・・・「アジサイ」を追いかけての帰り道、二上山ふるさと公園「国見の丘」の大津皇子「鎮魂の響」鐘をきっかけに、意を決して「屯鶴峯」を訪れた。
http://www.pref.nara.jp/miryoku/aruku/kikimanyo/route_manyo/m07/
《どんづる峯》
https://www.city.kashiba.lg.jp/kanko/0000001976.html
千数百万年前に二上山の火山活動によって火砕流や火山灰などが堆積し、その後の地殻変動によって隆起し、さらに、長い年月の間に侵食されて現在の姿になりました。古くは古墳の石棺材や寺院の基壇などの石材として利用されました。遠くから見ると鶴が屯(たむろ)しているような奇観のため、この名称で呼ばれるようになりました。≪県指定天然記念物≫
・・・小学生の頃に遠足で来たような記憶があるけれど、久しく訪れることはなかった。「街道」に興味を抱いたことをきっかけに数回立ち寄ったりしたが、かなり滑りやすく景色を眺めたらそこそこに引き返し、深追いすることはなかった。
・・・「葛城アート」への出品から塩崎監督を知り、映画「かぞくわり」に出会う。
https://www.city.katsuragi.nara.jp/soshiki/shokokankoka/5/1014.html
《NEWS》奈良はファンタジー要素がたくさんあるスーパー空間。★『かぞくわり』塩崎祥平監督インタビュー
https://cinemagical.themedia.jp/posts/5985128/
★地元の心霊スポット、地下壕からのインスピレーションと、穴での営みに込めた思い。
――――なるほど。あと清治が見事な香奈を連れていき、創作活動を再開する場所となる見事な地下壕があるのにも驚きました。
塩崎:実際に地下壕があります。本当に「こんなもんがあったら、『死者の書』の話が描けてしまうやんか。やめて〜〜〜!!!」みたいな感じで、どうしても描きたくなってしまいました。地元では心霊スポット、肝試しスポットとして有名な場所で、色々な逸話もあります。家族の物語を描くにあたり、絵の道を断たれ、今は40歳を前に無気力な主人公が、新しい家族を作り、命を繋いでいこうとするのか。新しい命を育みたいと思うのか。穴というのは、産道という意味も込めています。家族を物語る上で「死者の書」を少しずつ僕の中で、消化していく中の一つの要素でもありました。
・・・実際の「地下壕」を一度は見てみたいと思いつつも、滑りやすい「屯鶴峯」に足すくんでいたのです。そして、とうとう今日こそ。
《屯鶴峯観測所》京都大学
http://www1.rcep.dpri.kyoto-u.ac.jp/observatories/DON.html
この地に太平洋戦争の末期1944 年ごろから当時の陸軍により、★最後の抵抗の拠点とすべく延長2km におよぶ網の目状の防空壕が掘削されましたが、予定していた航空総軍戦闘指令所などの軍事施設が完成する前に終戦を迎えました。戦後、この戦争遺跡ともいうべきトンネルの一部(坑道平面図で赤色の部分)が、地震予知をめざす研究のための地殻変動観測坑道として活用されています。地殻変動観測は土地の伸縮や傾斜を精密に観測することで、測量による方法と、トンネル内でひずみ計(水平 に保持した水晶管やスーパーインバー棒を不変長のスケールとして地面の伸縮を計る;この構造のものは伸縮計と呼ぶ)や傾斜計(水平坑道では連通水管の両端の水面を基準面として、その地面からの高さ変化より傾斜を測るものが主流)を使う方法、最近では GPS など宇宙技術も使われます。伸縮計・傾斜計による観測は、10のマイナ ス9乗の極微小な歪変化が計測可能で、精密な測定を乱す気温変化などの影響から免れるために地下に計器を設置します。京都大学では、この観測の古い歴史をもっており、本誌 No.641(2009.1)本コラムの★阿武山観測所でも触れているように、1912年には理学部地球物理学教室の初代責任者の志田順が、地殻変動観測で 記録された地球潮汐の解析から月・太陽による起潮力が引き起こす変形を正確に記述するためのパラメータの一つを提唱し、それはよく知られた数理物理学者A.E.H.Love の名を冠したラブ数とともに、志田数として現在も地球の物理特性や地殻変動の解析には欠かせない理論の一部を形成しています。その後、地 震発生と地殻ひずみの関係も着目され、全国の多くの鉱山や戦後に残された防空壕を利用した観測が行われ、本坑もその一つです。1965年度から地震予知研究計画が始まり、これに基づく観測所として、★1967年6月にこのトンネルを利用した防災研究所附属屯鶴峯地殻変動観測所が発足しました。庁舎は坑道 の北約800mの地に鉄筋コンクリート2階建で、1969年3月に竣工、観測坑道の入り口には遠隔記録室が建設され、データが庁舎まで伝送されます。創立当初から助手1名(2008 年3月定年退職)、技官1名が常駐し、この坑道とともに後述する衛星観測点なども含めて 観測・研究にあたっています。また、防災研究所の研究部門とは密接な連携を保ち、観測所長は関連部門の教授が兼務しています。初代所長は、観測所の官制が施行される前からこの地での観測を進めていた高田理夫教授(現名誉教授)が停年(1987年)まで務めました。データ伝送・処理システムなども充実してきて、1986年のテレメータ化以後は、宇治へもデータが転送されるようになりました。1990年には、防災研究所に地震予知研究センターができたのに伴い 同センターに移管され、屯鶴峯観測所となりました。1994年には、地震予知計画に基づき西日本の各観測点が「地殻活動総合観測線」として束ねられましたが、本観測所は近畿地方の中央にあって、上宝、鯖江などの「北陸」と鳥取や阿武山などの「近畿山陰」の両測線の交点として重要な位置にあります。観測坑道は、2000万年前~1500万年前ごろの二上火山群の火成活動の堆積物であるドンズルボー層という地層に掘られています。白色凝灰岩や凝灰角礫岩の素掘りの坑道でしたが、崩落の恐れがあるため、観測坑の部分のみ1979年にコンクリート吹き付け工事を行いました。観測坑道内には各種の伸縮計や傾斜計が設置されており、特色ある機器としては、6成分伸縮計があげられます。通常、伸縮計は水平ひずみの算出のために3方向で測りますが、本坑では均質3次元ひずみを表すのに必要な6パラメータを勘案して、鉛直成分を含む6成分で連続観測を行っています。観測開始からの41年間の連続観測の記録は、地震予知研究の貴重なデータとなっています。(以下略)
・・・さすがに、忽然と目の前に現れた「観測所」は鳥肌ものでした。
・・・さらに、やみくもに前へ前へ登ったり下りたり、とうとう真っ暗な穴を発見することができました。
・・・何の準備も心構えもないまま思いつきの「屯鶴峯」、かろうじて飲み物を持っていたから良かったのですが、かなりヘロヘロ30分ほど休憩しないと下山できない、気持ちは大満足カラダは悲鳴をあげる。体力の衰えは如何ともしがたい、今日でよかった。数年後なら無理だったかもと思うと、できるうちにひとつひとつ「付箋」をクリアしていくしかないなあ。やれやれ