腰張 | すくらんぶるアートヴィレッジ

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・・・亡き「穐月明」さんの茶室「聴樹庵」で、奥様・由紀子さんと語り合えたひと時は、「茶室」への興味をさらにかきたててくれました。もっとも印象に残っているのが「伊勢物語」の「腰張」についての話でした。

 

《伊勢物語》

https://www.wul.waseda.ac.jp/kotenseki/search.php?cndbn=%E4%BC%8A%E5%8B%A2%E7%89%A9%E8%AA%9E

平安時代に成立した日本の歌物語。全1巻。平安時代初期に実在した貴族である★在原業平を思わせる男を主人公とした和歌にまつわる短編歌物語集で、主人公の恋愛を中心とする一代記的物語でもある。主人公の名は明記されず、多くが「むかし、男(ありけり)」の冒頭句を持つことでも知られる。作者不詳。平安時代のうちの具体的な成立年代も不詳で、初期、西暦900年前後、前期、(現在のような形になったのが)中期などの説がある。『竹取物語』と並ぶ創成期の仮名文学の代表作。現存する日本の歌物語中最古の作品。同じく歌物語とされるものに『大和物語』があるものの、後世への影響力の大きさでは『伊勢物語』と比べるべくもなく、そういった意味では『伊勢物語』は『源氏物語』と双璧をなしており、これらに『古今和歌集』を加えて[3]同時代の三大文学と見ることもできる。各話の内容は男女の恋愛を中心に、親子愛、主従愛、友情、社交生活など多岐にわたるが、主人公だけでなく、彼と関わる登場人物も匿名の「女」や「人」であることが多いため、単に業平の物語であるばかりでなく、普遍的な人間関係の諸相を描き出した物語となりえている。

伊勢物語第69段に、業平と伊勢斎宮恬子内親王との一夜の情交の話が描かれている。この歌物語を 「伊勢物語」 と呼ぶのは、この一夜の愛こそが、愛の極致の姿であると考えられたためだともいわれる。

「君や来し我れや行きけん思ほえず 夢かうつつか 寝てか覚めてか」

https://wakastream.jp/article/10000219tmZV

あなたが来たのか私がうかがったのか、はっきり覚えていません。夢か現実か寝て夢の中のことか目覚めて現実に経験したことなのか。

 

・・・いやあ、すごい「うた」です。

 

《腰張》

茶室内の土壁の足元に紙を張ること。

《和紙と日本の文化》

http://nico-wisdom.com/newfolder1/newfolder1/wasi-history6.html

壁紙はもともと壁面の★装飾とともに、それを★保護する(+衣服を汚さない)目的もある。日本では本格的な壁紙は発展しなかったが、壁面の保護のために、中世から「部分的に張る」腰張紙が用いられている。土壁の下部は損傷しやすいために、壁面の下部だけに紙を張って補強するのが腰張紙で、特に茶の湯の普及に伴って茶室に好んで用いられた。茶室には美濃紙や杉原紙を白地のまま使う他、文字を書いた反故紙も意匠として用いられた。京都建仁寺の塔頭(同じ敷地内に建てた小院)正法院に、茶人の織田有楽斎の建てた如庵には、★古い暦を張っており、暦停とも呼ばれた。『毛吹草』には、腰張紙を山城(京都)と和泉の産としている。ともに漉き返しの紙で、和泉産のものは湊紙と呼ばれた。『擁州府誌』には、湊紙はもともと泉州湊浜★(堺)でつくったと記しており、『和漢三才図絵』には、宿紙に「こしはりかみ」と仮名をふり、「湊紙」と割注をしたあと、「後醍醐天皇の御代に京都の二条から、川端道仙が泉州湊村に来て漉きだした」とその由来を述べている。このように漉き返しの宿紙が腰張紙として需要が増え、京都・堺のほか摂津の山口(西宮)でも漉かれるようになっている。『新選紙鑑』には、腰張り用の石目紙・木目紙は播磨産(杉原紙)とし、また「一説によると伊予より出づ」としている。「伊予より出づ」とあるのは、手引木版調の伊予柾目紙のことをさしているのであろう。このほか腰張紙として、松葉紙・青土佐紙(染紙)などの名もある。松葉紙は、松葉の煮汁や松葉の粉末を漉き込んだ紙である。『貿易備考』によると、楮の黒皮に若松の葉の煮汁、あるいは牡蠣殻の灰を混ぜて漉いているとしており、摂津の名塩(西宮)のほか因幡の鳥取、筑後の広瀬、出羽の山形などで産した。松葉紙は別称、松皮紙・千歳紙・千年紙・千代紙ともいった。青土佐紙は、土佐の色紙で腰張紙として用いられ、京や大坂でも模造されるほどに評価が高かった。さらに雲文様のほか絵入りや更紗・友禅模様のものや水玉紙なども作られた。

 

《表千家「反古張りの席」》

http://www.omotesenke.jp/list4/list4-3/list4-3-11/

表千家祖堂には四畳半と廊下を挟んで反古張りの席があります。二枚障子をたてた低い入口(貴人口)を入ると、中は二畳敷、但し点前座は台目畳で向板が入っています。床はなく下座の壁面に掛物をかけます。壁床です。天井は全部竹垂木、竹小舞の化粧屋根裏、壁の腰張も茶道口の太鼓襖も反古紙で張られています。わび切った茶室のたたずまいです。「わび切った」茶室とは、建物としてこれ以上簡素にできない状態を言うのです。かつて宗旦のつくった床なしの一畳半は向板を加えた形でした。江岑の時に畳まれた一畳半が、ここに甦ったとみることもできるでしょう。この祖堂の奥には広々とした勝手水屋があります。鎖を左右に移動して、鍋釜を上下左右に調節できる便利な長炉や折畳み式の配膳棚など新しい工夫がとり入れられています。

 

《反故(ほご)にする》

1 無駄に捨てる。「コピー用紙を何枚も―する」

2 ないものとする。役に立たないものにする。「契約を―する」

 

《裏千家「今日庵」》

宗旦は不審菴(ふしんあん)を三男の江岑宗左(こうしん・そうさ)に譲り、隠居所として今日庵を建てました。席開きの日、参禅の師である清巌(せいがん)和尚を招いたのですが、刻限を過ぎても和尚は現れません。やむなく「明日おいでください」という伝言を残してほかの用事で出かけました。宗旦の留守の間に和尚がやってきて、★茶室の腰張りに「懈怠比丘不期明日(けたいのびくみょうにちをきせず)」と書きつけて帰りました。「怠け者の私は明日と言われても来られるかどうかわかりません」という意味から、宗旦はこの茶室を今日庵と名付けたと、いわれています。洞庫(どうこ)を備えた一畳台目という、茶室の構成を極限まで切り詰めた草庵の茶室。向板(むこういた)にこぶし丸太の中柱を建て、袖壁を付けています。

 

《如庵「暦張りの席」》

茶席内の腰張は、古暦を使って壁面に意匠を添えている。これは陰暦で月の満ち欠けを元に造られ、四季、十二月、二十四節季、七十二候が書かれて季節の移り変りを現しているので、当時は農作業の目安とされたものである。このように腰張り全部が古暦で張られたところから、別名「暦張りの席」とも呼ばれる。暦には統治者(朝廷や幕府)の管轄にあり、1946年に自由化されるまでは許可制・専売制が取られていた。具注暦(ぐちゅうれき)、京暦(きょうごよみ)、三島暦(みしまごよみ)、大宮暦(おおみやごよみ)、丹生暦(にゅうこよみ)、伊勢暦(いせごよみ)、江戸暦(えどごよみ)などと色々各地の発行のものがある。如庵に張られているのは『伊勢暦』である。一番古いもので「寛永6年」(1629)のものが、本席の躙(にじり)口(ぐち)の西壁、南壁と中柱左の東壁に張られている。新しいもので江戸末期から慶応4年(明治元年)のものが使われている。全部で百数十枚張られているが、年代の分かるものは十五枚くらいだという。戦国時代の頃から伊勢の御師 (おし) が、伊勢詣のみやげとして大麻 (神符) とともに諸国の人々に配ったもので、江戸時代には伊勢神宮祭主藤波家が朝廷に奏達して土御門家の暦の写本を申受け、それを伊勢の暦師に刊行させた。江戸時代の代表暦で、享保年間(1716-1735)には毎年200万部が出版され、全国で配られた暦の約半数を占めていたともいわれている。

※岩崎建築研究室より

http://blog.livedoor.jp/iwasakiyasushi/archives/52326408.html

反古紙とは手紙や古い書物、暦また、書き損じた不要の紙などを言うが、反古張はこれら反古紙を壁の腰張りに用いること。「ほうぐばり」と読むこともある。「細川三斎御伝授書」には「反古ノ一枚張、利休いたし候ハ終に見ぬと被仰候、四畳半ハ奉書紙、一畳半ハ美濃紙にて張候」とあり、四畳半には奉書紙、一畳半には美濃紙と言う使い分けもあるらしい。

如庵。暦張席。織田有楽(1547-1622)が、元和四年(1618)に建仁寺塔頭正伝院の隠居所に造営(中略)、明治四十一年(1908)に東京麻布今井町の三井家本邸に移築(棟梁:平井竹次郎)、昭和十三年(1938)に神奈川県大磯の三井家別邸城山荘に移築(総指揮相談役:堀口捨己)、昭和四十七年(1972)に犬山に移築(指導:堀口捨己)。移築のたびに、暦を剥がし、土壁を落とし、また土を塗り、暦を貼る、という事が行われてきたと思うが、現在使われている暦には建立当時にさかのぼるものはないという。腰張は一段で九寸、二段で一尺八寸が標準とされるが、中敷居の下まで張るものを惣張り(そうばり)という。

 

・・・土壁だけでなく、襖にも張られています。(反古襖)