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12月やなあ~師走やなあ~ホンマまだまだ走らなアカン!体力落ちて来てるし、気力もしぼんできてるし~「根気」しかない?

《PROJECT80》21
「重森三玲Ⅱ‐自然の石に永遠の生命と美を贈る」★重森三明(重森三玲庭園美術館館長)/京都通信社2010
重森三玲が庭園を研究した理由について、「庭園は上古から現代に至るまで続いた長い歴史をもっているので(中略)、歴史の永い庭園が最高だと思って取り組んだ…」と彼の言葉にある。三玲が庭を専門にするようになった理由には★天災やその時々の★偶然がかなり関わっている。大正6年に画家を志して上京するが全国から集まったライバル達の★才能の凄さに意気消沈。当時、日本美術学校の校長が「君の絵が一番純粋で良い」と励ましてくださったらしいが、かなりの★挫折感を味わう。その後★技術面よりも思想面を鍛えるため、もっと総合的に日本の思想や美術史を学ぼうと決意し、研究を深める。やがて、同時代の作家や研究者たちと交流を重ねていくなかで、「重森三玲」という作家名・ペンネームで活動するようになる(元の名は重森計夫)。そして、既に当時から日本美術界の弊害であった多分野の★いちじるしく縦割り的な差別化を見直し、茶の湯、いけばな、庭園なども含めたかたちで日本の芸術を★総合的に学べる場所(大学)を作り上げようとする(「文化大学院」という名称のもと、数年間にわたり講義や出版活動をおこなった)。その後、大学の本格的な創設にむけたスポンサーも見つけ、支援内諾ももらっていたのだが★関東大震災で全ての計画があえなく頓挫。故郷に戻る。故郷では、農業に従事しながら村で哲学講座を開いていた。この頃、ある意味で首都・東京で受けたカルチャーショックや★情報過多への反動もあってか、流行よりも、より古いものへの審美眼をどんどんと開花させていったように思う。そのような時期に地元所縁の八幡宮を文化財として保存するために奮闘を開始する。実は、これがきっかけで、文化財の保存指定に関わる東京の関係者が故郷を訪れることになるのだが、旅館や民宿もないような田舎なので、実家で接待することになる。この時に★もてなしと関係諸先生方の手前、いわば「点数を稼ぐ」意味もあって生家の庭を改修してご観覧いただくことになり、重森三玲の庭★処女作が誕生する(大正14年/1925)。★地元の文化財を守りたいという思いが彼の人生を「庭園」にシフトさせていった。その後、東京が復興したので再度上京しようとするが京都で★途中下車。この頃は未だ、いけばなの研究を主にしていたが、徐々に庭に★ハマってしまい、京都に居を定める。庭園史の研究と作庭、結局、まったくの★独学でプロになった。
重森三玲は18歳で茶室を設計するなど、若い頃から茶の湯が好きで目が肥えており、「茶」を芸術の中心にすえていた。彼にとって★茶が絵画、彫刻、建築、工芸、いけばな、庭園など日本の諸芸術をつなぐものであり、日常で★「生活とアートの一体化」を実践できるものだった。茶に限らず、創作は★種別や時代が異なるものを調和させることが大切であると考えた。現代は過去と調和してこそリアルな生命力をはなつ。物事を総合的に捉え、異なる角度から分析し、その流れの中で答えを発見する。科学者も散歩中にひらめくと言うし、動きの中で何かを発見できる。少しオーバーな表現になるが、重森三玲は一つのことを理解するために★そのまわりを廻りながら研究し、その先につながる輪の形、つまり全体像(日本の総合芸術)を捉えようとしていたのだろう。日本の伝統文化を愛し、その独自性に誇りを感じながらも、日本文化の将来を危惧し続けた重森三玲は★生涯海外にでることなく日本で活動した。今の世の中ではなかなか考えにくい。★イサム・ノグチ氏にもパリに来て仕事を手伝ってほしいと要請されたことがあるが、あっさりとお断りしたようである。しかし、旅行は大変好きであったので、外国料理が口に合わなかったのか、単純に飛行機に乗るのが怖かったのではないかという身内の推測もある。何れにせよ、★西洋カブレの流行のようなものは彼には無関係であった。
・・・大先生に自分を重ねることはおこがましいが、私の経験や考え方に近しいものを感じて嬉しくもあり~

浄厳院その後(6)~以前も投稿しましたが・・・不思議な縁を感じます。
《勝光寺》
583-0857★羽曳野市誉田1-6-12/072-956-2297
楠木正成の弟。楠木三郎、楠木弥四郎、和田小二郎とも、七郎とも正武とも伝わります。紀伊守。楠木正季と同一人物とも考えられています。湊川の戦いで死去。39歳没とも。羽曳野市誉田の勝光寺を開基し、了珍と号し、嫡子の楠木正隆が勝光寺の堂を建立したと伝わります。後に、楠木正光が、浄土真宗の蓮如の弟子となり、浄土真宗の寺になった模様。
「勝光寺」の釣鐘に、平成16年(2004)11月21日★西澤梵鐘鋳造所とありました。
★「西澤梵鐘鋳造所」
529-1424東近江市五個荘三俣町274/0748-48-2061
http://oumiwaza.shiga-saku.net/e253832.html
滋賀県における鋳物加工の歴史は古く、南北朝時代にまでさかのぼるといわれているが、五箇荘三俣町の西澤家には、江戸末期に鋳物師として公的に認められる文書が残されており、少なくともこれ以前には梵鐘の製造技術が確立されたものと考えられる。梵鐘の原料は銅と錫の合金で、鋳物の成形はすべて手作業であり、高度の熟練を要する。一つの梵鐘を製作するには、型作りに始まり、鋳込み、型ばらし、仕上げまで、通常2~3ヶ月かかる。西澤梵鐘鋳造所は、江戸時代以来の伝統技術を最も色濃く残す鋳造所で、伝統を引き継ぎ、先代からの製法を守って良質な梵鐘造りを続けている。竹タガで締める土製鋳型や、その鋳型を大きな土坑に据えて、溶解炉から溶けた金属を流し込むという、他の鋳造所ではすでに絶えてしまった梵鐘鋳造の技術が残っている。きちんと造れば何十年~百年ほど長持ちする梵鐘。同じところから頻繁に注文が来るような仕事ではない。しかし西澤梵鐘鋳造所では、長年培ってきた信頼と技術で注文が絶えることはないという。しかし西澤さんもご高齢になり、そろそろ仕事をやめようかと思っているが、後継者は今のところいないという。今は新規の仕事は断り、残る仕事をこなすのみとなった。西澤さんは、「この仕事場は残したい、いつか梵鐘造りをしたいという人がそのまま使えるようにしておきたい」という。(2009.3)
※2011年1月に廃業されたようですが、★「国立民族学博物館」に学術映像記録が残されています。
http://www.minpaku.ac.jp/museum/event/fs/movies_bonsho200811
1995年(平成7)5月9日から7月5日の約2ヶ月間にわたり、西澤梵鐘鋳造所が、大型青銅製品である梵鐘を鋳造する全工程を詳細に撮影した学術映像記録(上映時間72分)。鐘の製作工程を通して、日本の伝統的な鋳造技術や鋳物師とよばれた職人の仕事の実態を知ることができます。

ギャラリー&オフィス「いろはに」★常設展では、サポーターズが分担して当番をしています。私は主に「日・火+調整日」の★《ひひひ》に在廊します。本日(11/30)はご依頼があって、アート・スリッポンを陳列しました~なんと次から次へと~「スリッポンの日」と呼びたくなるほど多くの方がお越しくださり、ありがとうございました。

ギャラリー&オフィス「いろはに」コンサート11/29(土)14:30~16:00津軽三味線はいかがでしょう★500円(ワンドリンク付)・・・超満席、ギャラリーは熱気むんむん!演奏合間のトークも楽しく、すっかり「津軽三味線」の魅力にハマってしまいました。ぜひ次回もお願いしたいです。