(1)勉強が苦手で、「スポーツ」と「アート」に活路を求めた中学時代。幸い?体格的に勝ち目がないと「スポーツ」を断念し、「アート」に傾倒したのが中1の3学期。美術部に籍を置いて、生まれて初めて描いた「油絵」、無理言って買ってもらった道具を携えて、父の実家・松原市「若林」近くの「大和川」堤防に野外イーゼルを立てる。
・・・以来50年以上を経て、今なおアートへの情熱は尽きることがない。ただ、なぜ描くのか?という命題に、そろそろ終止符をうちたいと願っている。
(2)残りの中学生活は、ひたすら多くの画家たちを知ること(画集あさり)に明け暮れた。この時期に知った画家たちは、まさしく表現の基盤(土台)となっている。とりわけ今なお鮮明に脳裏に焼き付いている出来事があった。
(3)中3ともなると早々に部活を引退して受験に取り組むのが通常であるが、私は引退もせずに卒業間近まで美術室に通い、ひとりキャンバスに向かっていた。当時は、単純化をベースにした抽象画もどきを描いていた。なんとかモナリザを抽象で描きたいともがいていたところ、いつの間にか先生が後ろに立たれていて、「ちょっとどいてみろ」と声をかけてくださった。おもむろに左手でペンティングナイフを使ってモナリザ顔に「L字」を刻まれ、「どうや?」と私の顔を凝視された。あまりの見事さに言葉もなかった。
・・・この感動を味わいたくて、今日まで歩んできたように思う。
(4)高校生活は、もっぱら「美大」への進学を念頭に青春を謳歌した。美術部そして「高校展」さらに「美術研究所」に通い、美大に行かれた美術部先輩たちの誘惑も大きく、めざすは「東京」であった。教育実習に来られた先輩からは、とても大きな刺激を受けた。
・・・今から想うと、美術を学びたい・教えてもらいたいという気持ちはこれっぽちもなく、ただ描きたかった。ようするに「美大」という「アトリエ」、「下宿」という自由な環境が欲しかったに過ぎない。失礼ながら、「美大」に行って何も学ばなかった、それが自慢?みたいなものである。だからこそ充実した4年間を過ごし、これと言った目的意識もなく、自然の成り行きで「教員採用試験」を受けて帰阪したわけである。
・・・大学時代のアルバムに、「鷹の台」地図や大学前「宝揚軒」のメニューがあった。当時を知る貴重な資料なので掲載しておく。
(5)東京会場で面接、実技は大阪府立阿部野高校が会場であった。高校生のアルバイト?モデルを前に人物スケッチ、デッサンというほどの時間もなくあっさりと描き終えて、少し見て歩いて驚いた。あまりに「ヒドイ」、それまで教師になることについて深く考えもしなかったが、正直「私がなった方がマシだ」と思った。
・・・中学時代の恩師たちのアドバイスもいただき、最初に赴任したのが羽曳野市立高鷲中学校(現・高鷲北小学校)であった。なんと、最初に野外イーゼルを立てた「若林」の近く、さらに校区には高校時代の恩師の家「吉村邸」があった。高校時代、「趣味の方が純粋な絵が描ける」と主張して先生から「それは違う」と指導を受けたことを思い出す。