込んだ。また整備されていない道を椚の林のあいだ、五、六分走ると御影石のタイルの貼られた大きな門柱のある入り口に近づいた。門柱の横には大きな鋳物で作ったような奇妙な模様を織り込んだ鉄の壁が続いている。村上弘明の運転するルノーはその門柱の間から中へ入った。門柱には逆さの木葬儀場と書かれている。廷内はちょっとした学校ぐらいの広さがある。水平線を基調とした帝国ホテルのような建物が中にあった。建物の横には煙突の立って居る建物がある。そこが焼き場なのに違いない。
「確か正面入り口から入って左側の一部屋が栗毛百次郎さんの宿直室になっていたと思いますわ。私は彼に会うのは遠慮します。」
吉澤ひとみと村上弘明の二人はルノーから降りてこの帝国ホテルのような葬儀場の正面を見た。位牌を飾る部屋が全部で六室あるのだと言う、こんな小さな市ではその数は多すぎないか。栗毛家が没落する前はそれぞれの部屋に家具調度が置かれてぬくもりのある生活が営まれていたのだろうが今はそれらの机も椅子も取り払われてただの四角い箱になっているそうだ。ただ、一室だけは番人として栗毛百次郎が雇われて最低限の生活が行われるように家具が置かれているそうだ。子供時代の大金持ちの生活から一変して底辺に流れ込んだ栗毛百次郎の精神状態は一体どんなものなのだろうか。きっと毎日がおもしろくないに違いない、毎日を鬱々として暮らし、ただ死んでいくのを待つような日々を送っているのかも知れない。何しろ子供時代には欲しいものは何一つ手に入らないものはなかったのだろうから、それが今は人のお情けにすがって生きているような身分である。今はここいら一帯の大地主として中央政界にも進出を計っている福原豪も彼の子供時代には歯牙にもかけないような存在だったらしい。それほどの大金持ちだったのだ。そして栗毛家が持っていた土地や山を福原家が大部買い取って、それも大部買いたたかれたらしい。その土地や山を元手にして福原家はいろいろな事業に乗り出して今日の資産を築いたといわれている。栗毛百次郎の心の中には暗く薄黒く、しかし、爆発をすることを止められている鬱屈した思いがあるに違いないのだ。好意的に解釈すればそれが彼をK病院での痴漢行為に走らせている原因かも知れないのだ。そんな人間的な悲喜劇には関せず贅を尽くした栗毛家の別荘は外観だけは今も昔の姿をとどめて吉澤ひとみたちの前に立っている。帝国ホテルを真似ただけあってその建物は均整美をほこって建物の前方には堀が作られていて真ん中に大きな橋が架けられそこを通って正面玄関に入るようになっている。正面に面した一階部屋で橋で左右に分けられている二つの部屋は窓ガラスはステンドガラスになっている。そして建物自体の壁は大理石とレンガを多用してあり、アメリカのロッキー渓谷のように見えないこともない。また、ステンドガラスに目を奪われていれば大きなオルゴールのように見えないこともなかった。吉澤ひとみと村上弘明の二人が車から降りてその橋を渡り、三、四段大理石の階段をあがって四枚あるうちの一枚の大きな扉をあけると中はシャンデリアがつるされている大広間だった。大広間の正面には山間の春の自然を描いた大きな油絵が掛けられている。床は荒い目の花崗岩で敷き詰められていた。
「誰もいないみたいだわね。兄貴。」
「栗毛光昭の部屋は左に曲がって二部屋目だと言っていたな。あの人は。」
「兄貴、行ってみる。」
「もちろんだよ。」
天井には大きなシャンデリアが付いていて、それを中心にして小さなシャンデリアが左右の廊下に続いている。廊下を歩くことはそのシャンデリアの下を歩いていくのと同じだった。左の廊下を歩いて二つ目の部屋はすぐにわかった。廊下の突き当たりは塀と同じように鋳物で作られた変わった模様の格子のようなものが組み込まれていてそこには厚いガラスがはめられている。そのために外光が充分に入るようになっていて二つ目の部屋のドアがはっきりと見えた。ドアの取っ手のところにも変わった意匠が彫刻されている。
「金持ちはこんなところにも金をかけるんだな。」
村上弘明はそう言いながらドアのノブをそっと手で回して見た。
「あれ、開くよ。」
「兄貴、入っちゃえば。」
「栗毛さん、居ませんか、栗毛さん。くりげさん。」
ドアを開けると栗毛光昭が寝起きをしているという部屋の全貌があきらかになった。十畳ぐらいの大きさの部屋でベッドと食器棚、それにキッチンが付いている。キッチンに付いているガスや水道はあきらかに最初から付いていたものではなく、後からとってつけたような感じだった。ベッドの前には棚が置かれていてその上には十四型のテレビが置かれている。これが五十の半ばを過ぎた男の生活だとすればあまりにも侘びしすぎた。子供の頃と現在との生活にあまりにも差が大きすぎる。食器棚の横にもう一つ棚が置いてあって彼の生活に不釣り合いなものが置かれている。プロの放送局員が使うような録音機とそのそばに四角い小型のライターのような物が置いてあった。
「これは何かしら。兄貴。ライターにしてはおかしいわよね。」
村上弘明もそばによって見るとライターにしてはおかしい。それらがのっている棚の引き出しを吉澤ひとみはあけていた。一介の放送局の社員とその家族がする行為にしてはあまりにも権限を逸脱し過ぎている、一体この二人の素人探偵にどうしてこんな権限が与えられているのだろうか。そんなことにも躊躇せず吉澤ひとみはさらに引き出しの中を物色し始めた。
「これだわ。兄貴、見つけたわよ。」
吉澤ひとみは一人で納得していたが兄の村上弘明には何もわからなかった。
「ひとみ、何を見つけたというんだ。」
「兄貴、まだわからないの。このライターみたいなもの、盗聴器よ。それにこの録音機をセットにすれば遠く離れたところから盗聴ができるのよ。それにこの紙を見てちょうだいよ。」
吉澤ひとみは引き出しの中から取り出した紙を村上弘明の前に広げて見せた。
「私は怪盗三十面相である。ここにあるテープを聞いて、これが何を意味するかわかるかい。これは君たちが会話が全部録音されている。これを返して欲しかったら、駅前のロロという喫茶店の窓側に座って窓にCDをたてかけておいてくれ、日時は・・・・」
「これが脅迫文でなくて何よ。」
引き出しの中から取り出された紙を見ていても村上弘明にはその汚い字が何を意味しているのかさっぱりとわからなかった。
「兄貴がきょとんとして何もわからないのは不思議ではないけどね。」
そう言って吉澤ひとみはその紙片を手でぶらぶらさせた。全くの何の権限もない素人探偵が痴漢の容疑が確実であるとは言え、全くの見ず知らずの家に入って行き、他人の部屋の引き出しの中の手紙を抜き出してぶらぶらと手で揺らしているというような行為が許されるのだろうか。
「ひとまずこの脅迫文を写真を撮っておいてくれる。」
村上弘明は吉澤ひとみにそう言われたのでわけがわからないがとにかく、自分の持ち歩いている三十画素のデェジタルカメラでその映像を撮った。その画像を再現して見れば風景なんかの写りは今一ではあったが文字や文章の再生では全く何の問題もなかった。
「これと同じような脅迫文を読んだことがあるの。」
吉澤ひとみは瞼を半分ほど閉じて斜め下の方を見ながら村上弘明に挑むような態度で言った。吉澤ひとみのようなきれいな女性がやるから絵になるのだがそんなときはいつも村上弘明は彼女が一瞬自分の妹でないような気がするのだった。
「どこで。」
「私の同級生で一つ上の男の子とつき合っているちょっと不良がかった女の子がいるのよ。その子が恋人とラブホテルに泊まったことがあってそこで二人が済ますことを済まして、一週間後に彼女のところにそのときの様子が録音されているテープが送られて来たの。書いてある文面もほとんど同じだったわ。その子は家でも両親からも見放されていて学校の方にそのテープが送られて来ても学校なんかいつでもやめてやるという感じでいたからへっちゃらだったのよ。それで同級生の子がおもしろがって呼び出しを受けている場所に大挙して押し寄せて、一体どんな奴が来るかと見張っていたのよ。結局、犯人は来なかったけどね。これで犯人は分かったわ。これが何よりの証拠よ。この脅迫文が、犯人は栗毛百次郎だったのね。」
痴漢行為といい、ラブホテルの盗聴といい、その呪われた一生のうさをはらすにしてはあまりにも道化的な行為だった。しかし彼の不幸な人生を鑑みてもその行為は認可されるものではない。こうした証拠が栗毛百次郎の一面の生活を表していることは確かだった。しかし何故その栗毛百次郎がK病院の明らかな痴漢行為によって告発されないのか不思議だった。彼はK病院での何らかの秘密を握っているのかも知れない。彼は室町時代の武将の子孫でもあったが死体修復の名人だと言う話を元看護婦は言った。その技術をどこで覚えたのかはわからないがそれでK病院に出入りを始めたのだと言う。もしかしたら松田政男と栗毛百次郎の間には何らかの接点があるのかも知れない。栗毛百次郎の件、つまり痴漢事件を使うことによって警察を動かし、K病院を動かすことができるかも知れない。
「兄貴、私と考えていることは同じね。」
吉澤ひとみが言った。確かな証拠も今は手に入れている。二人は元看護婦を自宅まで送り届けてから大阪府警に行くことにした。吉澤ひとみは元看護婦が抱いている赤ん坊に手を振りながら言った。
「福原豪理事長の息子を知っていますか。」すると元看護婦はルノーの助手席に乗っている吉澤ひとみの方を見て怪訝な顔をしながら答えた。
「あの病院に小沼さんほどではないんですが自由に病院内のいろいろなところへ行ったり、外に出入りしていた人物がいたんですが、患者さんなのか、職員なのかよくわからなかったので、仲間の看護婦に聞いたんです。でも、誰も答えてくれなくて。正体不明の若い男性だったんですが、あれがもしかしたら福原豪の一人息子だったのかも知れません。」
その言葉を聞いてハンドルを握っていた村上弘明はK病院のゴミ捨て場で見つけたうつろな表情でゴミを見ていた幽鬼のような若い男の姿を思い出していた。
「でも、ひとみ、何で、福原豪の息子のことなんか聞いたんだ。」
「兄貴、女の感よ。女の感。」
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