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すくらんぶるアートヴィレッジ

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《PROJECT80》23
禅宗の寺院では、水を用いずに、白砂と石を使って景色を表現する★枯山水の庭が多く見られます。近年、改めて評価が高まるのが昭和を代表する庭師★重森三玲。彼のつくる石組の美しさや植栽、モダンなデザインは、今なお賞賛の声が後を絶ちません。もとは画家を志していたので、抽象絵画のような作品も残している。★「アヴァンギャルド=前衛」という言葉は、彼の著作でよく目にします。画家ではカンディンスキーが好きで、三玲の残している絵画作品や彼が設計した庭を見ると州浜や砂紋のデザインにはその影響が見て取れ、イサム・ノグチは東福寺の市松の庭を見て「モンドリアン風の新しい角度の庭」と評しました。ただ、西洋美術やモダンデザインに傾倒した作家ではなく、どちらかといえば和風好みの人物だったので、日本の諸芸術を幅広く学び、そのデザイン的要素から創作の着想を得たようです。古いものにも時代を超えたモダン(新しさ)が存在することを見抜いた重森三玲は、この美意識を★「永遠のモダン」と称し、自らの創作の基本にしていました。
元来、日本庭園の石組みの起源は★磐座や磐境と呼ばれる古代の巨石(群)であり、よく神社の御神体になっている。庭園史において、石組みは古代中国の神仙蓬莱思想という、仙人が住み不老不死の薬が存在するという島を表したり、三尊石で仏の姿を表現した。枯山水の石庭を連想すると、石組みと「禅寺」を結びつけるが、日本庭園の始まりはもっと古く、古代にまでさかのぼる。元来、日本古来の山岳信仰と大陸思想の影響、更に古墳文化や浄土思想などが★混ざりあいながらその時々の「庭」を形成していった。信仰心や時代の精神性とともに発展した日本庭園において、石組みの基本は神や仏を宿す躍動的な★立て石にあったが、江戸中期を過ぎると石を寝かせて配置することが多くなる。重森三玲は昭和期において立石本意のモダンな枯山水の復興に努力し、抽象的な表現を模索しながら現代的な石組みを作り上げている。
三玲所縁のもの達の努力もあって、重森三玲がメディアで連鎖的に紹介されたり、庭園や★「in-betweeness=間(ま)」に対する関心など、色々な理由があって重森三玲の業績が再評価されつつある。重森三玲が好んで使った言葉に「石に(の)乞わん」がある。石組みを行うときに石の命のままに石を立ててやることで、★石の聞こえざる声を聞くこと。
https://iyoseki.co.jp/aoisi/history.php
★青々とした色と変化に富んだ模様が美しい伊予の青石。全国的にも珍しく、数々の名庭にも景石として使われている。この石はジュラ紀中期(約2〜1.5億年前)に生まれたものである。土砂が湖や海底に堆積し、それらがプレートの沈み込みにより地下20〜30kmの深さに潜り込み、温度200〜300度、圧力600〜700気圧のもとで変成作用を受けて形成された。その海底でできた岩が、日本列島の骨組みができたとされる大きな地殻変動により隆起し、幾億年もの年月を経て我々の前に現れたのが、伊予の青石なのである。

映画『港のひかり』2025年11月14日★全国公開
★藤井道人監督《自分以外の誰かのことを考えて生きる大切さが伝わって、観た人がその心を持って帰る体験になってくれたら、この映画は報われると思っています。》
2023年11月~12月にわたって石川県の輪島を中心に撮影を敢行。能登半島地震で被害を受ける直前に、同地の風情に満ちたロケーションをフィルムに収めた貴重な映画となっている。10月18日キャストがお目見えする最初のイベントとなるジャパンプレミアが石川県輪島市で行われ、プレミアム上映会の副題は「~能登に元気を!~」
輪島市の大沢漁港や朝市通りなど、震災前の能登の美しい風景がおさめられた作品。
★舘《震災で失われた景色が映っている作品。辛い思いをされる方もいると思いますが、ぜひ見ていただけるとうれしいです》
★眞栄田《大作さんの映像の中に能登の情緒や空気が残っていることに、大きな意味を感じています。監督、キャスト、スタッフみんなで力を尽くしたので、多くの方に届いてほしいです》
出演者全員が「この映画が復興への“ひかり”になるように」と願うように、この作品が能登に思いを寄せるきっかけとなり、能登そして石川で生きる人たちにも“前を向く力”を与えてくれるに違いない。
https://www.bousai.go.jp/kohou/kouhoubousai/r05/109/special_01.html
https://noto-archive.pref.ishikawa.lg.jp/
・・・まもなく★3回目のお正月を迎える「能登」、2026が良い年になりますように~大阪からの思いを少しでも届けたい!ギャラリー&オフィス「いろはに」では新春恒例チャリティバザーからスタートします。多くの皆様のご協力・支援をよろしくお願いします!

ギャラリー&オフィス「いろはに」★常設展では、サポーターズが分担して当番をしています。私は主に「日・火+調整日」の★《ひひひ》に在廊します。本日(12/2)は★折紙好きの方が来られ~スリッポンにも興味を持ってくださって・・・一度に2足も!ありがとうございます。これからはもっと楽しくウォーキングしてくださいね。

《PROJECT80》22
★「松尾大社庭園」
616-0024京都市西京区嵐山宮町3/075-871-5016
https://www.matsunoo.or.jp/
松尾大社の松風苑三庭は、重森三玲(明治29年〜昭和50年)が長年にわたる庭園研究の奥義を結集し、この地上に残す最高の芸術作品として、全身全霊を傾注して造られた庭園です。総工費1億円、三庭に用いられた四国・吉野川産★青石(緑泥片岩)は200余個、丸1年の工期を経て、昭和50年に完成した昭和時代を代表する現代庭園です。★遺作になった松尾大社庭園はまさしく★場の潜在力を最大限に引き出した作品であり、重森三玲の最高傑作。荒々しくも静寂。それは不思議に古代と現代、優しさと厳しさなど、相反するものの一致を見せている。
https://www.matsunoo.or.jp/guide03/
1930年代初頭、重森三玲は主に庭園及びいけばなの研究者として活動していたが、各地の庭の調査を重ねる度に建物の図面や資料が存在しても、★庭園の資料が皆無であることを感じていた。そこへ室戸台風(1934年)が西日本に上陸し近畿の名園も多大な被害を被った。各社寺には庭に関する資料が残されていないので、修復には困難が予想され、このままでは将来も庭園の研究が発展しないことを痛感した三玲は全国の庭園の実測調査をおこなう決意を固める。そして、1935年頃より1939年にわたって第一次実測調査をおこない、その成果を体系的にまとめた『日本庭園史図鑑全26冊』を出版する。当時、日本各地の時代や様式も異なる庭園を自ら訪れて実測し、自身で写真撮影も担当した。調査研究を進めていった結果、重森三玲は一つの確信にいたる。
★「江戸中期を境にして庭の芸術性が落ちている。そして、自身が生きる昭和期には将来に誇れるような庭がつくられていない…」。これが彼の創作者としての血を再び刺激することになる。そして、このような思いで東福寺の調査(環境計画)を手がけていた時、東福寺の造園計画が持ちあがり、永代供養(つまりボランティア)で庭づくりを引き受けることになる。国内で多くの庭を実測調査した実績と画家をめざしていた自身の自由な発想でこの仕事に取り組んだ。庭の設計にあたっては、禅宗寺院における★廃物利用の精神が市松の庭と北斗七星の庭を創り出す原因になったり、方丈前庭のために探し求めていた巨石が苦労の末に見つかるなど運も味方した。考えてみれば現場の環境、歴史的背景、材料など、★「場」の力が大きければ大きいほど名作を残せた不思議なひとでもある。
・・・「場」の力!「浄厳院国際芸術祭」において「鐘楼」を展示場所として取り組んだ経験を、今後さらに深め広げていきたいと思う。