三国丘(1) | すくらんぶるアートヴィレッジ

すくらんぶるアートヴィレッジ

●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●

・・・鉢ケ峯「堺公園墓地」の、鳥井家のお墓にお参りさせていただきましたが、残念ながら「駒吉」さんの銘は確認できませんでした。さて、もう一つ中途半端なまま気になることがありまして、

 

《旧向泉寺閼伽井跡》(堺市堺区榎元町5)

方違神社の南方に、行基(668~749)が天平15年 (743)聖武天皇の勅願によって開創したといわれる「向泉寺」がありました。現在は、榎元町五丁に向泉寺の『閼伽井』 がのこされています。行基は先ずこの井戸を掘り、この井戸に向かって金堂その他の諸堂宇を建てられたそうです。和泉国に向かって建てられたので、寺名が『向泉寺』と名づけられたそうですが、山号は、この地が摂・河・泉の三つの国境に位置していることから、『三国山遍照光院』と付けられています。『閼伽井』というのは、仏に供える水、或いは身を清める水ともいわれています。境王子、方違神社、東原天王(向井神社)の三社の祭祀用水に用いられ、また諸病に霊験ありといわれた。現在はこの井戸も廃井になっていますが、昔は 水量も豊かで、近郷から沢山の人達がこの水を求めて訪ねてきたと云う。そして、この水を沸かして湯浴みすると、皮膚病などにも良く効くということで、評判 になった。この井戸の位置が★竹内街道や★西高野街道にも近いことからも、旅人などその利用者が多かったことが推察されます。永正年間(1504-1520)に寺は兵火に遭い、市中に移った後は訪れる人も減り、享保年間(1716-1735)に廃寺となった。

 

 

・・・この「閼伽井跡」を発見したのは、知り合い宅への道すがら偶然の出来事でした。

 

※堺市博物館スポット展示「向泉寺と向井領墓地」2007年6月5日(火)~8月5日(日)

https://www.museum.or.jp/event/40545

天平15年(743)行基によって創建されたと伝えられる向泉寺は、発掘調査により当初府立三国丘高校一帯にあったと推定されています。のち、永正年間(1504~21)の兵火により堺市中の市之町東に移転し、さらに、明治期の神仏分離のために廃寺となって寺の施設や資料などもことごとく失われました。本展では、廃寺後、方違神社に残された江戸時代、享保7年(1722)書写の★『向泉寺縁起』などの稀少な資料を紹介するとともに、移転する以前の「向泉寺」跡に近接した向井領墓地の発掘調査で出土した最近の資料も併せて展示し、向泉寺と周辺の歴史について振りかえります。

※向井領井(むかいりょうのい)

http://kujimeakira.web.fc2.com/chishi/sakaikagami/2koseki.html

向泉寺の領内・向井領の地に行基菩薩の名井がある。場所は向井領の三昧[墓所]の南隣である。この井戸の水で諸瘡[皮膚病]を洗い清めたり、薬を煎じるのに用いると病が平癒する。その因縁を調べると、天平十五年癸未[七四三年]に、行基菩薩がここに閼伽井(あかい)を掘るために祈祷した、その功徳である。

※向泉寺縁起

http://kujimeakira.web.fc2.com/chishi/kosenjiengi.html

 

 

《方違神社》

590-0021堺市堺区北三国ヶ丘町2-2-1/072-232-1216

http://www.hochigai-jinja.or.jp/

方違え、方災除けの神として知られています。昔の摂津・河内・和泉の三国の境であるこの地にあり、奈良時代には、人馬往来の要として、また平安時代には、熊野詣の参拝者が必ず立ち寄り、旅の安全を祈ったといわれています。どの国にも属さない、また、★方位がない清地として、昔からこの境内の土や砂が悪い方位を祓うといわれており、方災除けの神様として信仰を集めてきました。今でも、家の新築、転居の際の厄除け祈願などに、多くの参拝者が訪れています。

 

 

https://www.lib-sakai.jp/kyoudo/sakai_taikan/sakaiTaikan_68.htm

明治5年(1872)村社となり、翌年郷社に列することになる。明治40年の時点で、境内は1,228坪あった。社殿は堺大空襲で全焼。現在の本殿は昭和20年(1945)の復興時に新築され、拝殿・幣殿(へいでん)は和泉市の男乃宇刀(おのうと)神社から移築された。中央の鳥居は、社務所等の改修時(平成15年)に老朽化のため撤去。写真左手の常夜灯は右手の常夜灯から南西約10メートル、また鳥居の右手に見える★「三国丘」の石碑は右手の常夜灯から北西約20メートルのところに移された。

 

・・・この「三国丘」石碑を建立したのが、鳥井駒吉さんなのです。また、隣接「江久庵」庭には、鳥井駒吉さんが母のために建てた「娯観家」にあった灯篭が置かれています

http://toursakai.jp/zakki/2015/04/21_1852.html

 

 

※「江久庵」

590-0021堺市堺区北三国ヶ丘町1丁2番36号/072-222-2411

http://www.kokyuan.jp/

※「鳥井駒吉の会」

https://www.facebook.com/toriikomakichinokai/?tn-str=k*F

 

向泉寺は、そのもともとの位置が伝反正陵の南側だったということで、江戸期に伝反正陵北隣の方違神社の別当寺に指定されている。別当寺とは、『広辞苑』には「神仏習合説に基づいて神社に設けられた神宮寺の一」とある。言ってみれば日本の神と舶来の仏の祭祀を一緒に行うという事で、神社の世話をする寺というのが指定されたわけです。明治になって「廃仏毀釈」「神仏分離令」で徹底的にこの習俗は破壊されたわけですが、向泉寺は方違神社の別当寺だったということになります。寺自体は跡形もなくなってしまいましたが、その名残りが方違神社の境内に残っています。★常夜燈に「別當 向泉寺」の文字がハッキリ残されています。

ここは「摂津」「河内」「和泉」の旧国名の三地域の境界が接する地、ということで「三国辻」と呼ばれ、それが現在まで続く「堺」という地名の始まり。この「三国辻」には、大昔に行基さんが旅人の休息所を設けたともされ、この地は方違(かたたがえ)にも有効だということで、京のお公家さんたちの信仰も集めてついには「方違神社」という神社まで建てられたのです。

もともとこの地は向泉寺の境内の一部だったと★『和泉名所図会』には説明されていますが、社の縁起には応神天皇の時代に「方違宮」と称するようになったとしていて、行基さんが建てたという向泉寺よりも遥かに古い歴史を主張しておられます。

 

 

・・・この灯籠には「娯観之弌」と刻まれていますので、どこかに「弐」があるはずなのです。見つけたいなあ。

https://ameblo.jp/manabunc/entry-12561797257.html?frm=theme