プロフィールを更新しました。

映画4アウト

撮影も始まりました。

今から8年前、髄膜炎ずいまくえんになり、人生2度目の命の告知を受け、医師も奇跡だと生かされた自分。

身だしなみなど、出かける準備に4時間もかかる身体になりましたが、

その超えた先には素晴らしい経験と景色が待っていると、撮影に精一杯、本気で挑んでいます。

応援、宜しくお願い申し上げます。

 

 

 

 

 

24時間テレビ車いすトライアスロン挑戦映像

こちらをご覧ください ↓

 

 

 

イメージ 1

<プロフィール動画>

 

全国で講演を行っています。

講演、研修等 関係企業 学校

 

元 パナホーム株式会社バリアフリーアドバイザー

http://www.panahome.jp/

 

元 八芳園顧問(東京白金台結婚式場)

 

 

MGL学園 群馬県高崎、太田、動物専門学校

学校法人TBC学院(ティビィシィ学院)

このほか多数の企業、学校で講演、研修を行っている。

 

 

好きな言葉  心

 

2005年 日本テレビ第28回24時間テレビ車椅子トライアスロンに挑戦し完走しました 。

 

大貫学人 おおぬき まなと

生年月日 1969年6月1日

 

講演のご依頼・お問い合わせは下記のアドレスよりお願い申し上げます。 

ご予算などお聞かせください。 

manatode@yahoo.co.jp

 

 

略歴

18歳、宇都宮市内の学校を卒業後、市内の内科病院へ医療事務として勤務。

病院の医療事務をしながら、法政大学経済学部経済学科通信教育課程入学。

25歳の時に母親の願いであった「自分の家に住んでみたい」と言う想いを絶対に叶えてやる!と言う

強い思いから、一軒家を25歳で購入、母にプレゼントする。

つまり、まったく感覚はなく、自分の意思で動かすことも出来ない体に。

立ち上がることも、歩くことも出来ない1種1級の身体障害者に。

1年半の入院生活、数多くの出会いにより、本来の自分を取り戻すことが出来た

とともに、車椅子での日常生活を手に入れた。

 

幼少期から振り替えると壮絶な人生だったかも知れない。
1969年 昭和44年6月1日 栃木県宇都宮市で生を受ける。
父親が事業の失敗、怖い男の人が家に来て、父親の名前を言って、どこへ行った!!と怒鳴り散らし、
幼稚園に入る前の自分に、クソガキぶっ殺すぞ!!と言われる日々が。

母子家庭で育つ。

子供の頃は電気が止められる様な日々があり、一本のローソクが唯一の灯りで、それも使い果たした時は、月明かりだけで夜を明かした日も。
食べる物も無く、母親から預かった100円、時には50円だけを手に持ちパン屋さんで「動物のえさ」と書かれた食パンの耳を買い、両腕で抱きしめながら家に帰り、パンの耳と水道水だけで暮らした時が何度もあった。

その頃の僕の、気持ちは。
それでも笑顔は忘れなかった。
お母さんを悲しませてしまうから。
そう思って笑顔は絶やさなかった。

そんな日々だけど、楽しかった。
電気は止められたけど、水道とガスは使わせてくれたから。
特にガス屋さんがいろいろ察してくれて、支払いがかなり遅くなってもずっと待っていてくれた。
そのおかげで、ガスコンロの魚を焼く所(グリル)にパンの耳をおいて、かるく焼いて美味しく食べることが出来た。子供ながらにそんな知恵もつけることが出来た。
そんな借家住まいが25年続いた時、子供の頃から母親に絶対家をプレゼントすると言う強い思いから、実行する。
築8年、好みの家を見つける。
銀行に融資の書類を提出するが、ある銀行では母子家庭で本気ですかと罵られ、他では書類を投げて苦笑しながらお帰りくださいと言われ、10行近くの銀行に断られた。
最後に残された1つの銀行が1カ月の審査の末、若くして家を持とうとするその気持ちに応援したいと言ってくださり、融資の決定がおりた。
25歳にして、念願だった一軒家を母親にプレゼントすることが叶った。

しかし、その1年後。。。

1996年 平成8年11月3日 病院の当直明け午前9時、バイクで帰宅途中、信号無視の車にはねられる。
命は取り留めたものの下半身不随の身体障害者に。
裁判を行ったが、負けました。
現在の様に監視カメラが無い時代、相手が信号無視をした証拠が無かった。
寝たきりの自分は現場検証も出来なかった。
相手の弁護士は法廷でずっと薄ら笑いをして勝利を確信していた。
負けました。

ほんの少しだけ人生を振り返ってみました。
正直、涙が溢れました。
こうして人生を振り替えると様々なことがありました。
しかし、それらの壮絶なことが経験値になり、何があっても立ち上がれる様になり、講演の仕事では経験談として大変役に立っています。
渦中にいる時は確かに辛かったが、全ては無駄なことではありませんでした。


ひとつだけ今の気持ちを伝えさせてください。

「幸せです」

特に障害者になってからの人生は本当にそう思っています。
まず、生きることに真剣になりました。丁寧に生きる様になりました。
そしてこの体になり、止めたことがあります。
不平、不満、愚直 これらを口にすることを。
このことにより、運気がとても好転し始めたのです。
本当にたくさんの良いご縁に恵まれる様に。
こうして2005年には日本テレビ第28回24時間テレビ車いすトライアスロンに挑戦し、この同じ空の下で繋がるあまりにも多くの方々の応援により、51.5キロの道のりを9時間6分で完走することが出来ました。

 

2018年4月

今度は髄膜炎ずいまくえん にかかり、脳にウイルスがまわり救命病院にて医師から貴方の残り時間は24時間です。

と、人生2度目の命の告知を受けました。

たとえ命が助かったとしても、耳が聞こえなくなるか、眼が見えなくなるなど、障害が残ります。

貴方の人生はこの24時間で全てが決まります。

ここにサインしてください と、告知書と言うものにサインをしました。

医師より、このまま入院になります。と告げられましたが、友人に迎えに来てもらい家に帰る決断をしました。

医師は激怒していましたが、最期の死に場所は自分で決めさせてくださいと言い、自宅へ帰って来ました。

昏睡状態ともいえる自分、最期の夕飯を一口だけ口にし、風呂場でシャワーを浴びました。

せめて、綺麗な身体で死にたい。。。

ベッドに横になり、この世の痛みと思えない激痛と、普通に呼吸も出来ない苦しさに耐え、眠りにつきました。

翌朝、眼に映る景色はほのかに明るい景色でした。

あー、天国はほのかに明るい世界なんだ。

小鳥の声も聞こえました。

天国には小鳥のさえずりも聴こえるんだ。

目に映る景色を何度も何度も見ると、いつも見る寝室の景色に、天国に来て生前の夢をまだ見ているのかと思いました。

しかし、どれだけ時間が経とうとも、そこには寝室と小鳥の声。いつも毎日見聞きする光景でした。

俺、生きてるのか?

動かない体を引きずるようにカーテンを開けると、毎日見ている庭と街並みに、確かに生きていると驚きに包まれました。

耳が聞こえなくなる、眼が見えなくなる障害も無く、医師が奇跡だと、なんと、生かされました。

 

闘病生活が始まる。
 

髄膜炎ずいまくえん から闘病生活を過ごしていた2025年4月

今年に入ってから体調の急変などなく落ち着いて来ていた時、

毎日聞くラジオから映画4アウトと言う、身体障害者野球の実話をもとにした作品の

実写化オーディション募集とありました。

2005年24時間テレビ車いすトライアスロン挑戦からちょうど20年目

記念の年に何か挑戦したいと思っていた時に聞いた放送。

やるしかないよな!

闘病生活から何も挑戦出来なかったが、やってやるぜ!!と決め、

東京オーディションに挑戦しました。

故 西田敏行さんの言葉に

役者は、アドリブが出来なければ2流だよ。

心に深く残る言葉を思い出し、

事前に送られてきた台本に、自分ならこう演じてみようと、アドリブを交えて精一杯やってみた。

結果、出演の候補としてお言葉をいただきました。

人生初、映画と役と言う世界、撮影が始まりました。

身だしなみなど、出かける準備に4時間もかかる身体になりましたが、

その超えた先には素晴らしい経験と景色が待っていると、精一杯、本気で挑んでいます。

 

幼少期から壮絶なことがありながらも、どんな時でも必ず「人」が
力をくれました。
勇気をくれました。
行動力をくれました。

今の自分は、みんなの力がひとつになって
いる。
だから心から幸せなのです。
与えられた命の砂時計を、見守ってくださる皆様に恥じることの無い様に、精一杯生きます。

この同じ空の下で繋がる皆様、これからも心から宜しくお願い申し上げます。

長文を最後まで読んでくださいまして、ありがとうございました。

 

 

 

車いすトライアスロン、エピソード

 

 

 

皆さんからいただいた支えがあって、51.5キロと言う 道程を完走することが出来ました。 

応援の力があったからこそ、完走をすることが出来ました。 

私が挑戦した車椅子トライアスロンを応援してくださった皆様、

心からありがとうございました。

中継には映っていなかったのですが、ゴールから僅か1キロ手間で、唇が痙攣し、体が全く動かなく

なったのです。

その時、完走は無理だと思いました。

唇の痙攣は酷くなるばかり、呼吸は乱れ、目も開けられない状態、

そして、ついに腕が垂れ下がってしまいました。

しかし、そこに映像には無かった大きなドラマがありました。

動かない私を見た、応援に駆けつけてくださった方々が、涙を流し、

「大貫さん起き上がれよ!」 

「大貫さんゴールして!!」

「みんなが大貫さんの完走を待ってるよ!!!」

皆さんが、しゃがんで涙を流しながら私に送ってくださった心からの熱い声援に、

私は、「このままここで終わったら、自分に負けることになるじゃないか!!!」と。

今でも不思議なのが、全く動かなかった体が、もう一度起き上がることが出来たのです。

薬を飲んだわけでもない、注射をしたわけでもない。

そこにあったのは、「皆さんの心からの熱い声援」

この声援が、まったく動かなかった体をもう一度起き上がらせ、ゴールへと向かわせてくれたのです。

そして、8月28日、午後8時過ぎ、9時間6分と言う時間で51.5キロの道程を完走することが出来ました。

私のことを応援してくださった皆様、心から、心から、ありがとうございました。

 

「私はとても幸せでした」

 

皆様からいただいた声援、気持ち、様々なものを、私はたくさんいただきました。

この皆様からいただいたものを胸に、これからも「自分を信じ、自分に負けない」

この気持ちで精一杯前進していきます。

 

心からありがとうございました。

 

 

大貫学人 おおぬき まなと