《五条橋》
福島正則が名古屋城築城の際に掘削した堀川にかかる「堀川七橋」の一つ。五条橋は、かつて、清須城下の五条川に架けられていた橋を、慶長15(1610)年から尾張の首府が清須から名古屋に移された清須越の際に、この地に移され、橋の名前もこれに由来するといわれています。清須越は、翌慶長16(1611)年にかけて行われ、福島正則が徳川家康の命により、、名古屋城築城、城下町建設資材や、生活物資搬入のため堀川が開削されました。五条橋はその時架けられた「堀川七橋」の一つです。元は木橋でしたが、昭和13(1938)年にコンクリート橋に架けかえられました。元の橋にあった擬宝珠には「五条橋、慶長七年壬刀六月吉日」の銘があり、現在は名古屋城に保存されています。中央前方に、名古屋で最も古い歴史をもつ★円頓寺商店街のアーチが小さく見えます。アーケードがつくられたのは昭和39(1964)年のことですが、今も昭和を彷彿とさせる盛り場の情緒が懐かしく残されています。一本路地に入れば、いつか見たレトロな佇まいがそこにあります。橋の西側に接する美濃路は、東海道宮宿と中山道垂井宿を結ぶ街道で、東海道から分かれて美濃へ向かう街道のため「美濃路」と呼ばれました。江戸時代、京・大阪を結ぶ重要な街道として、五街道と同じく道中奉行の支配下に置かれた。清須越の折、名古屋の★美濃路は現在の位置に定められました。
《四間道町並み保存地区》451-0042名古屋市西区那古野
https://www.city.nagoya.jp/kankobunkakoryu/page/0000080120.html
四間道界隈は、慶長15年(1610)の名古屋城築城とほぼ同時期に開削された堀川の舟運を利用する商人の活動とともに発展したまちです。四間道は、城下町成立時には、城下町(堀川沿いの商人地)とその西側の農村地の境界をなしていた道でしたが、四間道以西の農村地も、江戸時代を通して徐々に開発され、城下町に続く町の姿を整えていきました。なお、「四間道」という名前の由来は諸説ありますが、元禄13年(1700)の大火後に、この道が4間(約7m)に整備されたからともいわれています。戦災の被害が比較的少なかった四間道界隈には、城下町の商人地であったことを示す土蔵や伝統的な建造物が現在も多く残っています。大船町通沿いには、かつては通りの東側に土蔵、西側に町家が建ち並んでいました。これらは、堀川の水運を利用した商業活動に使われた土蔵や商人の居住地で、敷地・建物とも広大なものでした。四間道沿いには、通りの東側に一段高くなった高さ1m程度の石垣が築かれ、その上に現在も多数の土蔵が建ち並んでいます。黒の本瓦、白漆喰の壁、石垣が連続し、四間道地区の代表的な景観となっています。また、四間道よりも西側の地域には、2~3mの路地の両側に平家建、中2階、2階建の長屋が建ち並んでおり、都心では珍しい下町情緒が残っています。狭い道と住居によって形成された★「路地空間」は、この地区の歴史的特質を示すもので、子守地蔵尊や屋根神さまが祀られています。
・・・わかりにくいので、「昼間」の画像も掲載しておきます。
《専修寺「ナゴヤ別院」》
名古屋市西区那古野1丁目20-5/052-551-2976
http://www.senjuji.or.jp/betsuin/nagoya.php
《慶栄寺》
451-0042名古屋市西区那古野1-6-12/052-551-1928
本堂:1923年再建の入母屋造本瓦葺。
太子堂:文化元年(1804年)に建てられた二畳台目茶室。奈良★元興寺五重塔の古材を用いたと伝わる。
松涛庵:京都★銀閣寺余材を使って建てられたと伝わる六畳台目数寄屋造の茶室。9世義諦は京都・東山から松涛庵を移築するなど複数の堂を建てた。10世了義は藩主徳川慶勝との繋がりが深く、嘉永2年(1849)に鐘楼堂を再建した際には尾張藩の管理する木曾檜を用材とした。また、慶勝が作らせた折りたたみ式茶室の「御席屏風」を拝領し、★徳川美術館に寄贈された広間席以外は現在も寺宝として所蔵する。
《折り畳み茶室》慶栄寺で「御席屏風」組み立て/2008.11.
ハイカラ趣味で知られる尾張藩主、徳川慶勝が幕末に造らせたという珍しい 折り畳み式茶室「御席屏風(びょうぶ)」が、所蔵する名古屋市西区の慶栄寺で組み立てられた。茶室は広間席など3席から成り、3席そろっての“開帳”は 戦後初めて。以前は時折使われていた3席の1つも、30年以上しまったきりで、虫干し を兼ねて全部を組み立てた。厚さ18ミリの屏風3組を広げ、屋根や障子などの建具をはめ込むと茶室に 変身。6畳広間席と4畳半小間席の茶室2席と、待合室に当てられる4畳半の 計3席。2人がかりで1時間余で組み立てることができるが、造作は本格的でアイデアに富んだ仕掛けが満載。土壁に似せた和紙張りの屏風を開くと、つり 棚や床の間など茶席専用のしつらえが立体的にせり出してくる。組み立てた数寄屋大工浜島さん(55)は「飛び出す絵本ならぬ飛び出す 茶室だ」。寺伝によると、尾張徳川家が1860(万延元)年、この茶室を使って大茶会を 催した。時の藩主徳川慶勝と親しかった11代住職が、65年に拝領。御城主の命で作製、とも記され、慶勝が造らせた可能性が高い。外来の科学技術に関心が高く写真術を学んだ慶勝の趣味を反映するように、 屋敷からの景色と思われるガラス写真を障子に組み込み、額もわざわざ写真にして あった。一般公開はしておらず、滝義範住職(47)は★「3席のうち傷みが目立つ 広間席はきちんと修復して保存、活用してもらえる所に寄付したい」と話している。
・・・奈良や京都と関係の深いお寺です。嬉しくなります。
《参考》「魚津社寺工務店」施工実績より
http://www.uotushaji.co.jp/kouji.html
http://www.uotushaji.co.jp/kouji/keieiji.html
★尾張名所図会デジタル着色
http://network2010.org/article/1715
《円頓寺商店街》
451-0042名古屋市西区那古野1-13-1/052-551-0197(円頓寺商店街振興組合)
https://www.nagoya-info.jp/spot/detail/45/
円頓寺(商店街)は名古屋駅と名古屋城のほぼ中間に位置しています。円頓寺は、大須などとともに昔は繁華街で、信長が清洲から名古屋に移ってきたときに、ついてきた商人の町で、今も名古屋の下町の雰囲気が残っています。円頓寺商店街には、今も飲食店、日用品等のお店が立ち並んでいます。毎年7月に円頓寺本町商店街と共同で開催される円頓寺七夕まつりは商店街と地域の住民による手作りのお祭りです。また、近くには古い蔵や尾根神様の残る保存地区★「四間道」があります。
《円頓寺》
451-0042名古屋市西区那古野1-11-7/052-551-3768
http://endonji.web.fc2.com/index.html
当山は承応3年(1654)5月12日、照遠寺第三世 生過院日進上人の弟子 普敬院日言上人により、広井村八軒屋敷(現在地より300㍍程南、国際センター付近)に創建された。当初は開山上人の院号と同じく普敬院と称していたが、明暦2年(1656)2月に京都立本寺第20世 霊鷲院日審聖人より、十界大曼荼羅ご本尊を拝受し、その末寺となり、長久山円頓寺と寺号を改めた。第2世 玄収院日道上人は初代尾張藩主徳川義直公の側室貞松院様のために安産祈願、その後の子育ての祈願を成就させ、名古屋城天守閣の棟木余材により作られた一木三体の鬼子母神像を拝受し、本住寺の再興、新寺妙住寺を建立した。当山には鬼子母神・十羅刹女の形態で安置されている。
・・・そろそろホテルへ、明日のために。