●鳥井駒吉は1904年(明治37)に鉄道会社の二代目社長になりますが、どうも本心は社長になりたくなかったようですね。自分の本業は家業である酒造業で、そのための鉄道だったからでしょう。1906年(明治39)には健康を害し社長を辞めています。闘病生活中「娯観家」から毎日「開口神社」に通ったという。
●駒吉は母のために建てた「娯観家」で闘病生活を送った後、1909年(明治42)57歳でその生涯を閉じます。1945年7月10日★堺大空襲によって、堺の町は壊滅的な打撃を受けます。鳥井合名会社のあった★甲斐町も、自宅や別宅のあった★市之町も爆撃によって焼野原と化しました。「娯観家」にあった鳥井家の灯篭は焼け残り、★「江久庵」の庭に置かれています。灯篭には「駒」が刻まれています。
《NEWS》2016.7.10朝日新聞より
大阪)71年前の堺大空襲しのぶ 慰霊祭や法要
1945年7月10日未明の空襲で1860人が犠牲になったとされる堺大空襲から71年。堺市堺区の内川・土居川沿いで9日、遺族や地元住民による慰霊祭や法要があり、犠牲者に黙禱を捧げるなどした。甲斐町西3丁の公園では、地元住民ら9人が「堺大空襲を偲び平和を祈念する碑」に黙禱。近くの一光寺で20人が慰霊祭を営んだ。これまで市戦災死没者遺族会が市長らを招いて開いてきたが、会は高齢化の影響で3月に解散。元会長の鎌苅和由さん(87)ら有志が引き継いだ。鎌苅さんは「悲惨な出来事を風化させず伝えていきたい」。住吉橋町1丁の戦災無縁地蔵尊でも慰霊祭と法要があり、遺族と住民ら30人が参加した。主催した堺戦災無縁地蔵尊保存会の金銅美幸さん(76)は「悲劇を正確に伝えることと犠牲者の鎮魂のため100回まで続けたい」と話した。堺市によると、市は米軍の空襲を計5回受けた。7月10日未明の空襲は「堺大空襲」と呼ばれ、死者は1860人にのぼり、家屋1万8009棟が全焼した。
《NEWS》2017.10朝日新聞、産経新聞より
大阪)堺大空襲伝えるビデオ/三国丘定時制生徒が制作
1945年7月10日未明の空襲で1860人が犠牲になったとされる堺大空襲を伝えようと、府立三国丘高校(堺市堺区)の定時制放送研究会が自主製作ビデオを作った。被災者らに取材したドキュメンタリー。「みんなが今歩いている場所で、どれだけ大きな被害があったのか知ってほしい」。11月2日の文化祭で上映される。2年の長谷樹亨(たつあき)さん(18)が中心になって作った。今年7月9日にあった慰霊祭に参加し、母を防空壕で亡くしたという女性から「油脂焼夷弾で川にも炎があがり、川が燃えて、死体がいっぱいだった」と教えてもらった。空襲で焼けて炭化した柱が残る寺を訪ね、「ザーッという夕立とそっくりの音が、爆弾が降ってくる音だった」と聞いた。空襲を体験した95歳の女性にも話を聞き、「ホースを握ったまま死んでいる若者を見た。土居川に死体が累々とあった」などという証言に耳を傾けた。「堺空襲のことはあまり知らなかった」という長谷さん。堺区甲斐町東1丁の★「ギャラリーいろはに」に残されている防空壕に入って体験したほか、大阪市のピース大阪(大阪国際平和センター)で空襲について学んだ。国に損害賠償などを求めた大阪空襲訴訟の元原告にも話を聞いた。
第二次大戦末期の昭和20年、5回にわたって堺市内を襲った空襲の記録を残そうと、同市堺区の高校生らが、当時を生き抜いた被災者らの証言をビデオ録画する活動に取り組んでいる。15日で戦後72年となるのを前に、戦争体験者が減り続ける中、生徒らは「つらい話もあるが、生の声を聞ける最後のチャンス。きちんと記録に残し、後世に伝えていきたい」と意気込んでいる。
「あの悲惨な情景は忘れられない」
今月上旬、同市北区に住む花澤廣子さん(95)が当時の地図を前に、堺大空襲について語り始めると、カメラを構えた府立三国丘高校定時制課程2年で放送研究会2年の長谷樹亨さん(18)が聞き入った。花澤さんは24歳だった昭和20年当時、同市新在家町(現・堺区新在家町西)で家族とともに暮らしていた。町中には戦意高揚の歌があふれ、はちまきをして護身術の訓練を繰り返す日々を送っていたという。7月10日、突如として数機のB29が上空に現れた。「数え切れないほどの焼夷(しょうい)弾が落ち、一面は火の海になった。無我夢中で火の手から逃げた」と花澤さん。「翌朝、町中には死体が累々と積み重なっていた」と語り、「すごい時代だったが、そんな中を生きて抜けて幸せだった」と締めくくった。長谷さんが所属する放送研究会は、高校生らが堺の歴史を研究・発表する「日本と世界が出会うまち・堺」プロジェクト(堺市など主催)に参加するため、今年6月から週1回のペースで、勉強会を実施。戦時中の堺市について学んできた。古くからある寺などを訪れて当時を知る人を探し出し、花澤さん以外にも戦争体験者2人から話を聞いた。そのうちの一人、同市堺区の浄得寺の前住職、松井一覚さん(85)は堺大空襲の際、焼夷弾が落ちてくる「サー」という雨のような音に気づいて家族に伝え、危うく難を逃れた。あっという間に辺り一面が火の海に。無我夢中で逃げるあまり家族ともはぐれたが、翌朝戻った寺で無事再会を果たしたという。長谷さんらは今後もさらにこうした証言を拾い集め、11月のプロジェクトで発表する予定だ。放送研究会顧問の川端祥次教諭(53)は「生の声を聞ける最後のチャンス。戦争の記憶を何とか形に残したい」。長谷さんは「自分たちの住む街なのに知らない事実ばかり。その時代を生きた人から直接話を聞く重要性を学んだ。今後も戦争について勉強を続けていきたい」と話している。
《NEWS》2016.7.8毎日新聞より
堺大空襲、絵本で次世代に/田島征彦さん原画展
太平洋戦争末期の1945年7月、米軍機に堺市内が焼き払われた堺大空襲から10日で71年。その惨状を描いた絵本作家、田島征彦さん(76)の絵本原画展が9日、堺市堺区の堺市博物館で始まる。堺出身で、空襲で自宅を焼かれた田島さん。「絵本を作る人間として次の世代に伝えたい」と自らの体験を交えて描いた作品を展示する。当時、田島さんは5歳。空襲前に大阪・泉佐野に疎開したが、空襲で自宅が焼失し、向かいの家の少女が命を…
この絵本の舞台は、大阪府堺市です。1945年7月9日から10日未明の大阪堺大空襲で、なくなった人のかずは1394人、けがをした人のかずは1574人、その中には、家族が全部死んでしまって、だれも探してくれず、身元もわからない“ななしのごんべさん”が、たくさんいたそうです。
【田島征彦】
1940年、大阪府★堺市に生まれる。高知県で少年時代を過ごす。絵本に『祇園祭』(第6回世界絵本原画展金牌受賞)、『じごくのそうべえ』(第1回絵本にっぽん賞受賞)、『はじめてふったゆき』(竹内智恵子・共作/1989年ライプチヒ国際図書デザイン展銀賞受賞/偕成社)、『てんにのぼったなまず』(第11回世界絵本原画展金牌受賞/福音館書店)がある。
《江久庵》
590-0021堺市堺区北三国ヶ丘町1-2-36/072-222-2411
カステラの製造工程や千利休「大坂屋敷・茶室」(復元)をご覧頂けます。お茶処利休ではカステラをアレンジしたデザートや釜飯などの軽食もご用意させて頂いており、曜日によりまして、立礼席でのお点前も見て頂くことができます。
エクセルヒューマン(EH株式会社)は、利休の精神に敬意を表すと同時に、自らをより高めていくことを誓い大坂屋敷の深三畳台目茶室を★「朝雲庵」として復元。茶室研究の第一人者である、中村昌生氏(京都工芸繊維大学名誉教授)の監修により、利休の弟子・山上宗二が書き残した間取り図および当時の資料から、430年の時を超えて忠実に甦らせることができました。
・・・スタッフにご案内いただき、お庭へ。
・・・「娯観之弌」と刻まれていました。ということは、どこかに「弐」もあるのかな????