杉山古墳 | すくらんぶるアートヴィレッジ

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・・・「月のアート展」(京都府)も終わり、搬出帰りに「奈良」に立ち寄りました。というのも、先日「大安寺」に訪問した際、気になっていた古墳を見逃したからです。

 

《史跡大安寺旧境内/杉山古墳・杉山瓦窯跡群》奈良市大安寺四丁目

https://www.city.nara.lg.jp/site/bunkazai/3269.html

杉山古墳は、5世紀後半(古墳時代中期)に造られた前方後円墳で、奈良時代には★大安寺の境内に取り込まれていました。★平城京造営の際に取り壊されなかった数少ない古墳で、当時の大安寺の記録である『資財帳』には、「池并岳」と表現されています。古墳は、前方部を南に向け、くびれ部には造り出しと呼ぶ方形の区画があります。平成5年度の調査で、墳丘長約154m、後円部の直径約80mで、周囲に濠が廻っていることがわかりました。周濠を含めた全長は200mを超えます。昭和30年の調査の際に、後円部頂を発掘していますが、埋葬施設はわかっていません。保存整備は、奈良時代に「池并岳」であったとする記録にしたがい、墳丘には手をいれず、周濠を平面で、くびれ部を葺石で復原しました。

https://www.city.nara.lg.jp/site/bunkazai/5264.html

杉山瓦窯跡群は、平成5年度の杉山古墳の発掘調査の際に前方部の南斜面でみつかった6基の瓦窯です。燃焼室、焼成室、煙道からなる構造で、一度使用したとみられる瓦(あるいは塼)を利用して、構築しています。出土した瓦などからみて、奈良時代末から平安時代にかけて、大安寺の修理に使用された瓦を焼いたものとみられます。寺の造営の際にも、前方部から土砂や葺石が運び出されたとみられ、その跡地に瓦窯は築かれています。杉山古墳は大安寺の★資材調達の場でもあったようです。保存整備は、瓦窯のある箇所の明示をし、構造の判明した2号窯は、ガイダンス施設で、復原模型を展示しています。

 

・・・お寺と古墳のおもしろい関係がわかり、とても興味深い。

 

《参考》「大官大寺」奈良県明日香村小山/古寺巡訪より

http://www9.plala.or.jp/kinomuku/daikandaiji.html

(1)文武天皇建立の最高位の官寺/大官大寺は、文武天皇(在位697-707)が建立に着手した国家の寺である。大官大寺の★「大官(おほつかさ)」とは天皇を意味するともいわれ、大官大寺とは天皇の大寺をそのまま寺名とする官寺の中でも★最高位の官寺である。

(2)完成前に焼亡した大官大寺/しかし、建築途中の和銅4年(711)に火災により全て灰燼に期した。この焼亡時の建築進捗状況は、金堂と講堂は完成、塔本体は完成していたものの基壇化粧などの最終工程には至っていなかった。また中門、廻廊はまさに建築途中であったという。(「扶桑略記」平安時代の私撰歴史書)なお、この「扶桑略記」の記事は、昭和48年から57年頃まで行われた発掘調査で、大量の焼土や焼けた瓦が発見され、その信憑性が裏付けられた。さらに創建時の中心伽藍の規模と配置も明らかとなり、塔はその基壇規模などから伝承のとおり九重塔であったと推定されている。

(3)文武朝大官大寺は、天武朝大官大寺と一時期併存していた/平城京★大安寺の前身寺は大官大寺であったこと、大官大寺の前身寺は高市大寺、更にその前は百済大寺であった。このそれぞれの寺の概要は以下のとおりである。

●百済大寺/日本書紀、舒明天皇11年(639)7月の条に百済川のほとりに大宮と大寺を造った、そして、同年12月の条には百済川のほとりに九重塔を建てた、とあり、舒明天皇が建立したわが国最初の官寺である。この所在地を巡って様々な研究がされてきたが、1997ー2000年度までに実施された吉備池廃寺発掘調査の結果、発見された巨大な金堂土壇跡と塔土壇跡、出土瓦からこの吉備池廃寺が百済大寺であることが、現在最も有力な説となっている。

●高市大寺/672年壬申の乱で勝利した天武天皇は翌年飛鳥浄御原宮で即位する。同年12月17日に造高市大寺司を任命し高市大寺建立に着手する。そして天武天皇6年(677)、高市大寺を大官大寺に改名させている。この高市大寺の所在地は、発掘調査が行われるまでは、この大官大寺跡が最も有力な推定地であった。しかし、発掘によって出土した遺物からこの遺構の着工時期は文武朝を遡ることがないこと、遺構の下層には建物遺構が一切発見されないことから、この推定は成り立たないことが確定的なった。このように、高市大寺の所在地問題は、再び白紙に戻り、現在、いろいろな説が検討されている。

 

★大安寺/大官大寺は、和銅3年(710)平城京遷都後、薬師寺や元興寺(飛鳥寺)などと同様に、霊亀2年(716)、平城京への移建工事が開始され、国家鎮護のための国家筆頭の寺、大安寺として平城京に受け継がれ、同時に旧大官大寺の多くの資財が大安寺に引き継がれたことは、★大安寺資財帳によって確認されている。