営業の魔法 中村信仁と永業塾の仲間たち -55ページ目

明日から永業塾ツアー

さぁ、いよいよあすから五月の永業塾ツアー開始です。

体調も万全、ポジポジで臨みます。


まだ、各ステージ数名でしたら座れるとのことですから、もし、ご興味がおありでしたら顔を出してください。


ブレブレになる営業マインドを最高のモチベーションでリセットできる場です。ただし、顧客を馬鹿にしたようなテクニックなどは一切身に付きませんので、くれぐれも変な気を起こしてお越しにならないようにご注意くださいませ。


5/17(木) 福岡ステージ

5/18(金) 宮崎ステージ

5/19(土) 関西ステージ

5/20(日) 福島講演(しもやんとのW講演、一般参加可能)

5/21(月) STVラジオ レギュラーコーナー

5/24(木) 札幌ステージ

5/26(土) 宮城ステージ

5/27(日) 東京ステージ

5/29(火) 福島ステージ



中村信仁

35フライト40泊

気がつけば五月も半ば…。

今年に入って四月までのフライト回数が35回、宿泊数40泊。

すべて国内ばかりですが、先日、15年来の友人で、いい時も悪い時も付かず離れず付き合っているKさんとお茶しました。


Kさんは、カジノ・プロデューサーで香港やシンガポールのカジノへ行ったり来たりしています。フライトはすべてファーストクラス。年間のフライト・マイル数は70万マイル。宿泊するホテルではスイートルームのみ。


「すごいねー」

「いやぁ、全部カジノ側で用意してくれるから…」

「もっとスゴイじゃない」


そんなこんなで2時間ばかりお喋りしました。

出会った頃は私が30才、Kさんは24才。

その頃の私は北海道最大級の英会話学校を経営し、Kさんは素敵な花屋さんを経営していました。お互い紆余曲折があり、現在のスタイルをお互い確立した次第です。


日々の暮らしはアッという間に過ぎ去っていきますが、その積み上げられた日々の先には、想像もつかない世界があるのですね。


また、今日からコツコツ努力を重ねなければと、強いモチベーションをKさんからいただきました。




中村信仁

人脈

30代の営業人がよく云います。

「自分には人脈がない…」

最近よく思うのですが、人脈は誰にでもあると。


人脈は明日にではなく昨日にあるのではないでしょうか。一度、過去にお世話になった方たちの棚卸しをしてみて下さい。


必ず、そこに信じられないほどの応援団がいて下さるはずです。




中村信仁


night flight

久々に夜のフライトでした。

昼間2本のラジオを終え、夜の空港へ。


GW明けなのか閑散としていました。

羽田到着後、空港のショップで開いているのはマクドナルドのみ。

PHPの編集者、新婚の宇田さんと1時間のミーティング。


新刊の発売日が7/2に決定です。

そういえば…本のタイトルを聞くのを忘れました。笑



真っ暗な空の中を飛ぶ飛行機。

窓の外へ目を向けると、そこには自分の顔が映っていました。見慣れたはずの顔なのに別人のように映る顔。ふと思いました。自分ていったいなんだろう…って。




中村信仁

コラム4本

7本のコラム中4本終了。

あと3本で終了です。

これが終わったら、角川さんの原稿に着手です。

あと少し…。


そういえば、今日の午後はSTVラジオです。

14時と17時、よかったら聴いてくださいねー。




中村信仁

ひとつ終了

次の新刊「商談ノート」(仮題)PHP刊の手書きページ約30枚をやっと書き終えました。発刊後、手書きの部分は私の直筆になります。笑


次はコラム7本です。さぁ、もうひと踏ん張り…。




中村信仁

寅さん

父親が好きだった映画のひとつに「男はつらいよシリーズ」がある。云わずと知れた寅さんだ。


子供の頃から見るとはなしによく観ていた。そして、いつの間にか自分も好きになっていた。


この連休に何本か見返してみると、昔は笑って観ていた寅さんが、妙に切なく愛おしく思えてならなかった。


大人の味を覚えたということだろうか…。なぜあれほどの人気を呼んだのかかが少し分かったような気がする。大人にならなければ分からない、人の機微が溢れている。


なんだか営業人の生き方に似ているように感じてしまった…。




中村信仁

5月といえば…

去年は既に新著を出していた…。

今年は…。

むー。。。



中村信仁

生き方 生き様

福岡から宮崎へ…、そして大阪に入ったのが先週の土曜日。いつものように旅を続けていた。


伊丹空港で預けた荷物を受け取り、バスの時刻を確認していたとき携帯電話に着信があった。発信者は兄。兄から電話が来ることなど、この十年なかったことに「嫌な」予感がした。


旅立つ前、母が緊急入院していた。余命いくばくもないと医者が宣言した。一瞬ベッドに横たわる母の姿が頭をよぎる。そして、嫌な予感は的中した。虫の知らせというが、機内でウトウトしていたとき珍しく夢を見ていた。それは十年前の夢。入院していた父を看病する母の姿だった。


「危篤だからすぐに病院に来い」


一方的に怒鳴りつけるような口調の兄からの電話。その一時間後、母は永眠した。梅田の喫茶店でその知らせを聞いた。伊丹空港から北海道へ戻らず、予定通りバスに乗り、講演会場のある梅田へ向かったからだ。


手つかずの珈琲がテーブルの上で冷めている。灰皿には吸殻が山になっていた。時計は喫茶店に入ってから既に二時間近く過ぎていることを知らせていた。たくさんのことを考えていた。多くの思いが駆け巡り、そして何も残さず通り過ぎていく。何を考えているのかさえ分からないまま、何かを必死に考えていた。そして、時間になり仲間たちが待つ講演会場へ…。


翌朝、北海道へ戻り、冷たくなった母の頬を撫でた。母の顔に触れたのは何十年ぶりのことだろう。本当に冷たかった。氷のように冷たかった。でも、とてもやわらかかった。そのやわらかい母に今日まで育てられた。口うるさい母だったが、母は生き方を教えてくれた。どう生きるべきかを。


今日のラジオで、師匠、晤郎さんがこう言ってくれた。

「僕は生みの母が亡くなった時、赤いバラを配っていたんです。加藤登紀子さんが百万本のバラを歌うリサイタル会場で、お客様のテーブルに一本ずつ赤いバラを配っていました。そのバラ、赤いのに、なぜか白い菊に見えて仕方なかった…」


楽屋で知らせを聞いたが、晤郎さんは仕事を続けたそうだ。何事もなかったかのように淡々と。こみ上げる悲しみを抑えて…。


そう、親が生き方を教えてくれたように、師は生き様を教えてくれた。僕は後悔はしていない。強がったところでそう思わなければ辛過ぎる。

ただ、後悔はしていないが、死に目には会いたかった、と本当に…そう思う。



中村信仁

「子」 卒業

人の子の親になって、初めて親の気持ちがわかるものだ、とよく言われた。だいたい、この言葉を投げかけられるのは、やんちゃしていた反抗期の頃だった。


今、人の子の親になり、子供からは「親」とみられ、しかし、幾つになっても親からは「子」として扱われる。


だから、親の前では「子」を演じ、子供の前では「親」を演じる。これがなかなか楽しいものだった。


その親が先日亡くなり、とうとう「子」を卒業した。

親も逝くことで「親」を卒業した。

子と親が、同時にそれぞれの役割を終えたのだ。


これからは「親」に専念します。本格的な親業の始まりです。



中村信仁