《PROJECT80》73森薀⑪
1973年(昭和48年)庭園史研究家・作庭家森蘊が★神武東遷をイメージし作庭。2016(平成28年)弟子である牧岡一生が作庭当初の姿に復元。40数年経過したことにより、樹木剪定、芝生調整などの改修を行いました。
https://www.bunka.go.jp/prmagazine/rensai/bunkazai/bunkazai_087.html
森先生は「私の庭園史研究は、歴史のための歴史研究であるより、これからの庭園意匠の在り方を考える参考資料の収集と整理」のためにある、と述べており、調査研究の経験を発想の源とした作庭活動を多数おこなっています。特に、平安時代末期に成立したとみられる作庭技術書『作庭記』に示された作庭思想を「『作庭記』の伝統」と呼び、現代の庭園として繰り返し形にしています。
★いわれの庭/庭と建物を一体として考える哲学を指します。これは、庭が単なる背景ではなく、暮らしの一部として受け入れられることを意味します。★庭屋一如の根底には、禅の思想があり、自然と人が共に生きる感覚を大切にします。庭と建物の境界があいまいであることで、四季の移ろいを楽しむことができ、心身のリズムを整えることができます。
★神武天皇御一代記御絵巻
https://kashiharajingu.or.jp/about/7973.html
文華殿庭園は、玄関の前庭、書院南庭、書院西庭の3区域から成り立っています。玄関の前庭は車が出入りできるように砂利敷きとし、南側の樹林の中に小柄の捨石を配置しています。書院南庭の中央には野筋を作り、大振りの石2つと小ぶりの石4つを据えています。書院西庭には元からあったシャクナゲや枝垂れ桜を切石で取り囲み、花壇を設けています。また、建物沿いには南北に一直線に並ぶ飛石を打ち、社務所に繋がる西門に向かって飛石道と延段を作っています。飛石には自然石、延段には切石を利用しています。文華殿庭園は、建物の中に座りながら鑑賞することもでき、樹林の中の遠路を歩きながら楽しむことも可能です。また、外から文化財の建物を鑑賞できるようにするために、遠路を設けています。
★補足:磐余の道(いわれみち)https://sakuraikanko.com/modelcourse/iware/
桜井から飛鳥へかけての土地は古くは磐余(いわれ)と呼ばれていました。磐余地の西にあった大津皇子の挽歌(ばんか)で名高い磐余池は、現在ではその遺構が東池尻町で発掘されたことで場所がほぼ確定されています。磐余は奈良盆地から飛鳥への入口で、桜井駅のすぐ南には磐余山や芸能発祥の地といわれている土舞台、多くの古墳もあり、のどかな丘陵の散策を楽しめる地域です。
神武天皇の和風諡号、「神日本磐余彦天皇」の中にこの地名が含まれ、天皇の東征の際に、兄磯城の軍が「磐余邑」に駐屯していたことが見える。元の名は片居または片立と言い、大軍が満たした(古語で「いはめり」)ために磐余と改めたという。「要害地」・「石根(いわね)」などの説があり、「石村」を朝鮮の古語で「いわふれ」とよむところから来ているとも言われている。池田末則は「岩群」ではないか、と述べている。・・・調べるほどに奥深い。
