美術鑑賞ノート1 | すくらんぶるアートヴィレッジ

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・・・商店街を基盤とする「玉手箱プロジェクト」、単なる展覧会やイベントにはできない新しい価値を創造していきたいと常に考えています。「アート・スリッポン」そして「工作応援団」や「ホップステップ造形教室」を展開してきました。さらに新しく、「美術鑑賞ノート」を始めます。夏休み、小学校の先生方に「図工研修会」を実施しましたが、そのレジュメ冒頭には次のように書きました。

 

《「みる」ことからはじめよう》/見る・視る・観る・診る・看る

当日、多くの参考作品を展示、可能であれば研修開始より少し早めに来校「鑑賞」してください。

★展示の「魅せる(映える)」工夫で、興味関心そして制作意欲が高まります。

★見るポイントは《3のココロ》色形材、赤青黄、〇△□、1学期2学期3学期、大中小、長中短、速中遅、高中低、暑中寒など

・・・ただ「漠然」と見えているのと、じっくり「みる」では大きな違いがあります。そして願わくば、「やってみる」「かいてみる」へとつなげたいと考えています。それでは初めに、

 

《ラファエル前派(Pre-Raphaelite Brotherhood)》

19世紀の中頃、ヴィクトリア朝★イギリスで活動した美術家・批評家(彼らは詩も書いた)から成るグループである。19世紀後半の西洋美術において、印象派とならぶ一大運動であった象徴主義美術の先駆と考えられている。1848年のイギリスにおいて3人の画家、ダンテ・ゲイブリエル・ロセッティ、ウィリアム・ホルマン・ハント、ジョン・エヴァレット★ミレイ(ミレース)を中心に結成されたグループ。「ラファエル前派」という名前は、彼らがラファエロ(1483~1520)以前の初期ルネサンスやフランドル芸術を規範としたことに由来している。アカデミーの規範となっているラファエロ以降の16、17世紀のルネサンスおよびそれ以降の芸術を、構図、色彩などすべてにおいて表現方法が★規制された抑圧的で不十分なものと考えた。ラファエル前派はルネサンス以降続くアカデミーの伝統を拒否したため厳しい非難を浴びるが、『近代絵画論』における自らの主張を体現しようとしたこの若い画家たちを★ラスキンは擁護した。次第に彼らは社会に受け入れられるようになったが、グループ自体は長続きしなかった。絵画、装飾芸術、工業デザインなどそれぞれの道を歩むようになる彼らだが、その後世に与えた影響は計り知れず、特に絵画においては★「象徴主義」の最初の一派として評価されている。

 

・・・「ラファエル前派」から始めようと思ったのは、

★「オフィーリア」の作者はジョン・エヴァレット・ミレーです。19世紀(1829年6月8日~1896年8月13日)のイギリスの画家で、ラファエル前派の一員として数えられます。この絵画の題材となったオーフィリアとは、シェイクスピアの4代悲劇の一つ、『ハムレット』に登場する、ヒロインです。『ハムレット』は、ある日、急死したハムレットの父の死因が、ハムレットの叔父にあたるクローディアスによる毒殺だと知ったハムレットの復讐を描いた物語です。そのハムレットの恋人がこの絵画に描かれたオフィーリアなのです。主人公ハムレットは、オフィーリアと恋仲の青年。ある日、国王(ハムレットの父)が急死してしまい、王の弟が代わりに即位します。そして、亡くなった王の妻(ハムレットの母)は新たに王となった弟と結婚します。しかし、後日ハムレットは王の亡霊から「私は弟に殺された。王位と妻を簒奪された」と伝えられます。実は、弟が国王を毒殺していたのです。事実を知ったハムレットは狂気を装い、弟を殺して復讐することを誓います。ハムレットはその後、過激な言葉で物事を批難するようになります。恋人オフィーリアはそのハムレットの変貌ぶりに驚き戸惑いますが、宰相ポローニアス(オフィーリアの父)はハムレットの狂気をオフィーリアへの恋わずらいによるものだと予測します。ある日、ハムレットは王妃(ハムレットの母)と会話しているところを、隠れて盗み聞きしていた宰相ポローニアス(オフィーリアの父)を、王と誤って刺殺してしまいます。復讐に燃える恋人に、冷たい態度を取られ続けられたうえ、自身の父親を殺されてしまったオフィーリアは、自ら川に身を投じ、溺死に及びます。ミレーの「オフィーリア」は、悲劇的な運命を遂げた彼女の最期を描いた作品なのです。当時のロイヤル・アカデミーの教育は、ルネサンス期のラファエロを頂点としたものでした。それ以外の表現を認めない方針に不満を持ったミレイら若い画家が集まって1848年に興した芸術運動が、ラファエル前派です。彼らはラファエル以前の中世や初期ルネサンス美術を規範とし、伝説や文学を題材として、素朴な信仰心や美に対する純粋な思いを描きました。敬虔で清楚な優雅さ、自然観察を重視し細部まで丁寧に描き上げられた描写が特徴です。「オフィーリア」はラファエル前派の最高傑作のひとつ。鋭い観察から生まれる緻密なシチュエーションと斬新な構図や、背景のみずみずしい自然と繊細な筆づかいなど、ラファエル前派の理想がこの一枚にちりばめられています。ミレーは自分のイメージに合う景色を探し、ロンドン郊外にあるホッグズミル川を見つけました。背景のイメージを掴んだミレーは、人物を描くときはリアリティを出すために、★モデルにバスタブに湯を張り浸かってもらうという要求をしました。そのためミレーはその★お湯が冷めてしまう前に、スケッチを終える必要がありました。1852年、ロイヤル・アカデミーで展示された「オフィーリア」。称賛の声もありましたが、当初の評判は芳しくないものでした。「雑草に囲まれた川にオフィーリアを水浸しにする神経は理解しがたく、★悲哀と美しさを奪っている」というタイムズ紙の批評をはじめ、オフィーリアの放心したような表情に、★知性の欠如を指摘するものまでありました。ラファエル前派の支持者であった批評家ラスキンも、★技術は認めながらも背景の描写については疑問を呈しています。しかしやがて、精緻な草花や風景の正確な描写を賞賛されるようになり、後世の画家に影響を及ぼしていきます。ミレーの没後40年となる1936年、「オフィーリア」は再び注目を集めこととなります。シュルレアリスムの画家★サルバドール・ダリが、シュルレアリスムの雑誌でこの作品を高く評価したのです。彼は、「眩いばかりに美しく、同時に最も理想的で、最も恐ろしい女性像を描きだして見せた」と、オフィーリアを高く評価しました。ミレーの「オフィーリア」は、現代でもさまざまな場面で★オマージュされています。

《宝島社の企業広告》

https://withnews.jp/article/f0160227001qq000000000000000W00o0601qq000013059A

シェークスピアの悲劇「ハムレット」に構想を得た「オフィーリア」。恋人ハムレットに父を殺されて、気がふれたオフィーリアが、川に落ち沈んでいく場面を描いたとされています。

「死について考えることで、どう生きるかを考えるきっかけになれば」というメッセージが込められた今回の広告に対し、★樹木さんはこうコメントしています。

「宝島社の企業広告はこれまで目にしたことがあり、かなり記憶に残っています。それはすごいことだと思い、お受けしようと思いました。★『生きるのも日常、死んでいくのも日常』死は特別なものとして捉えられているが、死というのは悪いことではない。そういったことを伝えていくのもひとつの役目なのかなと思いました。

企業広告で伝えたいメッセージについて、宝島社の担当者に話を聞きました。

「日本の平均寿命は年々更新され、今や世界一。いかに長く生きるかばかり考え、いかに死ぬかという視点が抜け落ちていると感じ、今回のテーマとしました。★いかに死ぬかは、いかに生きるかと同じこと。それなら個人の考え方や死生観がもっと尊重されていいのではないか、という視点から問いかけています」

「ビジュアル面では、絵画的な世界観を表現するため撮影のしかたを工夫しました。スタジオに、★オフィーリアの絵画と同じ景色を作り、8×10(エイトバイテン)という大判のフィルムカメラを使って撮影しています」「もともと『人は死ねば宇宙の塵芥(ちりあくた)。せめて美しく輝く“星”になりたい。』だったフレーズも、樹木さん自身と話し合いを重ね、最終的に『“塵”になりたい』に決まりました」(ここでいうフレーズとは『死ぬときぐらい好きにさせてよ』というキャッチコピーの下にある文面)「ミレイの絵の花にはすべて意味があるといわれています。今回の広告でも同じものを用意していますが、一部に現代的・日本的エッセンスを加えています。胸元の赤い花は、日本の象徴的な花・椿(つばき)です。1月の季節の花でもあり、花言葉の『気取らない美しさ』『慎み深い』。また、左上の青い鳥は、日本の水辺でもよく見る日本、三鳴鳥のひとつのオオルリになっています」「掲載当日から、1カ月以上たった今も、老若男女、多くの方々から反響が届いています。★特に50~70代からの反響が大きく、『とても共感できた。もっと掘り下げた特集が見たい』『自分の生き方や終活について考えるきっかけとなった』と好意的な意見が寄せられています。SNSでは若い世代の間でインパクトあるビジュアルが話題となり、テレビや雑誌でも今回の広告をきっかけに、現代人の死生観を問う特集がいくつも組まれています」

《象徴主義》

「芸術作品は第1に観念的であるべきである。そのただ1つの理想は観念の表現であるから。第2に象徴的であるべきである。その観念に形を与えて表現するのだから。第3に総合的であるべきである。諸々の形態や記号を総体的に理解される形で描くのであるから。第4に主観的であるべきである。事物は事物としてではなく主体によって感受される記号として考えられるのであるから。第5に装飾的であるべきである。」

Car nous voulons la Nuance encore,    それというのも我々はニュアンスを望むから、

Pas la Couleur, rien que la nuance !  色彩ではない、ただニュアンスだけを!

Oh ! la nuance seule fiance    ああ! ただニュアンスだけが

Le rêve au rêve et la flûte au cor ! 夢と夢を、フルートと角笛を調和させる!

文学においては、象徴主義運動はシャルル・ボードレールの『悪の華』(1857)にその起源が見出される。象徴派の美学は1860-70年代にステファヌ・マラルメとポール・ヴェルレーヌによって発展を見た。1880年代には、一連の宣言文に支えられ、象徴主義美学は一団の作家たちを呼び寄せた。ボードレールによるエドガー・アラン・ポーの作品の仏訳は大きな影響力を持ち、象徴主義の数多くの転義法とイマージュの源泉となった。19世紀後半、従来の★アカデミスムに対する反発として、一方に印象派の傾向、他方では象徴主義の傾向が見られた。象徴主義は人間の内面や夢、神秘性などを象徴的に表現しようとするもので、文学上の象徴主義と関連して名づけられた。★ギュスターヴ・モローが代表的な作家であり、ユイスマンスは『さかしま』の中でモローを高く評価している。

【ギュスターヴ・モローGustave Moreau】(1826~1898)

フランスの象徴主義の画家である。パリに生まれパリで亡くなった。聖書や神話に題材をとった幻想的な作風で知られる。印象派の画家たちとほぼ同時代に活動したモローは、聖書やギリシャ神話をおもな題材とし、想像と幻想の世界をもっぱら描いた。彼の作品は19世紀末のいわゆる『世紀末』の画家や文学者に多大な影響を与え、象徴主義の先駆者とされている。モローは1888年に美術アカデミー会員に選ばれ、1892年にはエコール・デ・ボザール(官立美術学校)の教授となった。モローの指導方針は、弟子たちの個性を尊重し、その才能を自由に伸ばすことであった(「私は君たちが渡っていくための橋だ」とモローは語っていたという)。エコール・デ・ボザールのモローの元からは★マティスとルオーという2人の巨匠が生まれている。その反面、伝統を重視する他の会員たちからは疎まれ、マティスを始めとする彼の庇護を受けた生徒はモローの死後にエコール・デ・ボザールを追放されている。晩年は次第にサロンから遠ざかり、パリのラ・ロシュフーコー街の屋敷に閉じこもって黙々と制作を続けた。サロンから遠ざかっても、モローは画廊やパリ万博では個展や特別展示など注目された。1898年に世を去った。生前のアトリエには油彩画約800点、水彩画575点、デッサン約7000点が残っていた。彼が1852年から終生過ごしたこの館は、遺言により★「ギュスターヴ・モロー美術館」として公開されている。1912年にはアンドレ・ブルトンがこの美術館を訪れている。ちなみにギュスターヴ・モロー美術館の初代館長は、モローの遺言により★ジョルジュ・ルオーが務めた。