羅漢拳  第26回 | 芸能界のちょっとだけ、知っていることについて

芸能界のちょっとだけ、知っていることについて

芸能人の追いかけを、やったりして、芸能人のことをちょっとだけ知っています、ちょっとだけ熱烈なファンです。あまり、深刻な話はありません。

第26回
放課後の誰も居なくなった化学室の中に吉澤ひとみは居た。天井の蛍光灯は全部がついているわけではないので化学室の中はあまり明るくはない。誰でも経験することだが蛍光灯の熱のない光は電球の暖かい光とは違って光りのカーテンを部屋の中に幾枚もたれさげるような感じがする。人間の目が光学に基づいたレンズの一種であるから物理光学的にその現象は説明できるのだろうが吉澤ひとみがその光の中にたたずんでいる様子はオーロラが降り注ぐ不思議な世界から降り立った異星の住人のような感じがした。誰も居なくなった化学室で吉澤ひとみは化学実験で薬品やバーナーのために表面が焼けこげている木製の頑丈な実験机の上にのせた。その机は教室の中に縦三列、横二列に並べられていて机の横には水道の蛇口、ガスの元栓、流しが付けられている。教室の前には同じ構造の机が置かれているが生徒のものよりも一倍半くらい大きい。黒板には昨日の板書のあとがまだ残っている。教室の中はカビと薬品の混じったような変な臭いが残っていた。まだ歴史の浅いS高ではあったがこのに化学室にもそれなりの怪談話はあった。化学準備室と生徒たちが呼んでいる実験の用具や薬品むなどがしまわれている倉庫のような部屋があるのだが生徒たちが課外授業のときこの市の古い農家や商家の納戸の中から歴史資料になるようなものを探してこの倉庫においたのだが江戸時代の古色蒼然とした火縄銃を持ってきたことがあり、それが長い間化学室の裏に置かれていた。それから夜中になると血だらけの頭をざんばらにした農夫がうらめしそうな顔をして化学室の隅でこっちを向いていたという噂がいつの間にか広がっていた。用務員が夜中に校内を巡回しているときに三度見たという話や遅くまで学校に残っていた生徒が五人くらいその幽霊らしいものを見たという噂が広がっていたが吉澤ひとみはその噂を信じてはいなかった。ほとんどその噂もあることも知らないくらいだった。吉澤ひとみが分厚い机の上に自分の鞄をのせたのは鞄の中に入れて置いたものを誰にも見られないでその中身を確認したいからだった。彼女は机の上にのせたかばんを開けると中から英語のたくさん書いてある包装紙に包まれた四角い箱を取り出した。花瓶くらいの大きさだが瀬戸物の花瓶のようには重くない。早速その包装紙を破るようにしてあけると中から無地のダンボールの箱が出てきた。箱を開けると吉澤ひとみは思わず小さな驚きの声を上げた。そしてその顔には少し喜びの表情が浮かんだ。箱の中に入っていたものを取り出して机の上に立ててみた。エッフェル塔のような形をした置物で下は四角い箱になっていてオルゴールが入っているらしい。塔の部分は実はエッフェル塔ではなく塔の真ん中あたりに大きな輪が付いている。材質はプラスチック製で表面に銀色の塗装がなされているので銀色の金属光沢になっている。観覧車の模型だった。下にはオルゴールが付いていて螺子を巻くと観覧車が回転してオルゴールも鳴る仕組みになつていた。螺子はちょっとしゃれていて蝶の意匠をあしらったデザインがなされている。新聞部の部室に入っていくと机の上にこの箱が乗っていた。送り状には吉澤ひとみさまへと書かれている。後から松村哲也と滝沢秀明が部室に入って来たのでこの箱に心当たりがないか訊いてみてもさっぱりと見当がつかないと言った。新聞部の部室には誰でも皆出入りができるので部室に誰も居ないことを陰で監視していてこつそりと机の上に置いてくれば誰にもわからず置いてくることは出来るだろう。一体誰がこの置物を吉澤ひとみあてに置いていったのか、吉澤ひとみがK病院のことを調べていることを知っている人物がいるということだ。福原豪を中心としてそれに関連したいやがらせか、しかし箱をあけて出てきたのはオルゴール付きの観覧車の置物だった。これは単なるいやがらせではない。しかし、もっと裏があるのかもしれない。このオルゴール付きの観覧車がなんなのかは吉澤ひとみは知っていた。こんな小さな市だったがこの市には遊園地があった。この市を見晴らす市の境界の場所に通称ホットケーキ山、山というよりは丘に近い山がこの市を見渡すように立っている。その山の上に自衛隊のレーダー施設があって大きなアンテナが空を向いて立っていた。その施設が十五年くらい前に移動することになってその施設の土台を利用して小規模ながら遊園地が建てられることになった。世の中には意外なことがあるものである。ここに何故こんな施設があるのか、意外な事実に突き当たることが多い、日本では富士山の周辺とかにそんな場所が多い。だいたいが在日米軍の駐留施設とか自衛隊の施設に関連したものが多く、旧共産圏の国へ行けば旧ソ連に関連したものが多く見つかることだろう。だいたいそう言った施設は由来典拠が軍事上の最高機密ということになっているからはっきりとせず謎が謎を呼び、混迷が混迷を深め、秘密の悪魔たちののすみか、怪物が住む伏魔殿のようになってしまい、一般の住民には何もわからなくなってしまうのだ。そこに建ってある遊園地もそんな施設だった。そこでわかっていることと言えば観覧車を建てている土台の部分はそのアンテナが建てられていたということだけだった。しかし小規模ながらその山のてっぺんに建てられた遊園地は観覧車を始めとして遊技器具は一通り揃っていたから休日にも平日にも親子づれが遊びに来ていた。その遊園地に管理事務所を兼用して土産物屋が開かれていたがそこの土産物屋でその観覧車のオルゴールが売られていたのだった。本物の観覧車の方は高圧線の電気塔に大きな輪がついていてそこに観覧席のかごが八個付いていてくすんだ銀色の塗料が塗られていたがおみやげの観覧車の方は金属光沢で銀色に輝いていた。これを誰が吉澤ひとみに送ったのか、好意からなのか、どす黒い意志が働いているのか、吉澤ひとみにはわからなかった。吉澤ひとみへの挑戦かも知れなかった。しかし、それが挑戦であったとしても吉澤ひとみはその挑戦を受ける気になっていた。次の日曜日に吉澤ひとみは村上弘明と一緒にアンテナ山遊園地に来ていた。かつて自衛隊のアンテナが建っていた場所に観覧車は建っていた。観覧車の横には切符のもぎりをやる小屋が建っている。木目が向きだしになっていて今時どんなちんけな遊園地でもこんなのちゃちい料金所の小屋はないだろう。まるで西部の油田にある石油掘削機の横に建てられた作業小屋のようだった。観覧車の方は駆動部分に付けられたグリスが固まっていてのど飴のようだった。料金所のところには縞模様の制服を着た中年のおばさんがほうきとちりとりをもって地面を掃いていた。吉澤ひとみと村上弘明がそばにいることにも気づかないようだった。村上弘明がそばにあるジュースの自動販売機へ行ってコーヒーを買っている間、吉澤ひとみはその係員に話しかけた。
「観覧車に乗りたいんですが。」
係員はほうきを掃く手を休めて吉澤ひとみの方を振り返った。
「悪いんだけどもう少し待ってくれる。まだ点検がすんでいないんでね。点検がすむまで三十分ぐらいかかるかも知れないよ。ほら、東京の遊園地であつたじゃないの。アルバイトが機械の点検もしないで子供を遊器具にのせて子供が死んじゃったという事件、私はアルバイトじゃないからね。こう見えても正社員だからね。」
縞模様の制服を着た係員は訊きもしないことを答えた。点検をしてから遊園地に入れればいいかもしれないがこの遊園地は入園料をとらないのだ。遊園地の周りは柵があることはあるのだがどこからでも入れる形になっている。そんなら早く点検をすればいいのじゃないかと思っていると彼女はほうきとちりとりを置いて油で汚れた工具箱を取り出した。
「兄貴、点検がすむまで観覧車に乗れないんだって。」
吉澤ひとみと村上弘明は木陰のベンチで休むことにした。
「しかし、その観覧車のオルゴールをくれたのは一体誰なのかなぁ。」
「全く、わからないわ。見当もつかない。どういう意味があるのかしら。兄貴、わかる。福原豪という可能性は。」
「まさか、あいつはそんなしゃれた真似はしないだろう。」
「犬の詐欺師の方はどうなったの。あの呪文みたいな暗号は解けたの。」
「それは全くわからないよ。ひとみの女流漫画家の友たちの創作じゃないの。」
「そうかな。」
吉澤ひとみは缶コーヒーの口を開け、コーヒーを一口飲んだ。
「それより、面白いことがわかった。」
「何が。」
「福原豪の奥さんのことだけどね。もう死んでいるんだ。一人息子を残してね。」
「不慮の事故。」
「詳しいことはわからないんだけどどうもそうらしい。福原豪の一人息子がちょうど小学校二年生のときだ。」
福原豪の女房は死んでいるのだ。原因はまだわからないが不慮の死を遂げているらしい。観覧車の方ではまだ観覧車の点検をしている。かごを一台づつ電源を入れて駆動用のモーターを作動させて観覧車を回転してかごが地面に達するとかごのとびらのあけしめなどをたしかめている。そんな様子を見ていると向こうからうば車を押して若い主婦が赤ちゃんと一緒に観覧車の方へやって来るのが見える。この主婦も観覧車の点検が終わるのを待っているのかも知れない。係員の女性は観覧車の点検をしながら、つまり観覧車の動力を入れて観覧車を回転させて、つぎつぎにかごを回転させてドアのあたりのところを点検していった。点検が終わるとなにやらドアのところに紙を貼っていった。よく見るとその紙には使用不可とか書かれている。いくつものかごのドアにそんな張り紙をしながら彼女は観覧車を一回転し終わらせた。見ると八個あるかごのうち張り紙が張られていないのは一つだけだった。係員は張り紙を張り終えると大儀そうに吉澤ひとみたちの方へやって来た。
「お客さん、観覧車に乗りに来たんですか。ご覧の通り、ドアの故障が七つまであるんで今日は観覧車の運行は取りやめにしてもらいたいんですが。」
申し訳なさそうな様子もなく係員は言った。
「一つだけ動いているなら動かしてもいいじゃない。」
「一つだけじゃ、動かしても仕方ないでしょう。」
「そんなことを言っても僕らはこの観覧車に乗りに来たんだからね。」
なおも係員はぶつくさと言っていたが、そんなに乗りたいならとか口の中でもごもご言っていたが村上弘明たちに乗車券を発売した。
「じゃあ、ちょっと待っていてくださいよ。一つだけドアの調子が悪くないかごがありますから、今、下まで降ろしますから。」
相変わらず係員は不満そうだった。おそらく平日は一日中この公園にある観覧車などに乗りに来る客などいないのだろう。係員は自分はアルバイトではないと言っているがそれに準じた待遇なのかも知れない。観覧車の運行を止めている間に他の仕事をしているのかも知れなかった。吉澤ひとみと村上弘明が観覧車に乗り込もうと観覧車の入り口のところまで行くと後ろの方に乳母車を押して来た若い主婦が後ろの方にいた。
「私も観覧車に乗りたいんですけど。」
その主婦は係員から観覧車の乗車券を買っていた。年齢は二十七、八、瓜実顔の色の白い日本的な顔立ちをしている。吉澤ひとみたちがかごの中に乗り込むと後から、その主婦も赤ん坊を抱いて乗り込んで来た。機械が壊れているから乗せないなどと杓子定規なことを言っていた係員だったが乳幼児を同席させるなんてかなりいいかげんだわと吉澤ひとみは思った。と同時に吉澤ひとみはある不自然なものを感じた。新聞部の部室の机の上にアンテナ公園の観覧車の置物が乗せられていて、それが発端で吉澤ひとみと村上弘明の二人はここにやって来て観覧車に乗り込んでいる。そして観覧車のかごが一つを残してすべて壊れていて見知らぬ主婦、それも乳幼児をつれている主婦と乗り合わせている。吉澤ひとみはそもそも誰が送って来たかわからない観覧車の置物が自分への罠だと感じている。そう思うと目の前に乗り込んで来たこの主婦の姿がうさんくさく見えるのだった。そう感じている吉澤ひとみの気持ちがわかるのかわからないのか、赤ん坊を抱いた主婦は彼女に少し頭を下げたようだった。無言で係員はかごの扉を閉めた。やがてゴンドラは静かに地上を離れた。ゆるやかにゴンドラは空中にあがっていく。何故この観覧車に早く乗ってみなかったかと吉澤ひとみは悔やんだ。この市の境界線上にある観覧車に乗ればこの市の全貌が見渡せるのだ。徐々に上っていくゴンドラの下に広がる世界は小学生が作る研究発表の自分の街のデコラ模型のようだった。吉澤ひとみたちの住んでいる栗の木団地の姿が見える。栗の木団地の前の花壇の様子もうっすらとだがわかった。くぬぎ林の一郭にあのK
病院のまるで中世の要塞のような一種異様な姿も見える。K病院の裏には広大なくぬぎ林が続いている。そのくぬぎ林の中には何となく木の層が薄くなっているような部分が感じられる。そこには道があるのかも知れない。その道の先の方に敷地があった。あれは。吉澤ひとみが何か声を出そうとすると、前の席から声が聞こえた。
「ほら、美智ちゃん、あれがママが勤めていた病院よ。ここから見るとあんなにちっちゃくなっちゃうんですね。」
若い主婦に抱かれていた赤ん坊は彼女の問いかけが理解できるのかできないのか、微笑んだ。赤ん坊への彼女への問いかけよりも村上弘明や吉澤ひとみは彼女があの病院に勤めていたという言葉にびっくりして大きく瞳をあけて瓜実顔の主婦の顔をしげしげと見つめると彼女も二人の方を見つめた。最初、吉澤ひとみは彼女が見えない犯人の回し者ではないかと思っていたがどうもそうでないように感じ始めていた。だいたい吉澤ひとみたちをはめる気で誰かがたくらんでいたとしても彼女たちがいつこの観覧車に乗りに来るかなどということは四六時中監視していなければ不可能なことだから吉澤ひとみの思い過ごしかも知れなかった。K病院の姿は遙か下にある。このK病院が彼女たちの最大の関心事なのだった。その病院に勤めていたという女性が目の前にいる、村上弘明は思わずみを乗り出して尋ねた。
「K病院に勤めていたのですか。」
「はい、あそこの病院に看護婦として勤めていました。ほら、下の方に見えますわよね。あれがK病院であの少しくぬぎ林が薄くなっている部分がありますでしょう。あそこが昔の山城に登る道なんです。その先に逆さの木葬儀場という焼き場があるんです。」
くぬぎ林の薄くなっている場所が昔の山城に抜ける旧道になつていてその先に葬儀場がある。その葬儀場の名前が逆さの木葬儀場、変な名前だ。山城へ続く道があのくぬぎ林に残っている道だということはどういうことだろうか。その下界にある葬儀場の方へ向けられた彼女の目には少し嫌悪の情が表れている。その葬儀場に特別な感情があるのかも知れない。吉澤ひとみたちが彼女の顔とその葬儀場を見比べているうちにゴンドラは半分くらいの位置にまで降りて来てしまった。
「私は報道探検隊という番組をやっている村上弘明といいます。こちらは私の助手でひとみといいます。報道探検隊をご覧になったことはありますか。」
吉澤ひとみは村上弘明に助手と呼ばれて少し頬をふくらました。目の前にいる主婦はそう言われてばら色に顔が輝いた。
「どこかで見たことがあると思ったら村上弘明さんでしたのね。」
東京でぶいぷい言わせていたときの村上弘明ではなかったが敗残の兵のような心境の彼にしてみれば自分もまんざらではないとうぬぼれさせてくれる調子がその主婦の喜び方にはあった。ゴンドラが地上に降りてからこのアンテナ公園遊園地に唯一ある食堂に彼女を誘って村上弘明たちは話を聞くことにした。この食堂はこの公園の事務所の半分だけを使って建てられており、外側は割と小ぎれいな建物だったが中の調度は貧弱なものだった。デコラ張りのテーブルが五、六脚ぐらい並べられていて奥の方がカウンターで仕切られていてその奥が厨房になつていた。入った途端に頭がはげて鉢巻きをした親父が四人の方に声をかけた。
「この時間じゃ、何にもできないよ。軽い食べ物ぐらいしかね。」今さっきまで厨房の中で椅子に腰掛けてたばこを吸っていた親父はそれでもコツプに水を入れて三人が座っている席にまで持って来た。
「紅茶、コーヒー、厨房の方にやかんやポットが置いてあるだろう。自分で入れれば一杯、百五十円、こっちでいれて持って来れば、一杯が二百円だよ。それからそこにうどんの玉とそばの玉、汁もあるからな、自分で作れば一杯が二百円、作り代が百円だ。カレーライスも同じだ。詳しくはそのテーブルに乗っているメニューに書いてあるだろう。」
厨房にどうやつて入るのだろうと思っているとカウンターの左端のところが切れていて厨房の中に入ることができるようになっている。
「焼き鳥も出来るの。」
急に吉澤ひとみが変なことを聞いてきたので親父はとまどった。
「何で。」
「だって、そこに焼き鳥のくしがたくさんあるじゃないの。」
親父は厨房のステンレスの流しの上に置いてある串にさしたままの生肉の刺さった状態の焼き鳥の串の方に目をやった。
「これは晩に出すものなんだ。」
「でも、自分で焼けば食べられるんでしょう。」
少し親父は考えているようだったが吉澤ひとみの笑顔に負けてしまつた。
「自分で焼いて食べれば一本、五十円だよ。そこに焼き鳥を焼くこんろがあるだろ。今、火をいれてやるからな。しょうがないな、おねぇちゃんは。」
そのとき食堂の入り口ががらりと音をたててあくと
「今日どうする。観覧車の具合が悪いよ。ゴンドラでちゃんとしているのは一台だけだよ。今、さっきどうしても乗りたいという人がいたから乗せたけどね。」
入って来たのはさっきの係員で声の調子からするとこの二人は夫婦らしい。二人の年齢がかなりいっていることからすると市の一種の福祉政策としてこの夫婦をアンテナ公園の管理人としてやとっているらしい。物好きな客と言われて村上弘明が苦々しく係員の方を見ると彼女は物憂げに村上弘明の方に視線を投げ返した。
「あっ、どうも、さっきは。今日は良い天気で良かったですね。この市の様子が人目で見渡せたでしょう。お前さん、なーに。焼き鳥なんか焼かせているの。」
係員は厨房の奥に入ってこんろの火の具合を見ている吉澤ひとみの方を見て言った。
「お前さん、お茶を出しておくれよ。いつもはこんな時間にお客さんが来ることなんてないのに、早くからゴンドラの点検なんかやって疲れちゃったよ。」村上弘明たちを無視してその女は端の方の椅子に座ると親父がお茶を入れて女房の方へ持って来た。
「おじさん、たれは、たれは。」
吉澤ひとみが厨房の奥の方から叫んだ。
「全く、うるさい奴だなぁ。」
その間に村上弘明は椅子に腰掛けて競艇の予想を立てている親父を横目に見て紅茶を入れてゴンドラで一緒に乗り込んだ主婦の前に持ってきた。おほんも勝手に使っていいことになっていた。主婦の横には乳母車に乗せられた赤ん坊がおしゃぶりをしゃぶっている。厨房の奥では勝手にもちろん代金を払ってではあるが吉澤ひとみが長方形の横に長いうなぎや焼き鳥を焼くこんろで焼き鳥をあぶっている。まるで自炊可能なと言うより自炊を前提に宿泊させる山奥の湯治場のようだった。
「さっきゴンドラの中でK病院に勤めていたとおつしゃっていましたよね。そのことをもっと詳しく教えてくれませんか。」
またもや、村上弘明は身を乗り出して尋ねた。若い母親は少し身を引く動作をした。
「今、K病院のことを調べているところなんです。」
村上弘明は両手をテーブルの上で合わせて少し懇願するような表情をした。
「あそこで看護婦をしていたんです。私、ここの出身ではないんです。結婚した人が大阪に転勤になったのでここにやって来たんですが、前に看護婦をやつていたのであの病院が開業するということになって募集をしていたので勤めることに決めたんです。」
「どちらの科だったんですか。」
「内科の方に勤めていました。」
「病院の中の様子はどうでしたか。」
「今まで二つくらい病院に勤めたことがあるんですがあんなに変な病院はありませんでした。」
単刀直入に彼女は断言した。
「どういうところが。」
「入ってはいけないという立ち入り禁止のようなところが多かったからです。入院患者も二、三人しかいませんでしたし、ベットも大部開いていたのにも関わらずにですよ。」
「小沼さんという患者さんを知っていますか。自分では小沼と名乗っているんですが、本名は大沼さんと言うんですが。」
「知っていますよ。自分が経理の事務長だと言っている妄想患者でしょう。あの人はあの病院の中では有名でしたから。でも、何であの人はいろいろなところに出歩くことが出来たのかわからないんですよ。職員の私でさえ、出入り出来ない場所がたくさんあつたんですから、と言うより、出入り出来ない場所の方が多かったんですけど。病院の中だけならいいんですが、いつだったか、駅であの人に出会ったことがありました。私の顔を見たら、今、理事長に追われて命を狙われているからここで出会ったことは誰にも言うなと強い調子で口止めされたんですよ。そのくせ次の日になったら沼田さんは病院の自分の病室にちゃんと戻っているんですからね。」
「あなたの見たところ沼田さんは精神に異常を来していると。」
「そう思います。」
「でも何故、病院のいろいろなところに出入りが出来たり、病院の外部に行くことが出来るのは何故なのでしょうか。」
「わかりません。」
「何故、あんな変な感じの病院を建てたと思いますか。病院と言ったらもっと威圧感のない、お年寄りから子供まで気軽に出入り出来て、その上、安心感を与えるものでなければならないと思うんですが、その上、とってつけたような変な離れがついている。」
「あの病院は有名な建築家が設計したとか聞いています。その建築家の設計が終わってから理事長の意見で離れが付けられたそうですね。」
「理事長の福原豪さんに会ったことはありますか。」
「一度も会ったこともありません。理事長はほとんどあの病院に来ませんでしたし、来たとしても理事長室か経理の方の部屋にしか来なかったと思いますよ。」
そこへ焼き鳥を焼き終わった吉澤ひとみが焼き鳥の皿を持ってやって来た。
「兄貴、焼き鳥が焼けたわよ。二十串で千円、消費税込みだって。」
吉澤ひとみは村上弘明の横に座った。皿の上に載った焼き鳥をほおばる姿を見て主婦の横の乳母車に乗った赤ん坊が微笑んだ。
「松田政男さんという患者さんを知っていますか。」
「もちろん、知っています。あの病院の中で変死した人ですもの。でも、あの人が死んだというニュースが流れるまでそんな人があの病院に入院していたなんて少しも知りませんでした。病院の中でも見たことがありませんでした。あの離れに入院させられていたんですね。」
「松田政男さんを一度も見たことがなかつたんですか。」
「ええ、あの離れにはほとんどの病院関係者が入れないことになっていましたから。」
「何故、K病院をやめられたのですか。」
「出産準備にとりかかろうと思っていたからなんです。それに変なことがあって、どうもあの病院が胡散臭い病院だと感じたからなんです。」
「変なことって。」
吉澤ひとみは食べ終わった焼き鳥の串を皿の上に置くと彼女に尋ねた。その様子を見て赤ん坊がにかっと笑った。あの病院の一階のくぬぎ林に面した部屋が看護婦たちのお風呂になっているんです。そのお風呂でのぞき事件が起こったんです。それにのぞき事件だけじゃないんです。下着のどろぼう事件もあったんです。ちょうどちょっとお風呂の窓を開けていたとき同僚の看護婦
がその顔を見たんです。それがあの病院に出入りしている人で、うちの病院の人たち、四、五人でそのあとを追いかけて行ったら、薄柳のはしごの間の天竺のほこらの中に私たちの盗まれた下着が隠してあつたんです。それで犯人は逆さの木葬儀場の上田橋の助に違いがないと病院側に言ったのに何も対処してくれなかったからなんです。」
急に聞き覚えのない固有名詞が出てきて村上弘明はとまどった。
「逆さの木葬儀場まではわかるんですが、薄柳のはしご、天竺のほこら、それはなんですか。」
「薄柳のはしごというのは道の名前、天竺のほこらというのはその間にある道の名前です。」
「ますます、わからなくなったわ。」
吉澤ひとみは肩肘をついてため息をもらした。皿の上にのっていた焼き鳥は半分かた吉澤ひとみに食べられてしまった。いつの間にか後ろのテーブルにこのアンテナ公園食堂専属のコック兼店長である親父が座っていた。
「お客さんたちK病院のことを調べていなさるのかい。俺も知っているよ。あそこの患者さんが殺されたって言うんだろう。だからあんなところに病院を建てるものじゃないって女房の奴とも話していたんだよ。なあ。」
少し離れたところにいるこの親父の女房は生返事を返した。
「警察では単なる変死だと言っているけどそうじゃ、ないんだろう。殺されたに違いねぇ。俺はそう睨んでいるんだ。」
「親父さん、ここは大阪なのに関西弁をしゃべらないんだね。」
「あんた、東京のテレビに出ていただろう。なんだっけ、思い出せないけど、そうだ、ミュージックリボリューションとかいう番組じゃなかったかい。あれ、東京に居たときはあっしも見ていたよ。歌手であれなんて言ったけ、あの歌手の小樽火の街、君の街って歌はよかったね。でもあの歌、消防署からクレームがついたんだって、俺に言わせればあんまり業腹じゃないかってね。」
知らない歌手と知らない歌のことを言われて村上弘明は面食らった。
「じゃあ、親父さんも東京の出身なのかい。今は大阪で日芸テレビの報道探検隊という番組をやっているからよろしくね。見たことある。」
村上弘明は自分が東京に居たときの活躍をしていたときのことを知っている人物にあってこそばゆい気がした。しかし、この親父の詮索ぐせの全くなさそうな態度が心を気安くした。たぶん、彼は村上弘明の東京でのスキャンダルも一切知らないのだろう。そうした確信が彼にはあった。
「こうして今は大阪におりゃすが、ここの地名については詳しいよ。いつも俺の代わりに競艇の船券を買って来てくれる、俺よりも二十も上のじいさんがいるんだけどね。こいつがこの市の歴史についてやけに詳しくてね、何でも教えてくれるんですよ。でも競艇に関しては俺の方が先生でね。あいつも言っていやした。あの場所に病院を建てるなんてよくないって。あそこは室町時代末期の古戦場だったという話ですぜ。」
「へぇ、あそこは古戦場だったの。」
K病院に勤めていた元看護婦の彼女もそのことは知らないようだった。この親父は受け売りではあったがどうやら、その地名の由来を知っているらしかった。
「室町時代末期、ここいらは摂津の国の一部だったんだ。」
そう言ってこの親父は食堂の中に貼ってある日本酒のお姫様姿のモデルが一升瓶を抱えてにっこりと微笑んでいるポスターを指で指した。モデルの背景に写っている景色はこのアンテナ山のような気がする。