・・・せっかくですから、「ウエロク・アート」も紹介しておきましょう。
《うえほんまちハイハイタウン》Wikiより
上本町駅前の商業施設は1925年に「大軌(大阪電気軌道)ビル」として開設され、そのビルの敷地内に近鉄百貨店の母体となる三笠百貨店がオープン。しかし第二次世界大戦(太平洋戦争)の影響で焼け野原となり、上本町地域の商業ビルも廃墟と化した。戦後は「闇市」が開かれたが、大阪府警察本部は闇市閉鎖を決行。その後改めて地主との賃貸契約を結ぶことで商業閉鎖の危機を乗り切ったが、これを機に住民が「復興速進会」を発足し、1948年「国際商店会」に発展していった。1962年上本町6丁目(上六)商店会から大阪市に対して公園緑地計画の変更を求める陳情書が提出され、上本町地区に地下街を含む地上10階建てのビルディングを共同で建設したい旨を提案。1969年6月に制定された「都市再開発法」を受けて8月に同商店会振興組合により公園の廃止と市街地再開発の陳情書が提出。1974年12月にその変更告示が行われ、1977年に再開発事業の認可を受け、1979年に完成した。
《中田明正氏銅像》
銅像建立趣意書中田明正氏は大正四年東大阪市に生る。幼少の頃より積極進取の気性に富み、後に観光事業に専念業界発展に大きな足跡を残す。今回太平洋戦争直後の闇市から立ち上がった上六商店街振興組合二百余名全員の同意により理事長に推され、再開発事業に取組み土地買収問題を始め総ゆる困難と障害を乗り越え、ここに延べ六万余平方米のビルを建設。うえほんまちハイハイタウンとして揺るぎなき礎を築かれました。この事業は中田明正氏の遠大な構想と不屈の闘志さらに十年の永きに亘る献身的な努力が今日の成果をもたらしたもので、その功労により昨年の竣工式典で知事及び市長より表彰を授けられました。私共もこの功績を讃え末永く顕彰するため 組合員の総意により銅像を建立したものであります。昭和五六年二月十一日/中田明正氏銅像建立発起人会/代表:泉久太郎
《真田幸村緒戦勝利地》
冬の陣で真田信繁(幸村)が緒戦に幕府軍相手の勝利を収めた場所
《参考》平安時代より続く道
京都から大阪を経て、熊野権現の分霊を祀った九十九(つくも)王子をたどりながら、熊野三山へ至る道。それが「熊野街道」である。平安時代中期から鎌倉初期にかけて王朝貴族を中心に熊野信仰が盛んになり、中でも、後白河(ごしらかわ)上皇は34回、後鳥羽(ごとば)上皇は28回も行幸(ぎょうこう)した。やがて、武士や庶民にまで信仰が広がり、大勢の人々がこの街道を往来したことから「蟻の熊野詣」と呼ばれた。熊野詣の道は京都から船で淀川を下り、渡辺の津(現・八軒家船着場跡付近)に上陸。九十九王子の最初の王子、「渡辺(窪津)王子」で旅の安全を祈願して、御祓筋(おはらいすじ)を南下することから始まる。天満橋の交差点から土佐堀通の南側を西に進むと、八軒家船着場跡の石碑。それを通り越すとすぐ御祓筋である。角に熊野街道出発地の石の案内板がある。ここが熊野街道のスタート地点である。土佐堀通をさらに西に進み、1筋めをすぐ南へ曲がると、渡辺王子があったとする説が有力な坐摩(いかすり)神社行宮(あんぐう)がある。本町通、中央大通を越えると南大江公園。このあたりに、2番目の王子「坂口王子」があったと伝えられている。ここから街道は、海岸線・崖があったとされる場所を避けるように上町台地へと向かう。旅の目印だった「榎大明神」の一つ前の通りを東に入り、谷町筋を越え、最初の筋を南へ。四天王寺まで道が続く。
・・・ようやく、ホルベインギャラリーに到着。
・・・素敵な講評を書いていただき、感謝です。