娯観家(1) | すくらんぶるアートヴィレッジ

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・・・「チラシ」もリニューアルしました。

 

 

・・・「鳥井駒吉展」概要を発表しました。

 

★「鳥井駒吉を知る・語る」講演・講談・展覧会(概要)

                    鳥井駒吉の会  代表 鳥井洋

                    事務局  ギャラリーいろはに内

                    TEL/FAX072-232-1682

                                         Email:irohaniyoko@gmail.com

■講演会:タイトル「鳥井駒吉を知る・語る」

(概要) ★竹田芳則氏(図書館)の講演

     堺生れの実業家鳥井駒吉の生涯の紹介。日本の酒造業界に革命を起こした駒吉はアサヒビー(株)や南海鉄道(株)を創業した。「信為万事之本」を信条とし、利益は社会に還元した。趣味豊かな文化人でもあった駒吉を語る。

     ★旭堂南陵氏の講談(14時半)

     ★懇親会(15時半)

日時:2020年2月22日(土)13時30分より

会場:開口神社瑞祥閣 堺市堺区

定員:先着80名 申し込み順(申込み先 ギャラリーいろはにTEL072-232-1682)

入場料:1000円(懇親会費用は無料)

主催:鳥井駒吉の会 開口神社

後援:堺市、アサヒビール(株)、南海電気鉄道(株)

問合せ先:鳥井駒吉の会(ギャラリーいろはに内) TEL072-232-1682

■展覧会:タイトル「鳥井駒吉展」

概要:鳥井駒吉の生涯と業績を資料展示。駒吉の書画も紹介。

日時:2020年2月21日(金)~3月4日(水) 11時~18時 木曜休

会場:ギャラリーいろはに  堺市堺区

定員:なし

費用:入場無料

主催:鳥井駒吉の会

後援:堺市、アサヒビール(株)

問合せ先:ギャラリーいろはにTEL/072-232-1682

 

・・・さて、具体的な企画案を練っている中で、とても気になることがあります。

 

 

《つーるど堺》2015年4月21日より

堺酔人酩物伝1~明治堺の酒造と鳥井駒吉~

http://toursakai.jp/zakki/2015/04/21_1852.html

近代堺の基盤を作った酒造業と破格の男

(前略)子孫である洋さんから見て、鳥井駒吉はどんな人物なのでしょうか?

「『俺の仕事はこれしかない』というタイプではない。あっちもやり、こっちもやりで、やったら成功、やったら成功でしょ。本当無茶苦茶な人だと思います。うまく時代の波に乗ったんでしょうね。失敗したら大笑いですからね。ほんま滅茶苦茶です」

「無茶苦茶」な企業人・駒吉ですが、彼の魅力はそれだけではありません。

「大きな人だったと思います。道を歩いていて貧しい人に出会ったら、何かをあげずにいられないような人ではないでしょうか」

駒吉は、小学校や市役所といった公共施設のための寄付金や、火災風水害に対する寄付金を毎年のように行っています。これは堺のみならず、全国に及んでいました。

「母・おゑいさんのために、自宅の近くに別宅として★『娯観家』を作りました。親思いだったんですね」

鳥井駒吉は母のために建てた「娯観家」で闘病生活を送った後、1909年(明治42)、57歳でその生涯を閉じます。

1945年7月10日。堺大空襲によって、堺の町は壊滅的な打撃を受けます。鳥井合名会社のあった甲斐町も、自宅や別宅のあった市之町も爆撃によって焼野原と化しました。「娯観家」にあった鳥井家の灯篭は焼け残り、★「江久庵」の庭に置かれています。灯篭には「駒」が刻まれています。

 

・・・かなり脱線になる予感もしますが、「娯観」という言の意味について調べることにしました。

 

●白川静『常用字解』より

形声。音符は呉。娯は、祝詞を入れる器を掲げて舞いながら祈る人の形で、それは神を楽しませ、願うことを実現しようとするための行為であった。女のシャーマンなどがそのことに当たったので、娯の字が生まれたのであろう。娯は呉の意味をうけて、★“たのしむ、たのしませる”の意味に使う。

 

●林麓耆老娯観(りんろくきろうごかん)

https://pulverer.si.edu/node/1162/title/1/0

江戸時代後期の画家で、★谷文晁の師とされる★渡辺玄対(1749~1822)が、古稀の祝いとして催した宴に参集した知人に書いてもらった書画を収めた版本の書画帖である。大阪芸大図書館蔵の版本のほか、九州大や東京大の付属図書館にも同様の版本がある。氏名録には儒者、画家、俳人などのほか、与力や地方藩の江戸詰藩士など様々な階層の人の名があり、玄対の顔の広さがわかる。本来は肉筆で書かれた詩歌や絵画を、個人で楽しむための書画帖を私家版とはいえ、版本として出版した点に「個」の一般化という出版の意義が感じられる。

 

 

●自娯

文人が自らの書斎(文房)で、ストレス発散のために絵など描くこと。書斎(文房)で生まれる芸術は★「自娯の芸術」と呼ぶ。一方、プロの絵描きが販売目的で描く芸術は「通俗芸術」と呼ぶ。

自らの娯(たの)しみを意味する「自娯」を、先人である江戸時代の文人に求めると、★貝原益軒『自娯集』がある。「其所以爲自娯者。獨在於自家天然之趣味。而非欲衒之以要譽於世人也。」

★田能村竹田は「渓山幽意図」に次のような賛を入れている。「我が画は自ら娯しむにあり。人をして娯ましむるにあらず。毫を運らすに矩度なく、墨を行るに只模糊たり。秋容水の冷ややかなるを知り、晩影雲の孤なるを覚ゆ。写し終つて看且つ笑ふ。見るべし拙にして迂なるを。」自然のなかで独りで楽しむという世界観は、景勝地における住宅での過ごし方と共通したものといえる。

 

《参考》文人趣味/煎茶シリーズ1「おいしいお茶9つの秘伝」著:一茶庵宗家★佃一輝宗匠

お茶のうまさは、葉と湯と間から生まれる。おいしいお茶をいれるには、茶葉を選び、水とその温度をうかがい、何よりも、間が大切である。これに良き器が加われば、完璧となる。「煎茶三絶」ともいうべき、極意と自分で愉しみ、自分を楽しむ★「自娯(じご)」の心が、煎茶を絶妙にする。

~煎茶四方山話~自娯(じご…みずからの楽しみ)

茶道には「茶の湯(抹茶)」と「煎茶道」があります。茶の湯は、もともと大名や公家、豪商といった支配者階級や富裕な人々の趣味。客を招くことを主として語らい、時には自慢の道具を披露する場となりました。茶の湯でいう茶室は応接間です。それに対して、急須で淹れる煎茶喫茶趣味は江戸時代中期以降、主に庶民の間に広まり、特に儒学者や画家、文学者などの知識層を中心に広がっていきました。煎茶は文房と呼ばれる自室で、ひとり静かにお茶を楽しむことを最上の歓びとしました。中国明代の茶書には「一人で飲む茶は神の領域」とまで書いています。そしてその文房で茶と共に書画や詩を楽しみ、決して高価なものや珍奇なものでなくとも、お気に入りの道具を使って、花を客として招き入れ、煎茶を啜ります。★自娯の世界の楽しみです。心地よいひと時です。

 

・・・以前、煎茶について知りたくて「一茶庵」を訪問したこともありました。

http://www.human-n.co.jp/issa-an/

 

《もっと知りたい文人画「大雅・蕪村と文人画の巨匠たち」》著:黒田泰三/刊:東京美術2018

https://www.tokyo-bijutsu.co.jp/np/result.html?ser=1&page=2

(序文より)もともと中国に始まった文人画は、日本では18世紀から19世紀にかけての短い期間に花開きました。日本の文人画には中国文人画に備わっている運命的な厳しさや幽愁こそありませんが、日本人の心情に身近な情感があり、複雑ではない心象が託されています。技巧を求めて到ることのできない、自ら娯しむという境地。遊戯の精神を忘れず、自由を希求し「万巻の書を読み万里の道を行く」生き方。本書は、そうした世界をつくりだした個性豊かな画家たちをとり上げて紹介します。「彼らが追い求めた文人画の最大の魅力である自娯は、画面の上に具体的なかたちとしてあらわれるものではありません。それはおそらく、絵を描くことを楽しむこと、そしてその時に感じる自由の中に存在するのではないでしょうか。このような自娯の境地を想像する時、画家の感じた自由が鑑賞者に伝わってくるのではないでしょうか」。

 

【貝原益軒】(かいばらえきけん)1630~1714

江戸時代前・中期の儒学者、博物学者。名は篤信・字は子誠、通称は久兵衛、別号を損軒と号し、晩年に益軒と改めた。福岡藩士・貝原寛斎の子で、医学を学び、朱子学を奉じた。教育・歴史・経済の面にも功績が多い。初め福岡藩主2代目の黒田忠之に仕えますが、その怒りに触れて浪人となり、医者として身をたてようと医学修業に励んだ。数年後に父のとりなしで3代目藩主光之に仕えて、約10年間京都に藩費遊学した。帰藩後、君命で『黒田家譜』を、ついで『筑前国続風土記』を晩年までかかって完成。陽明学者から朱子学者に転じ、早く『近思録備考』を著し出版したが、その経験的学風から朱子学の観念性への疑問を募らせ、それを体系的に論述した『大疑録』を晩年にまとめた。博物学では江戸期本草書中もっとも体系的な『大和本草』を編纂した。『大和俗訓』のような和文による啓蒙書など、数多くの著述がある。

 

 

【谷文晁】(たにぶんちょう)1763~1841

江戸後期の画家。字、号ともに文晁、名は正安、通称は文五郎、別号に写山楼・画学斎など。
狩野派、土佐派、南宗画、北宗画、西洋画などの手法をとりいれて独自の画風を創出、江戸文人画壇の重鎮となった。著書に『文晁画談』、『本朝画纂』など。田安徳川家につかえ、詩人としても著名な麓谷を父として江戸に生まれた。1788年(天明8)、画をもって田安家に仕官し、92年(寛政4)には松平定信に認められてその近習となり、定信の伊豆・相模の海岸防備の視察に随行して、西洋画の陰影法、遠近法を用いた『公余探勝図巻』を描き、また『集古十種』の編纂にも従って挿図を描いた。卓抜した技術で諸派を融合させた画風により一家をなした。なかでも「山水図」(東京国立博物館)のように北宗画を主に南宗画を折衷した山水に特色があり、また各地を旅行した際の写生を基に「彦山真景図」や「鴻台真景図」などの真景図や『名山図譜』を制作、★「木村蒹葭堂像」のような異色の肖像画も残している。

 

【木村蒹葭堂】(1736~1802)

江戸時代中期の日本の文人・文人画家・本草学者・蔵書家・コレクター。大坂★北堀江瓶橋北詰の造り酒屋と仕舞多屋(しもたや、家賃と酒株の貸付)を兼ねる商家の長子として生まれる。名は孔龔(孔恭)、幼名は太吉郎(多吉郎)、字を世粛、号は蒹葭堂の他に、巽斎(遜斎)、通称は坪井屋(壺井屋)吉右衛門。蒹葭とは葦のことであり、「蒹葭堂」とはもともとは彼の書斎のことである。庭に井戸を掘ったときに葦が出て来たことを愛でてそのように名付けたもので、後にこの書斎の名をもって彼を呼ぶようになった。

 

《参考》「木村蒹葭堂のサロン」/著:中村真一郎/新潮社2000

https://1000ya.isis.ne.jp/1129.html

画家、文人、学者ばかりでなく実力大名や外人たちまでが交流を求め、支援を惜しまなかった木対蒹葭堂世粛とはどのような人物なのか?幕府に睨まれながら、自邸を知識人たちの集まるサロンとしたり、あるいは書画や本草学・医学・蘭学の貴重な文物や標本を蒐集する私設博物館のようにした。いったいそこにはどのような人物が来て、どのような交流がおこなわれたのか?畢生の史伝大作、遺稿を加え完成。

 

【田能村竹田】(たのむらちくでん)1777~1835

文人画家でありながら、詩文を得意としたその才能は未だ尚、数多くの人々の心を惹き付けて止みません。旅をすることが非常に好きであった田能村竹田は日本の各地を渡り歩いては、数々の作品のモチーフにしていました。詩文を得意とし画論★『山中人饒舌』などを著した。豊後国竹田村の岡藩々医碩庵の次男としてこの世に生まれます。11歳の時に由学館に入り学を付けていきます。その後、研磨を重ねていき22歳の若さで教授となります。谷文晁に図などを師事しており、絵画の基礎を身につけて生きます。順風満帆であった教師生活であったのですが、藩内で百姓一揆が起こってしまい、その当時藩政を批判する側に廻っていた田能村竹田は、職を奪われ、無職となってしまうのです。しかし、この事件をキッカケに自由人となった田能村竹田は数々の文化人などと触れ合うようになり、中国文化画を基礎から真剣に学ぶ決意をすることになります。元々、多くの文化人との交流が盛んであった田能村竹田は、数々の画家から多くの基礎を学ぶ機会に恵まれており、どんどん力を付けて生きます。山水画をはじめ、人物画や花鳥図とその制作の範囲を広げて行くことにより数々の秀作を生み出すことになります。そして、晩年の頃の田能村竹田の作品は繊細さと大胆さを併せ持つ独特な味わいを持つ、美しい作風を手に入れ非常に高名な画家としてこの世に名を馳せていくことになったのです。中国山水画の基礎をしっかり押さえておきながらも、日本人らしい繊細で垰やかなその筆遣いはさすがと言える逸品として評価されています。

 

《参考》『大阪春秋第20号/特集:西区および西大阪』

所収の「木村蒹葭堂邸跡周辺と市立中央図書館」(古西義麿著)に、屋敷跡についての記載があります。記事の中で、蒹葭堂邸周辺の見取図が掲載されており、図の中に蒹葭堂邸跡が明記されています。また、同じく蒹葭堂邸跡として資材置場の写真も載せられていて、昭和54(1979)年当時、大阪市立西商業高校(現在の西高校)裏手の資材置場だった場所(西区北堀江4丁目5)が木村蒹葭堂の屋敷跡にあたることがわかります。さらに、屋敷跡ではなく中央図書館東南角に「木村蒹葭堂邸跡」碑があることについて、戦前大阪府が屋敷跡に建立した「蒹葭堂址」碑が戦災で行方不明となり、昭和35(1960)年に大阪市が始めた市制70周年記念の史跡顕彰事業において、最初に選定を受け、顕彰のため多くの人々の目にふれやすい公共地である現地に建立された旨の解説があります。『木村蒹葭堂 -なにわ知の巨人:特別展没後200年記念-』には、「北堀江五丁目水帳絵図」(安永3[1856]年、大阪歴史博物館蔵)の図版が掲載されており、その解説(井上智勝執筆)で、★瓶橋北詰にあった蒹葭堂の屋敷はこの図の「灘屋清兵衛」の所持地になっているところと推定されています。灘屋清兵衛は蒹葭堂と同じく★酒造業を営んでいたそうです。

 

・・・長くなりましたが、「文人画」「北堀江」「酒造業」とくると、イヤでも「駒吉」とつながるわけです。

 

《参考》堀江川の橋

堀江橋、浪速江橋(四つ橋筋)、隆平橋、賑江橋、高台橋、阪栄橋(あみだ池筋)、★瓶橋(新なにわ筋)、黒金橋、水分橋

 

・・・「瓶橋」はありますが、引札に書かれた販売所★「鳥井商店」北堀江鐵橋北詰北入る「鐵橋」はありません。橋の名前ではなく、明治43年(1910年)路面電車に対応するためかけ替えられた「鐵橋」と解するなら「阪栄橋」かもしれません。いずれにせよ木村蒹葭堂が住んでいたところのすぐ近くです。

 

《参考》「大阪市電南北線」

梅田停車場前を起点として、桜橋、渡辺橋、西横堀川西岸、湊町、難波、日本橋、名呉橋、霞町を経由して天王寺停車場前に至る路線、および大江橋、渡辺橋を経由する路線として、東西線とともに1904年3月の市会に案が提出された。しかし、沿線住民の反対があったため、梅田停車場前から桜橋、渡辺橋、肥後橋、湊町、難波、日本橋筋三丁目を経由して恵美須町二丁目に至る路線、および蜆橋筋新道路、大江橋南詰、渡辺橋南詰を経由する路線として敷設されることに決定し、1906年12月から工事に着手。1908年8月1日に梅田から湊町を経由して恵美須町に至る区間が開通し、続いて11月1日に渡辺橋から大江橋の間が開通した。梅田から大江橋の間は1909年7月に発生した北の大火(天満焼け)の整理のために工事が遅れ、★1910年12月28日に開通した。ちなみに、本路線の梅田停車場前駅 - 大江橋北詰間には1905年8月市会で阪神電鉄の電車乗り入れが認められていた。これは大阪市の線路使用契約としては初のものだったが、実施はされなかった。最初の廃止区間は1945年3月13日から14日にかけての大阪大空襲で被災した渡辺橋駅 - 大江橋間で、被災後休止となっていたが、復活することなく1960年10月10日に廃止された。1963年5月12日に肥後橋駅 - 日本橋筋三丁目駅間が廃止されたことで路線は南北に分断され、同年8月1日には大阪駅前駅 - 肥後橋駅間も廃止された。残されていた区間も1966年になって日本橋筋三丁目駅 - 恵美須町駅間が4月1日に、支線の大阪駅前駅 - 大江橋信号所間が7月1日に廃止され、全線廃止となった。

 

・・・鳥井駒吉が、共通点の多い「木村蒹葭堂」を意識しないわけがありませんし、手本にしていたと考える方が自然でしょう。