🇯🇵あけましておめでとうございます。🎌

いつも新年になると年齢的なのか感激が薄れます。一年を振り返ると、楽しいことよりも、寂しい悲しいことが多くなります。これはどうすることもできないことなのですが、今年は何とか衰えていく体力や思考力を敵に回して、奮起したいと願っています。

 ところでいつも私のサイトを読んでいただきありがとうございます。毎日、401号まで発行してきた「漫画新聞」の中から、ご紹介しておりますが、編集しながら昔のことを思い出し懐かしい思いがいっぱいです。もう少し頑張ります。応援してくださいね。

🥷📡再録・日刊【デジタル漫画新聞】回顧録版💬🖋

🛩 💁🖋◎【アジア漫画家見参】◎🖍🙆‍♂️✈️^  114回目

◆◆海外漫画家訪問😊😍

 ・中国の作品紹介💙 6回目

 2001年外務省の外郭団体・国際交流基金の依頼で「中国の漫画」を企画しました。その時に上海市に行き出版社や漫画家と対談しました。女流漫画家として大活躍されていた楊頴紅さんとも親しくなり、2004年に発表された少女漫画の『渡世よろず事件帖』を漫画新聞で紹介しました。当時、中国で日本の海賊版が氾濫する中、専門漫画雑誌に楊頴紅さんの作品が掲載され人気を博し、1996年にデビューされた人気漫画家のおひとりです。楊頴紅さんはお酒が好きと聞いて、お土産に持って行った日本酒をグイグイ飲み驚くほどの酒豪家でした。作品はおそらく当時では、日本で初めての中国少女漫画だと思います。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

(2024月1月1日のFB投稿より)

 

📡再録・日刊【デジタル漫画新聞】回顧録版💬🖋

  🇯🇵日本漫画界にも歴史はある。

         そして現在もその歴史が続いている❤️

  🖋「漫画新聞」深読みアレコレ!! ✒️ 1997年(平成9年)後期期

★26年前の後期の漫画界の主な出来こととです。

 「漫画新聞」が20年240号も続けられるとは思いませんでした。なぜならば、20ページの紙面をほとんど全部一人で編集制作していたからです。取材して原稿書き、紙面割り付け、からす口やミリペンでの線引き、写真やカットを紙焼きして各ページ版下仕上げました。小さな紙面なのでいかにたくさんの幅広い情報を入れる。楽し子供抱えているので新聞づくりは三日ぐらいで仕上げました。……振り返ると必死でした。漫画家の皆様方からも多くのお祝いのメッセージをいただき大感謝です。また特別に矢口高雄先生からの祝文にも感激でした。

 毎月、発行していると、あの記事もこの記事も紹介したいと欲も出てきて、取材にも力が入りました。多くの漫画家の皆様や出版関係者ともお知合になられ、いつも励まされながら進んできたことを思い出されます。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

(2023年12月31日のFB投稿より)

 

🤣私の出会った「漫画家追悼抄」記 50幕🥲

★望月あきら (モチズキ アキラ)   その3

  静岡県吉原市生まれ。1937年4月23日~2022年12月

享年85歳

  ・代表作…『サインはV』『ゆうひが丘の総理大臣』『ズームアップ』『カリュウド』など多数 

 ・『漫画新聞』・1981年8月 20号「漫画家訪問記」の筆者との対談より再編集

★とにかく描いて描いて描きまくれば実力はつく★

 木村・アイデアが出ない時やスランプに入った時の解決策は……

 望月・誰でもスランプがありますよね。しかし僕はスランプなんて我が儘と思っているので、"そんなことを言っている暇はないのだ"と自分に絶えず言い聞かせています。アイデアが出てこなければ、ジッーと考えるしかないのです。どうしても出てこなければ、色々な人と話し合いをするようにして、そしてアドバイスを受けます。

 木村・プロになり24年間、嬉しく感じた思い出としては……

 望月・背水の陣で友人に片道代の電車賃を借り、腹ペコで東京の出版社へ原稿を届けたのです。その時の編集長が僕の様子を見て、2000円原稿料の前借りを出してくれたのです。……その日はどこで寝ようか、飯代はどうしょうかなんて考えてましたので、2000円をみた時は涙が出てきましたよ。今でも大感謝しています。一生忘れることのできない思い出ですね。

 木村・漫画家を目指す人にアドバイスをお願いします。

 望月・うまくなりたかったら、沢山描くしかないのではないでしょうか。よく漫画家の人はどうゆう道具を使っているかなんて聞かれます。それを使わないと上達しないように思っている人が大勢いるようですが、道具をそろえても決して上達しませんよね。とにかく、コツコツと描く努力を身に着けてほしいですね。"一生懸命に描くしかない"この一言です。

※オリンピックが開催するたびに「サインはV」の著者・望月先生のことを思い出します。台湾が初めて電子書籍システムを開発して、私も協力した時に、望月先生の作品の版権に協力していただき、配信しましたところ断トツの人気になりました。そのことをご報告したら「嬉しいね~~海外の人たちが僕の作品を読んで楽しんでくれるなんて、漫画冥利につきるよ」と大喜び。その後、中国での配信も同じでした。後年は作品をお描きになられていなかったようですが、年賀状は毎年いただきました。心優しあたたかな先生で、私にとって漫画界で今日まで育ててくれた大恩人です。ご指導ありがとうございました。ご冥福を心よりお祈りいたします。

       合掌

※新年は「村野守美先生の追悼抄記」です。

 

 

 

 

 

 

 

(2023年12月30日のFB投稿より)