・・・行きたかった、でも行けなくなった。
《原美術館》
140-0001東京都品川区北品川 4-7-25/03-3445-0651
https://www.haramuseum.or.jp/jp/hara/
原美術館が活用している邸宅は、原邦造の私邸として★渡辺仁が設計し、昭和13年(1938)竣工したものである。渡辺は上野の東京国立博物館本館や銀座の和光本館(旧服部時計店)の設計で知られる、当時の代表的な建築家である。原美術館は、財団法人(現・公益財団法人)★アルカンシェール美術財団を母体として昭和54年(1979年)に開館した。現代美術の最新の動きを紹介する意欲的な展覧会を随時行っており、「ハラ・アニュアル」展の開催などによって、有望な新人の紹介にも努めている。館内各所に、レイノー、森村泰昌、宮島達男などのインスタレーション作品がみられるが、戦前の個人邸宅の雰囲気を残した建物と現代美術とが不思議に調和している。庭にも多田美波、関根伸夫などの作品が設置されている。なお、群馬県渋川市に関連会社が運営する伊香保グリーン牧場内に別館のハラ ミュージアム アークがある。設計は磯崎新。公益財団法人アルカンシェール美術財団は、現代美術とは別に、原六郎コレクションの古美術も所有している。国宝の「青磁下蕪花生(せいじしもかぶらはないけ)」(南宋時代)を含む原六郎コレクションは、群馬県のハラ ミュージアム アークに保管されている。2003年には「原邸」として、DOCOMOMO JAPAN選定 日本におけるモダン・ムーブメントの建築に選ばれている。
《「手」より》
https://bijutsutecho.com/magazine/insight/19057
いま、原美術館を見つめ直す。これまでの歩みと閉館の理由、そして美術館のこれから
2021年1月で閉館する東京・品川の原美術館。1979年に開館して以来、40年にわたって日本の現代美術シーンを牽引してきた同館のこれまでと閉館の理由、そしてこれからを原美術館副館長の安田篤生に聞いた。2021年1で約40年の歴史に幕を降ろす原美術館。その歴史をあらためて振り返りたい。原美術館が開館したのは1979年12月のこと。原俊夫(原美術館を運営するアルカンシェール美術財団理事長)の祖父にあたる実業家・原邦造の私邸を美術館として開館させたものだ。原邸自体の竣工は、いまから80年前の1938年に遡る。この邸宅を設計したのは渡辺仁。渡辺は、東京国立博物館本館や銀座の和光本館などを手がており、当時を代表する建築家だった。白く平面的な壁やガラス窓、鉄格子などを取り入れたモダニズム建築である原邸は、2003年にはDOCOMOMO(モダン・ムーブメントに関わる建物と環境形成の記録調査および保存のための国際組織)にも認定されるなど、建築としても高い評価を受けている。しかしこの原美術館は開館以前、じつは廃墟同然だったのだという。原邸は終戦後、GHQによって接収。将校の宿舎として使用されていた。1951年頃には返還されたが、原家はこの邸宅には住むことはなく、原俊夫の代になったときには10年以上も空き家という状態だった。原が70年代に現代美術館の開館を決意した際、廃墟同然の原邸を利用するつもりはなかったという。原美術館副館長の安田篤生はこう語る。「開館当初は現代美術館なんてものは東京になく、ブリヂストン美術館のように、どこかのビルを借りて美術館にする計画だったそうです」。しかし、原がデンマークのルイジアナ近代美術館(1856年に建てられた邸宅を改装した美術館)に出会ったことで、原邸は美術館へと生まれ変わることとなる。かくして1979年に開館した原美術館だが、同館のコレクションは77年のアルカンシェール美術財団設立以前には存在せず、コレクション構築は77年から始まった。安田はこう語る。「当時の購入台帳を見ると、ジャクソン・ポロックなんかの作品も比較的買いやすい価格で、いまからは想像できないくらいでした。良い時代にコレクションしたと言えますね。80年代以降は現代美術のマーケットが加熱していきますから」。
財団設立から美術館開館までのわずか2年で、同館では200点ほどの作品を購入。原美術館コレクションの礎が築かれた。「開館当初は企画展をやらず、コレクションを並べるだけの美術館でした。当時は日曜日が休館日で、カフェもミュージアムショップもなかった。その代わり、月に1回のペースで小規模な講演会をやったりして、現代美術館としての評判を集め始めたんです」。そして開館翌年の80年より、若手作家を紹介する企画展「ハラアニュアル」がスタート。翌81年には海外作家では初の個展としてジャン=ピエール・レイノー展が開催された。このとき制作されたインスタレーション《ゼロの空間》(1981)が、同館にとって初の常設作品だ。床から壁、天井まですべてが真っ白なタイルで覆われたこの空間は、いまも同館で見ることができる。ちなみに、いまや原美術館を語るうえで欠かせないカフェができたのもこの頃だ。85年には現在より小規模なカフェがオープン。当時、厨房は邸宅時の配膳室を利用しており、お茶を出すだけの簡単なものだったという。現在のカフェの姿になったのは88年のこと。テラス席部分と厨房を増築し、「カフェ ダール」は誕生した。88年は原美術館にとってもうひとつ大きな出来事があった年だった。群馬県渋川市、伊香保温泉の程近くに磯崎新設計の「ハラ ミュージアム アーク」が開館したのだ。「当時は海外からも原美術館が注目されるようになってきており、コレクションも開館当初より増えてきていた。ここ(原美術館)だけでは手狭になり、もうひとつの美術館を開館させたんです」。いまも原美術館のコレクション収蔵庫はハラ ミュージアム アークにあり、現時点でのコレクション総数は1000点強に及ぶ。ハラ ミュージアム アーク開館の翌年、89年には原美術館では2番目の常設作品となる宮島達男の《時の連鎖》が完成。設置されたのはもともと原邸のトイレだった場所で、その後は使われていなかったため、展示場所に選ばれたのだという。94年になると、来館者用のトイレだった場所を森村泰昌の《輪舞》展示室として転用。ちなみに、来館者エントランスにあるナムジュン・パイクの《ニーシェ イン T》が設置されたのも同時期だ(同作は原俊夫のイニシャルである「T」に形を似せているのだとか)。その後、2001年に元暗室が須田悦弘《此レハ飲水ニ非ズ》の展示場所に、04年には元浴室が奈良美智の《My Drawing Room》となるなど、原邸の歴史を汲みながら、原美術館の特徴である常設展示室は続々と誕生していった。
これまで原美術館の歴史を振り返ってきたが、気になるのは2020年末の閉館と、それ以降の原美術館の行方だ。同館は竣工から80年を経ており、建物自体が老朽化している。これが閉館の大きな理由だ。古い建築を再利用しているがゆえに、ユニバーサルデザインやバリアフリーの観点から美術館としての運用には問題がある。では建て替えればいいのかというと、話はそう簡単ではない。集客施設としての条件が厳密に設定されている東京都の条例の規制上、様々な制約がのしかかり、美術館として建て替えることは非現実的だという。「今後老朽化が進んだ場合、さらに対応が難しくなってくるでしょう。バリアフリーの対応にしても、エレベーターを新設すれば本来のデザインが大きく損なわれることになる。建て替えにしても条例の問題があり難しい。どのみち、数年後には決断しなければいけないときがくるのです。であれば、40周年の節目に潔く閉館しよう、ということになりました」。直接的に閉館の理由ではないが、90年代以降の作品の大型化も原美術館にとってはネックとなってきた。同館では美術館の展示スペースにあわせた展覧会が行われることが多く、それが多くの来館者を惹きつけてきたわけだが、そこには現実的な理由もあった。原美術館には作品搬入口がなく、すべての作品は(来館者と同じく)玄関から館内へと搬入される。大型の立体や絵画、あるいは解体不可の巨大インスタレーションなどは搬入できず、必然的に展示スペースにあわせた作品展示とならざるをえない。閉館後に活動拠点となる「原美術館ARC(現ハラ ミュージアム アーク)」は、この問題を解決できる施設でもある。原美術館閉館後、上述の常設作品については「原美術館ARC」への移設が基本方針であると安田は語る。「(建築と一体化している作品であるがゆえに)事実上の再制作にはなるかと思います。まだ交渉中の作家もいますが、奈良美智、宮島達男、森村泰昌、ジャン=ピエール・レイノーの作品は確実に移築することが決まりました」。移設先のハラ ミュージアム アークでは、現在展示に使っていないスペースを展示場所に転用する、あるいは開架式の収蔵庫を改装するなどの案が想定されているという。★「梅棹忠夫がかつて言ったように、ミュージアムはたんなる入れ物ではなく、メディアです。来館者と作品が出会う場所。2021年以降、場所は変わっても原美術館というメディアは続いていきます」。
★舞台は閉館直前の原美術館。向井山朋子とレニエ・ファン・ブルムレンによる音楽短編映画が配信
https://bijutsutecho.com/magazine/news/exhibition/23219
2021年1月11日に閉館する東京・品川の原美術館。ここを舞台にした音楽短編映画が配信される。「TWO – in transit Hara Museum」は、ピアニスト・美術家として世界中で活動する向井山朋子と、オランダを代表するシネマトグラファー、レニエ・ファン・ブルムレンによる音楽とビジュアルストーリーを織り交ぜたシリーズの第2弾。このシリーズは、今年1月にメキシコ・メリダ市大聖堂に3Dマッピングした野外コンサート「ONE」で始まったもの。今回の「TWO」は、原美術館を舞台に制作、撮影、編集し、2021年1月2日から原美術館が東京での活動に終止符を打つ1月11日まで配信される。「TWO – in transit Hara Museum」の音楽は、21年新春にCDリリースされるヤニス・キリアキデス作曲の「La Mode」や、オランダを代表する作曲家ルイ・アンドリーセンが向井山のために書き下ろした「バラの記憶」など21世紀の音楽が使用されるほか、バッハやハイドンなどの古典作品が美術館の様々な場所に置かれたピアノによって奏でられる。また本作には、俳優やダンサーなど多岐に渡る表現で知られる★森山未來が「パラレルワールドの住人」として出演。これが向井山との初共演となる。
・・・行き帰りの新幹線そしてホテルもすべて予約し楽しみにしていたけれど、この時期「不要不急」ということでキャンセル。気持ちもキャンセルしていたのですが、この「配信」ニュースが舞い込み、かえって胸が苦しい。そういう気持ちの人も少なからずおられるのでは?と思う。そう言えば、森山未來さんを知ったのは「阪神淡路大震災」を通してだった。
https://www.miraimoriyama.com/
《シネマトゥデイより》
阪神・淡路大震災を体験した二人が鳥肌ものの演技!『その街のこども』
https://www.cinematoday.jp/news/N0027704
実際に阪神・淡路大震災を実際に体験した森山未來、佐藤江梨子が主演の映画『その街のこども 劇場版』が公開された。二人の切なくてリアルな演技に目がくぎ付けになる。この企画は阪神・淡路大震災からちょうど15年目にあたる★2010年1月17日、NHKで放送されたドラマ「その街のこども」に実際に震災を体験している森山未來と佐藤江梨子が出演し、その内容が大きな反響を呼んだことが事の発端。二人のリアルで切ない演技はもちろん、心の傷を抱えたまま生きる若者たちを優しい眼差しで描いた脚本が(『ジョゼと虎と魚たち』の脚本手がけた渡辺あや)大きな話題を呼び、放送後には視聴者から感動と絶賛の声が多数寄せられた。その後本作は第36回放送文化基金賞を受賞。さらに反響は拡がり続け、ついに『その街のこども 劇場版』として、NHKの制作したドラマとしては前代未聞の全国公開が決定した。映画『その街のこども劇場版』は放送時にはカットせざるを得なかった未公開シーンを含む、再編集バージョンでの上映となる。森山は神戸市生まれで、小学4年生のとき東灘区の自宅で震災を体験している。一方の佐藤も小学1年生から神戸市で育ち、中学1年生のとき東灘区で震災を体験している。このたび初公開された予告編は、そんな二人の演技に見ているだけで胸が締め付けられそうになる。神戸で偶然出会った二人の男女(森山と佐藤)の言葉の掛け合いは、アドリブなのか脚本のセリフなのか見分けがつかないほどそれぞれの気持ちが込められた言霊となって発せられている。震災15年目の5時46分、神戸市の東遊園地での追悼の集いに二人が込めた思いとは果たしてどんなものだったのか。ロケ地の多くは実際に大きな被害を受けた地域で行われ撮影には遺族を含め神戸の方々も参加。一方、非被災者である多くのスタッフたちが、この作品を生み出す過程で悩み、苦しんだのも事実らしい。さまざまな傷を抱えた被災者と、非被災者の間に存在する「溝」を見つめ、それを乗り越えることの難しさと大切さを伝える『その街のこども 劇場版』は、今を生きるすべての「こどもたち」が決して忘れてはならない未来への希望を描く。映画『その街のこども 劇場版』は2010年11月20日 シネ・リーブル神戸、シネ・リーブル梅田ほか先行公開、2011年1月15日 東京都写真美術館ホール、池袋シネマ・ロサほか全国公開
・・・閉館する「原美術館」そして、記憶として刻み込まれている「阪神淡路大震災」が、今、不思議なハーモニーを奏でている。