美術鑑賞ノート2 | すくらんぶるアートヴィレッジ

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・・・アート・スリッポンの始まりがピカソの「ゲルニカ」でしたから、

 

★ピカソの作風年表

1881スペインのマラガ生まれ

1891ガリシア地方ラ・コルーニャに移住

1892ラ・コルーニャの美術学校に入学

1895バルセロナに移住、美術学校に入学

★初期《科学と慈愛》

1897父の指導のもとで描いた古典的な様式の『科学と慈愛』が、マドリードで開かれた国立美術展で入選する。佳作を受賞し、約2週間展示される。後にマラガの地方展で金賞を受賞。同年秋、マドリードの王立サン・フェルナンド美術アカデミーに入学。だが、マドリードでも授業内容は今までと同じ古典的な内容で、新しいことや当時の流行を学ぶことができず、★王立アカデミーの体制に失望する。プラド美術館に通い、ベラスケスらの名画の模写をすることで絵画の道を求めていった。

1899バルセロナに戻る。バルセロナにある「四匹の猫」というカフェに通い、芸術家たちと交わりながら絵を描く。簡素ではあるが、このときに自身初の個展を開催する。

★1901〜1904「青の時代」★1904〜1906「ばら色の時代」

★1907〜1909「アフリカ彫刻の時代」★1909〜1919「キュビスムの時代」

★1917〜192「新古典主義の時代」★1925〜1936「シュルレアリスムの時代」

★1937《ゲルニカ》と《泣く女》★1954〜1973晩年《画家とモデル》シリーズ

1973年4月8日午前11時40分(日本時間午後7時40分)頃、南仏ニース近くにあるムージャンの自宅で肺水腫により死去。ヴォーヴナルグ城に埋葬された。

 

《アヴィニョンの娘たち》

アフリカ彫刻や古代イベリア彫刻に強く影響を受けたピカソは、1907《アヴィニョンの娘たち》を完成させる。右側の女性二人の顔の造形にアフリカ彫刻の影響が見られ、キュビスムの原点とされる名作である。この傾向は次の「キュビスムの時代」にも引き継がれる。

「キュビスム」とは、複数の視点から対象を把握し一枚の画面に構成する技法のこと。これは従来の西洋絵画で活用されていた★伝統的な遠近法を覆す革新的な表現だった。また、「キュビスムの時代」は「分析的キュビスム」(1909〜1912年)と「総合的キュビスム」(1912〜1919年)に分けて議論される。分析的キュビスムは円筒、球、円錐などを使って明暗や遠近を表現し、対象を分析する。この時期★それまでに描かれていた風景画はピカソ作品にほとんど登場しなくなり、人物や静物が対象となっていった。一方、総合的キュビスムは写真や新聞の切り抜き、木片、ロープなどが画面に直接貼り付けられる。こうした技法を★コラージュと呼び、美術史においてコラージュを技法として確立したのが、ピカソの1912《藤椅子のある静物》である。

《コラージュ》Artpediaより

https://www.artpedia.asia/collage/

モダニズムにおけるコラージュは、ジョルジュ・ブラックとパブロ・ピカソが起源となっている。1912年の夏、ブラックは木炭を使って一種のデッサンを描いた。その中に壁紙を切り抜いたものが用いられてた。壁紙屋で木肌模様の壁紙を見つけ、木炭デッサンのうえに貼り付けたのだという。その直後、この新しい手法に興奮したピカソは自作に同じ手法を用いて、秋にはパピエ・コレ(貼り紙)のシリーズを仕上げる。この頃からパピエ・コレの技法はまたたく間に広まっていった。ファイン・アート史上において最初のコラージュ作品といわれているのは、1912年のピカソの「藤張りの椅子のある静物」である。ピカソは藤の椅子を絵に描く代わりに、本物の縄と藤椅子の模造符を使った。画面にはほかに、輪切りのレモン、ホタテ貝を表す花鋼装飾のある三角形、輪郭のみで表された透明なコップなどが描かれている。なお、ステンシル文字、新聞紙や雑誌の切り抜き、壁紙、ローブ、リボンなど本来の絵とは異質の、それも日常的なものが絵画に導入される手法を「コラージュ(貼り付けたもの)」。紙の切れ端を油絵や素描の表面に貼り付ける方法の場合は「パピエ・コレ(=糊付けした紙)」と呼ばれる。コラージュはピカソが、パピエ・コレはブラックが発明したとされている。彫刻のように立体化したものは「アッサンブラージュ」と呼ぶ。ピカソのコラージュは、ブラックのパピエ・コレよりも奇抜だった。ブラックはコラージュの断片を論理的に用いていたのにたいし、ピカソはコラージュの断片をつじつまの合わない使い方として★楽しみ、ひとつの物を別の物に転化させたり、新しくつなぎ合わせたものの形から、★思いがけない意味を引き出したりした。これが、現在までの「コラージュ」の基本的な概念となる。

【ジョルジュ・ブラックGeorges Braque】(1882~1963)

フランスの画家。パブロ・ピカソと共にキュビスムの創始者のひとり。ピカソよりも画家としてのキャリアでは劣ったが、絵画における発明の才はピカソも一目を置いた。第一次世界大戦を挟んで画風は一変するが、生涯に渡って絵を書き続けた画家である。1900年にパリに出て、モンマルトル界隈のトロワ・フレール通りやルピック通り周辺に居住した。兵役についた後の1902年(22歳)から美術学校に通う。初期の頃はアンリ・マティスの影響を受け、野獣派に近い作品を制作していた。1907年、サロン・ドートンヌでセザンヌの記念回顧展を訪れ、また同じ年の11月には詩人ギヨーム・アポリネールと共にピカソのアトリエを訪れ★『アヴィニョンの娘たち』を見たことで衝撃を受ける。偶然ではあるが、ブラックはセザンヌとピカソの絵画にほぼ同時に影響を受けることとなった。以降しばらくの間、レスタックとパリを往復しながら絵画制作に取り組んだ。1908年、セザンヌ的な風景画をブラックは数点残した。しかし、セザンヌに影響されたとは言えその作品はセザンヌとはまったく異なるものである。後にマティスに★「小さなキューブ」と評される『レスタックの家々』や、ブラック最初のキュビスム的作品と言われる『家と木』(Maisons et arbre)もこの年に製作された。この時期の絵画(風景画)で非常に興味深いのは、セザンヌ的な構図ながらキュビスム的である、ということである。『家と木』を例にとれば、セザンヌの風景画のように遠近のダイナミズムの強調のためか手前に木を配しているが、家自体は単純な立方体(キューブ)で表現されているのである。ピカソがアフリカ芸術への取り組みからキュビスムへ発展したと言われているのに対し、★ブラックはセザンヌへの取り組みからキュビスムへ発展したのである。これは後にキュビスム絵画を展開するにあたって大きな意味を持つこととなり、留意すべき点である。そして1909年の冬から春にかけて、★ピカソとブラックは初めての共同作業を始めることになる。

・・・これまでの伝統的な表現を覆す20世紀の革新的なアートが、ここから始まったのです。感動しかありません。

・・・そして、「ゲルニカ」が生まれました。しかし、それは喜ばしいことではありません。アートはどうあるべきなのか、今日においても問いかけています。

・・・そして21世紀、ピカソの遺言?をどううけとめていくのか、考え続けています。