名古屋へ(6) | すくらんぶるアートヴィレッジ

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・・・せっかく雨がやんでいたのに、またまた降り出した。「ナゴヤ」に来たんだから、やっぱり「名古屋城」を見とかなくちゃ。

 

・・・野外彫刻などは、雨でしっとり濡れている方が趣きあっていいかもしれない。北村西望(1884~1987)さんや佐藤忠良(1912~2011)さんの作品などに出合いました。

 

・・・ようやく「天守」が見えてきました。残念ながら雨に煙ってボンヤリしてますが、これで一安心です。

 

《名古屋城》

460-0031名古屋市中区本丸1番1号/052-231-1700

https://www.nagoyajo.city.nagoya.jp/

名古屋城は、徳川家康の命を受けた豊臣恩顧の諸大名による「天下普請」によって、築城が行われました。1612年(慶長17)に天守閣が完成すると、御三家筆頭・尾張徳川家の居城として長く栄え、明治維新も乗り越えて、1930年(昭和5)には城郭として国宝第一号に指定されます。実に330年を越えて、この地のシンボルとして愛されてきた名古屋城ですが、1945年(昭和20)の空襲によって天守閣をはじめ多くの建造物を焼失します。それでもなお、1952年(昭和27)には、往時の姿をよく伝える国内屈指の城郭として、国の特別史跡に指定されました。その後、市民の多大な寄附により1959年(昭和34)に鉄骨鉄筋コンクリート造の天守閣を再建。外観は旧天守閣を再現し、内部は博物館として歴史資料や模型などを展示してきました。しかしながら再建から約60年が経過し、設備の老朽化や耐震性の確保などへの対応が不可欠となりました。一方で、名古屋城には詳細な実測図など豊富な史料が残されており、★史実に忠実な復元が可能と言われています。これらを鑑み、名古屋市では特別史跡名古屋城跡の本質的価値をより広く内外に発信するために、天守閣の木造復元を決定し計画を進めています。

江戸時代初期に築城された、名古屋城(1612年)、大坂城(1626年)、江戸城(1638年)の天守は、その大きさで他の城郭を圧倒していました。 ところが、江戸城は明暦の大火により、大坂城は落雷により天守が焼失し、再建されることはありませんでした。一方、名古屋城は戦災により焼失するまで、史上最大級の延床面積を誇った五層五階地下一階の巨大な天守を守り続けてきたのです。この大天守を往時のままに復元するには、図面などの詳細な史料のほか、木造建築の伝統技術が欠かせません。大規模な木造建築物の築造が減少し、職人技の消滅が危ぶまれる中、天守閣の木造復元は伝統技術を次代へ継承する機会にもなっています。

 

・・・今後の進捗に注目です。ひょっとしたらまた「ナゴヤ」に来る機会ができるかも?

 

《NEWS》2020.9.30中日新聞より

ナゴヤキャッスルが営業終了、名古屋国際ホテルも閉館

名古屋城近くの名門ホテル「ホテルナゴヤキャッスル」(名古屋市西区)が30日、老朽化による建て替えのため営業を終了した。全ての営業を終えた午後3時半には、当日勤務の全従業員が玄関前に整列し、集まった市民に別れを告げた。1969(昭和44)年開業。窓から名古屋城を眺めることができ、多くの要人が宿泊しただけでなく、結婚式の披露宴会場として市民に親しまれた。ホテルの運営会社は、より高級なホテル建設を目指し建て替えを決定。新ホテルの開業は2024年度を予定している。山下孝治社長は最後のあいさつで「これほどまで愛され、親しまれたホテルに従事したことに幸せを感じ、誇りに思う」と感謝の言葉を述べた。同日には、名古屋市中区の名古屋国際ホテルも閉館した。1964(昭和39)年開業のホテル。入居するビルが取り壊し予定で、賃貸借契約の満了を待って営業を終えることにした。

 

《参考》加藤清正が名古屋城の天守台石垣を普請/WEB歴史街道より

https://shuchi.php.co.jp/rekishikaido/detail/3966

慶長15年6月3日(1610年7月22日)、名古屋城の天守周辺が★加藤清正によって築かれました。天守台石垣は、清正の極めて高度な技術によって築かれたことで知られます。名古屋城は江戸城、大坂城と並ぶ「日本三名城」の一つに数えられます。 戦国の頃、今川方から城を奪った織田信秀が那古野城と命名しました。那古野城は現在の名古屋城の二の丸付近に位置し、織田信長はここで生まれ育ったといわれます。その後、信長が清須(洲)城に居城を移したため那古野城は廃城となりますが、徳川家康が天下を取ると、慶長14年(1609)、尾張藩主・徳川義直(家康9男)の居城として、新たに名古屋に城を築くことを決め、これを天下普請で行なうこととしました。天下普請とは幕府が公の事業として、全国の諸大名に命じて行なわせる土木工事です。この時は、主に西国大名20家が動員されました。加藤清正、福島正則、浅野幸長、前田利常、黒田長政ら大大名ばかりです。築城は慶長15年に始まり、6月に礎石が据えつけられました。特に加藤清正は築城の名手といわれるだけあって、本丸の石組みの妙は冴え、「清正石」と呼ばれる巨大石(本丸東門桝形石垣の中にある)は今でも見る者を圧倒します。各大名は定められた工期を守るだけでなく、他家に遅れぬようにと、幕府の見積もりよりも遥かに多い資金と人数を投入しました。その頃の話として、福島正則が清正に「こうたびたびの手伝いでは、身代が持たぬ」と愚痴をこぼすと、清正は「それほど普請が嫌ならば、国表に帰って戦さ支度でもするがよいぞ」と応え、正則は口をつぐんだといいます。当時の家康と豊臣恩顧の大名の関係をよく示す逸話といえるでしょう。遠方で切り出された石は、石船と呼ばれる大きな船で海路を熱田まで運びました。そこからの陸路は、修羅と呼ぶ木橇(きぞり)に石を載せ、丸太の上を転がしながら普請場まで何百、何千もの人夫が引いたといわれます。その際、清正は、美しく着飾った小姓とともに大石の上に乗り、綱引きの人々をはやし立て、見物人に酒を振る舞ったと伝えられ、清正の石引きはまるで祭礼のように大いに賑わいました。これは大坂城築城の際の秀吉の故事にならったといわれ、秀吉を慕う清正の思いが伝わってきます。また伝説として、清正が本丸に井戸を掘らせると、水がずいぶん濁っていました。これでは、万一の時に役に立ちません。祈祷師を呼んで祈らせてみますが、効果はなし。そこで清正は意を決し、家臣に大きな木箱を運ばせます。箱の中には黄金がぎっしりと詰まっていました。清正はその黄金を、惜しげもなく井戸にすべて投じます。すると不思議なことに、濁っていた水が澄みわたるようになりました。その井戸は今も大天守の地階にあり、「黄金水」と名づけられています。大天守に入るには、まず連結する小天守に入り、橋台を渡るしくみになっていました。大・小天守は戦災で焼失し、現在のものは外観復元ですが、本丸の巽(たつみ)櫓と坤(ひつじ)櫓、御深井(おふけい)丸の清洲櫓は、現存する貴重な建築物です。なお天守台の角積石には、「加藤肥後守内」と、普請に従事した清正家中の名が刻まれているそうです。

 

《平和の礎》碑文

大東亜戦争はポツダム宣言の受諾により、一九四五年(昭和二十年)年八月十五日を以って終結した。終戦直後に旧満州・樺太などから軍人軍属六十余万人及び民間の日本人多数が、厳寒の地シベリアの各地に強制抑留され長期にわたり労働を強いられた。飢餓と厳寒と重労働に耐えかね、祖国日本への帰還の願いも空しく、六万余人は力尽きて無念の死をとげた。愛知県人も千七百十七の犠牲者が異国の土に還ろうとしている。誠に遺憾の極みである。苦節六十年を経た今日、この悲惨な事実を風化させることなく後世に伝えるとともに、抑留死没者の冥福と世界平和を祈念し此処にこの碑を建立する。二〇〇六年(平成十八年)五月吉日/愛知県シベリア抑留者記念碑建立之会

 

《参考》

●「名古屋市博物館」遺骨箱

467-0806名古屋市瑞穂区瑞穂通1-27-1/052-853-2655

http://www.museum.city.nagoya.jp/collection/data/data_25/index.html

●「愛知・名古屋 戦争に関する資料館」

460-0002名古屋市中区★丸の内三丁目4番13号 愛知県庁大津橋分室1階/052-957-3090

https://www.pref.aichi.jp/kenmin-soumu/chosakai/

「愛知・名古屋 戦争に関する資料館」は、愛知県と名古屋市が共同で設置した「戦争に関する資料館運営協議会」によって運営されています。

 

・・・ここにも立ち寄りたい。