H・S・Z(12)公募団体 | すくらんぶるアートヴィレッジ

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・・・ちょっと美術史的な内容に傾倒しすぎていますが、あと少しお付き合い願います。

 

《もの派Mono-ha》

1960年代末から70年代初頭にかけて現われた、★「具体」と並ぶ戦後の日本美術史の重要動向。主に木や石などの自然素材、紙や鉄材などニュートラルな素材をほぼ未加工のまま提示することで主体と客体の分け隔てから自由に★「もの」との関係を探ろうと試みた一連の作家をさす。作品を取り囲む★空間を意識させる点では、60年代後半の★「環境」への注目とも関係しており、★インスタレーションの先駆ともいえる。★関根伸夫の作品《位相-大地》(1968)が嚆矢とされたが、明確なグループが形成されたわけではない。関根以外の主な作家は★李禹煥、菅木志雄、高松次郎、成田克彦、吉田克朗、小清水漸、榎倉康二、野村仁、狗巻賢二、原口典之、高山登らで、特に李を理論的支柱として展開した。グループを形成したわけでない以上、生前に自身はもの派でないと述べていた高松次郎など、作家、論者によってもの派と呼ぶ作家の範囲には幅がある。彼らに目立つ★「作らない」姿勢は60年代の反芸術の延長にあった極北ともいえる傾向だが、現象学を援用した李の「あるがままの世界との出会い」、関根の★「概念性や名詞性のホコリをはらってものを見る」といった★老荘思想経由の言葉に代表されるような、哲学・思想との強い結びつきも大きな特徴。名称は当初蔑称として誰ともなく使われ始めたようだが、『美術手帖』70年2月号の作家達による座談会において「もの」という言葉が表面化した。★「もの」は「物・物質・物体」に限らず、「事柄」「状況」までを広く含む日本語特有のあいまいな概念。「前衛芸術の日本 1910-1970」展(ポンピドゥー・センター、1986)でまとまった形で紹介され、国際的な評価も高い。とりわけ「見ること」(観想)の重視と「作ること」(作為)の消極性において日本における影響が大きく、★アルテ・ポーヴェラやシュポール/シュルファス、アンチ・フォームといった同時代の海外動向との平行関係、後世への影響や起源などを研究する試みがなされているが、李、菅の二人がもの派の延長で2010年代に入ってなお旺盛に論理を深化させている状況を見ても、そのアクチュアリティはきわめて長期にわたっているといえよう。

 

《NEWS》2019.5.14共同通信より

彫刻家の関根伸夫さんが死去

木や石などの自然素材を加工せず作品として提示する美術動向「もの派」を代表する彫刻家の関根伸夫(せきね・のぶお)さんが2019年5月13日午前9時20分、米カリフォルニア州の病院で死去した。76歳。さいたま市出身。1968年、地面を掘った穴と、その土を積み固めた円柱が対を成す「位相―大地」を神戸市の野外彫刻展で発表し、注目を集め、「もの派」誕生の契機になったとされる。70年には、イタリアのベネチア・ビエンナーレ国際美術展に出品した。

https://artscape.jp/report/curator/10160315_1634.html

 

《アルテ・ポーヴェラ》Arte Povera(伊)/アートスケープ「アートワード」より

1960年代後半~70年代前半にかけて確立・展開したイタリアの芸術運動。「貧しい芸術」を意味し、鉛、新聞紙、木材、石、ロープなどの素材を頻繁に用いた。67年に、この動向の命名者である批評家ジェルマーノ・チェラントによって「アルテ・ポーヴェラ、Im空間」展がジェノヴァで企画されたことを端緒として、イタリアの若手作家らによる緊密な連帯関係が構築されていく。さらに69年にチェラントは作家との共同編集によるカタログ『アルテ・ポーヴェラ』を発刊。同書にはランド・アートやポスト・ミニマリズムの作家などが含められ、アルテ・ポーヴェラの国際的な立場からの検証が進められた。また、同年に開催された「丸い穴の中の四角い杭」展(ステデライク美術館、アムステルダム)、「態度が形になるとき」展(クンストハレ・ベルン)などの国際的な展覧会にアルテ・ポーヴェラの作家たちが多く参加し、国外での認知度も高まった。素材の物理的実在性を、空間的・環境的作用因へと拡張しようとする傾向や、力学的な緊張感や時間的プロセスを可視化させようとする「反-虚構性」(G・チェラント)によって、60年代の他の美術動向とも通底している。

「アルテ・ポーヴェラ」は1960年代から注目を集め始めた。「権力に奉仕する作家」が大理石やブロンズといった伝統的な素材を利用していたのに対して、「アルテ・ポーヴェラ」の作家は反エリート主義を掲げ、★「身の周りのありふれた素材」を使って自らの理念を表現しようとしました。「木の切れ端とか古新聞を芸術の中に置くと、その素材の疲労が払拭され、★豊かさの状態に戻されるわけです」とメルツは語っています。メルツの作品は、素材・形態とも多種多様ですが、ガラスや古新聞、ネオン管を組み合わせたインスタレーション、建築構造物の原型ともいえるイグルー(原義はエスキモーの半円球の氷の家)、そして、ネオン管による「フィボナッチ級数」の表示が中心です。フィボナッチ級数とは、1・1・2・3・5・8‥というように、先行する二つの数字の和が次の数字となり、無限に展開する数列のこと。蝸牛の殻の螺旋構造など多くの自然現象の基をなすとされ、13世紀のイタリアの数学者レオナルド・フィボナッチがウサギの出生率に関する数学的解法として発見したものだそうです。広島の原爆ドームを連想させる巨大な石のイグルー、城壁や塔の側面に配したネオンの数列など、その作品は意表を突く場所にあり、観る者に意識の変革を迫っているんですね。

 

・・・過去の美術動向である「もの派」や「アルテ・ポーヴェラ」を現代によみがえらせようなどと考えているわけではありませんが、

 

《公募団体展》美術手帖より

https://bijutsutecho.com/artwiki/120

公募団体展の始まりは、1907(明治40)年に公的な展覧会(官展)として設置された文部省美術展覧会(文展)に見出される。しかしその背景をたどると次の経緯がある。明治政府による文教政策の一環として、1879(明治12)年に龍池会(のちの日本美術協会)が創設されたこと、その結果、白馬会などに代表される各流派の展覧会が行われるようになったこと、そしてこれら各流派を統括した展覧会を開くことへの機運が高まったことにより、1907年に文部省の定めで、日本画・西洋画・彫刻の三部体制で第一回文展が開催されることとなった。その後、文展は★審査体制への不信などから1919(大正8)年に帝国美術院展覧会(帝展)として再編成され、1937(昭和12)年には新文展へ改称。さらに46(昭和21)年になると敗戦を機に★民営化されるかたちで日本美術展覧会(日展)へと改称した。その後も日展は長きにわたり国内最大の公募団体展として存在するが、文展から帝展へと至る過程にも見て取れるように、審査の不透明性への不信や昇格をめぐる派閥争い、さらには幹部会員と美術系大学の教員ポストとの癒着など、★構造に対する問題点は早くから批判されており、そのたびに不満をもつ作家らによる脱退と別団体の立ち上げが繰り返されてきた。その数は200以上にも及んでいる。しかしいずれの団体も同様の構造的問題からは逃れられず、60年代頃より美術史の表舞台から姿を消していくこととなった。またこうした問題は、2009(平成21)年に朝日新聞の調査により発覚した日展不正審査問題として大きな批判を浴び、14(平成26)年に日展は展覧会名を改組新日本美術展覧会(改組新日展)と改めることとなった。しかしそれらの諸問題とは裏腹に、公募団体展は★いまなお全国に多くの作家を擁する一大勢力となっている。その要因のひとつは地方展で、有力団体は各地方に支部をもち、各地域で活動するアマチュア/セミプロ作家や美術教員らの★受け皿となることで、全国的なネットワークを形成している。さらに、そうした側面を★「生涯学習」として再評価するべきとの指摘もあるなど、公募団体展の存在は一概に批判されるばかりのものではない。また同系列の作家は全国百貨店で発表を行うことも多く、一般社団法人アート東京の調査によると、19年(平成31年/令和元年)に国内現代美術の市場規模(平面・立体・インスタレーション含む)が458億円であったのに対して、★百貨店美術(通販・外商扱い含む)の市場規模が567億円にのぼるなど(そのすべてが「公募団体展系作家」のものではないにせよ)、その経済規模は決して小さくない。そして、公募団体展が構造的に孕むこととなった諸問題(評価の不透明性、派閥争い、アカデミズムとの癒着など)は、近年では公募団体展以外の領野でもその問題が指摘されることが多く、そうした意味でも公募団体展は、★美術界全体が孕む構造的問題に先行する存在として批判的に再考されるべきものである。

 

・・・誰が再考するのか?と考えた時、それは自分でしかないと思うわけです。

 

《参考》「現代の美術と我らの時代」/美術運動(日本美術会)より

https://www.artmovement.jp/

★美術公募団体が継続される理由

https://www.artmovement.jp/145-04/

高齢化という問題は、他の公募展も一緒なんですね、普遍的な問題。現代美術と公募展の★「乖離」が進んできている。若い人は公募展に魅力を感じない。参加しなくなってきたことは確か。「乖離」が縮まらない。韓国・中国も同じような感じ、現代美術とアカデミズムの「乖離」は同じ、日本は長く平和が続き、安定したために集金機構ができてしまった。どっちにしてもそういう時代ではないよね~! 北川フラムがディレクターの北アルプス国際芸術祭(長野県大町市)を見たが、★地域振興の道具であることに違和感がなく、むしろ良い事として見られた。それって、★観光として芸術を使うことにけっこう賛否がある。地方創生大臣の「学芸員はガン」という発言があったりね~。文化財を経済効果を生む観光資源として使っていいかという議論になったが、もともと1873年のウイーン万博のときに、ドイツ語から訳されたのが「美術」という用語の始まりだった。そもそも美術制度というのは、★経済活動と密接に結びついて生み出されている。美術館も、明治期の殖産興業として上野の内国勧業博覧会で初めて生み出されている。ミュージアムというと、コレクションが主体のはずだけれども、日本ではまず展示場のイメージだと思う。戦後美術史のメインストリームの解釈ができてない。コンテンポラリーという現在性の見方が必要。ニューヨークなどからみるメインストリームは反芸術とかネオダダ・具体とか、とそうみているわけですよ。日本ではそれらは★マイナーな存在のままですよ!★「この国の特殊性」をリセットしないと・・・。保守美術では「万世一系」まで出てくるわけで、前衛支持派は日展・公募展ぶっ潰せということで、新左翼と似たものになり、両面ともあまり受け入れられずにいる。左も赤軍事件・テロリズムにまで行って市民運動から孤立しちゃうわけ。両面とも受け入れられなかった。日本の特殊性なんだな~。ほかのエリアだと違うわけです。フランスやドイツ、イギリスなど見ると違うわけで、乗っ取るような関係。一度リセットされるわけ。日本はそうはいかない。個人の問題と表現というものがどこまで本物か?ということだろう。表現の表出という問題で「個」と「公」と結び付けているのがアートなんで、歴史的に見た場合、★個人の尊厳と権利と表現はイコール。本来、個は政治的問題とリンクせざるを得ない。日本近代美術の成り立ちからそうなんだな~。武居さんがおっしゃったように殖産興業から来ている、東京帝大の下部に作られた工部美術学校では、フォンタネージが呼ばれたわけだけど、国家は紙幣の肖像画を作るのが第一だった。明治政府は芸術を振興したのではないのです。以下略

 

・・・日本の近代美術(外国のことはよく知りませんが)における様々な「乖離」、それこそが日本の「近代美術」なのだろうと思います。そして、そのような状況下で再考しつつ、どこに身を置くのか?ということになるわけです。