ミノル・ヤマサキ | すくらんぶるアートヴィレッジ

すくらんぶるアートヴィレッジ

●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●

・・・「スケスケ展」が開催された「掛川市生涯学習センター」、これは只者ではないと直感。気になって調べてみますと、案の定でした。

 

《掛川市生涯学習センター》/設計★ISS総合計画事務所1983

http://www.ichinomiyas.com/index.html

【たまり場コミュニティーをキーワードにした市民会館】

日本中に建設されている市民会館は★個人利用は難しい。表玄関は開かずの扉状態になっています。 この計画では、個人や小グループの利用を優先した。個人や小グループが何時でも気軽に利用できるように、 円形のアトリューム広場を囲む、市民活動のための部屋を配置した。天井には市内の★小学生の布絵を吊り、★建物全体が市民ギャラリーであることを表現した。

※新建築1983年7月号掲載

 

【一ノ宮賢治】 (1940~)

1940年東京生まれ。1963年早稲田大学理工学部建築学科卒業後、渡米し、★フランク・ロイド・ライトの★「タリアセンTaliesin」で有機的建築の実践を学んだ後、★ミノル・ヤマサキの元で、ニューヨーク・ワールドトレードセンターの設計等に従事した。1971年に独立、代表作品としてヤマハのリゾートの施設“つま恋”“はいむるぶし”“葛城北の丸”、★掛川市生涯学習センターがある。設計テーマは、有機的建築の追求、自然環境との共存、文化の継承と創造的結合で、独立以来一貫して約40年、このテーマの研究、実践に挑戦し続けている。このテーマはリゾート施設等の大規模なものに限らず、人間生活の細小単位である住宅にも共通するため、小規模住宅と家具も数多く手がけている。建築の設計だけでなく、都市と農村地域の交流を目的とした、グリーンツーリズム活動を推進するため、1977年財団法人農林漁業体験協会(現、都市農山漁村交流活性化機構)を設立して以来30年、現在も理事として活動を続けている。この活動を通じて竹林の荒廃が深刻な状況にあることを知り、竹素材の現代建築への活用の研究を始めた。この成果をギンザコマツギャラリーで開催した展覧会“竹と輝き”で発表。ニューヨークでも講演。

 

 

【フランク・ロイド・ライト「タリアセン」】エーデイーエーエディタトーキョー2002

本書は、アメリカの建築文化において輝かしい歴史を刻んだ建築家、フランク・ロイド・ライトの代表作の1つである「タリアセン」を紹介する作品集である。二川幸夫のレンズが捉えた緑豊かな地に広がる建築が、ページをめくるごとに豊かな詩情をもって展開する。1867年に生まれたライトは、シカゴにある、最初の作品となった自邸兼スタジオに20年ほど住んだ後、施主の夫人とともにヨーロッパへ逃避行をする。帰国後、帰る場所をなくしたライトは当時、彼の母が住んでいた長閑な風景が広がる農村へ移り、そこに自邸、さらに弟子たちも共同生活する「タリアセン」を建てる。しかし、召し使いの放火で建物は焼失し、夫人や子どもたちも巻き添えで亡くしてしまった。さらに建て替えたものさえも再び火災の魔の手に。現在残るものは、2度目の改築による「タリアセンIII」である。本文はライト自身の言葉を多く引用したテキストで始まる。少年時代のおおらかな時を過ごした、輝く緑の丘。その地に再び帰り、自然の中で建築をつくりあげていく、みずみずしい感動が詩となる。ページをめくるとその自然の光景がまさに鮮やかな写真となり目を潤す。見開きごとにテキスト、写真が繰り返され、いつしか想像力は緑の大地を泳ぐ。やがてテキストだけとなるのだが、それは「火をやっつけろ!」と闘うくだりであり、この建物の、いやライト自身の苦難を知る。そして「タリアセンIII」がカラーページを交え、堂々としたボリュームで展開する。それはそんな不幸な経緯があったことなど思いもしない、平和で温かな空気を感じさせる。ライトが設計した家具や照明器具、収集した日本や中国の美術品、そして深い緑と草原の光が、建築空間を彩っているさまをレンズは精緻に捉えている。書棚に20年、30年と置いても古びない価値を感じさせる1冊である。

 

・・・もちろん、さっそく注文しました。

 

 

【ミノル・ヤマサキ】Minoru Yamasaki、山崎實(1912~1986)

日系アメリカ人建築家。ワシントン州シアトル出身の日系二世。ニューヨーク★世界貿易センタービルの設計者。日系の近代建築家として、アメリカで確固たる地位を築く。AIAのファースト・オナー・アウォーズで4度(Honor3度、Merit1度)受賞。日本でも芦屋浜シーサイドタウンなどの設計を手がけたことで有名である。

 

《NEWS》2014.5.27ニューヨーク経済新聞より

ニューヨークの世界貿易センター跡地「Ground Zero(グラウンド・ゼロ)」(1 Albany St.)に5月21日、米同時多発テロ事件を記録した記念博物館「The National September 11 Memorial&Museum(ザ・ナショナル・セプテンバー・イレブン・メモリアル・アンド・ミュージアム)」がオープンした。同館は、犠牲者の追悼を目的とするほか、テロの脅威、悲惨さを後世に伝えていくために建設された。館内には犠牲者の遺品や崩壊したビルの残骸、現場にいた人たちの証言を基に作成した資料などを展示。すでに世界中から多くの人々が足を運び、展示物を前に犠牲者を悼んでいる。事件から12年たった現在でも、身元が特定されていない遺体が犠牲者の半数近くに及ぶ。遺族からは「今でも家族の遺体と対面できずに苦しい思いをしているのに、9.11を過去のこととして考えられない」という声や、「見せ物にされたくない」と同館の運営に批判的な意見もあがっている。事件を伝えていくだけでなく、現在でも苦しむ遺族たちとの向き合い方が今後の課題とされている。営業時間は9時~20時(9月22日~12月31日は19時まで)。チケットは大人=24ドル、65歳以上=18ドル、7~17歳=15ドル。

 

【飯塚真紀子】

http://makikoi.blog47.fc2.com/

大分県生まれ。早稲田大学教育学部英語英文科卒業。出版社にて編集記者を務めた後、渡米。ロサンゼルスを拠点に、政治、経済、社会問題、トレンドなどをテーマに、様々な雑誌に寄稿している。ノーム・チョムスキー、ロバート・シラー、ジェームズ・ワトソン、ジャレド・ダイアモンド、エズラ・ヴォーゲルなど多数の知識人にインタビュー。著書に『9・11の標的をつくった男 天才と差別ー建築家ミノル・ヤマサキの生涯』(講談社刊)、『そしてぼくは銃口を向けた」』、『銃弾の向こう側』、『ある日本人ゲイの告白』(草思社刊)、訳書に『封印された「放射能」の恐怖 フクシマ事故で何人がガンになるのか』(講談社 )がある。

 

 

★「9・11の標的をつくった男」著:飯塚真紀子/講談社2010

ロサンゼルス在住のジャーナリスト★飯塚真紀子さんが2010年8月に上梓した新著「9・11の標的をつくった男」(講談社)は、人の関心を引き付ける刺激的なタイトルだ。「9・11の標的」とは言うまでもなく、2001年9月11日に同時多発テロで倒壊した世界貿易センタービル(以下WTC)を意味する。そして、そのWTCの建築家が日系二世、ミノル・ヤマサキであり、同著の主人公なのである。ヤマサキは1912年、シアトルのスラム街で、富山から渡った一世の両親のもとに生まれた。人種差別を受けながら、父は靴屋の倉庫係として、また休日はチョコレート工場の掃除夫としても身を粉にした働き、息子をワシントン大学へと進学させた。両親の口癖は★「日本人だから、仕方ない」だった。貧しい暮らしも日本人だから、裏方の仕事にしか就けないのも日本人だから、という具合に。夏休みの間は学費捻出のためアラスカの缶詰工場で働きながら、ヤマサキは優秀な成績を修め、34年、建築学士として卒業した。建築を選んだのはカリフォルニア大学で建築を学んだ叔父・公顕の影響である。本来ならば、建築関係の職に就くところだが、日系人のヤマサキにとってそれは至難の業だった。彼よりも成績が下位だった白人の同級生が次々と就職していくのを横目に、西海岸よりも人種差別が少ないというだけの理由で、ヤマサキはニューヨークに向かう。そこでやっと得られた仕事は、日本の陶器を扱う貿易会社での梱包係だった。彼が父親のように「日本人だから仕方ない」と建築の道を諦めていたら、その後の彼の成功はないし、WTCもまったく違った建築物になっていたはずである。ヤマサキは諦めることなく、建築部門のデザインコンペへの入選や夜学の大学院進学を経て、大学を卒業して4年後に、念願の設計事務所に入所する。そして1年後、エンパイヤステートビルの設計で知られる大手の建築事務所に移り、才能を大きく開花させ、業績が認められていく。さらにデトロイトの有名事務所に籍を置いた後、1949年、遂に独立を果たすのである。その後のヤマサキの建築家としての名声はうなぎ上りだった。シェル構造のセントルイス空港、議論の的となったレイノルズ社の社屋などで一流建築家として認められたヤマサキは、デトロイトのレストランに入れば拍手で迎えられるほどの地元社会の顔になった。そしてWTCの建築家に選ばれた1962年には、まさに絶頂期を迎えていた。本作では、ゆかりの土地や人々を訪ね歩いた飯塚さんが、これまであまり知られることのなかった彼の素顔を丹念に浮き彫りにすることに成功している。著者としてヤマサキのどのような点に魅かれたかを聞くと、飯塚さんは「今の日本にはいない、昔の日本男児のような破天荒な生き方」と答えた。「決してスマートではないが、ストレートに感情をぶつける人間臭さ。今の時代、なかなかカリスマ性を感じさせる人はいないが、彼には所員がついていきたくなるようなマグネティックな強さがあったと思う。その強さは、建築に対するヤマサキ自身の情熱から来ているのではないか。妥協を許さず、自己犠牲を払ってまでも突き進んで行く姿勢にも心打たれた」同郷の先輩である飯塚さんと交流がある私は、この本を執筆中の彼女から「書き上げたいけれど、雑誌の仕事が忙しくなかなか完成までこぎ着けることができない」と聞かされていた。そして、取材執筆に7年かけた後、出来上がってみて初めて、「9・11の標的をつくった男」というタイトルを知り、冒頭に書いたように「よくぞ、ここまで絶妙なタイトルをつけたものだ」と感心した。残念なことに、日本に住む日本人の興味は、★同胞である在外日系人に向けられることが少ない。しかし、この「9・11の標的」というキーワードを入れることで、多くの人が注目することは間違いない。きっかけが「9・11」であったとしても、人々がこの本を手に取り、結果的に日系人建築家、ミノル・ヤマサキの卓越した能力と魅力的な人間性を知ることになれば、タイトルの作戦勝ちと言えるのである。WTCも既になく、ヤマサキ自身も1986年に他界しているが、彼の情熱的な人生の記録がこうして1冊の本に残されたことを心から祝福したい。ルーヴルのピラミッドよ、永遠に。

 

 

★I.M.ペイとミノル・ヤマサキ 対照的な2人の建築家秘話/文:飯塚真紀子

世界的建築家、I.M.ペイ(イオ・ミン・ペイ)が逝去した。ペイというと、多くの人々は、ペイが創ったルーヴル美術館にあるガラスのピラミッドを思い起こすだろう。筆者の脳裏には、滋賀県の山中にある、★MIHO MUSEUM(ミホ・ミュージアム)という美術館のテラスから見えるある光景が蘇る。その光景には2つの建築物が映し出されていた。一つは★“ベルタワー”と呼ばれるペイが創った塔。もう一つは★“教祖殿”と呼ばれる日系2世の建築家ミノル・ヤマサキ(愛称ヤマ)が創った宗教建築である。それは、ペイとヤマサキのコラボと言える“屏風絵”のように美しい光景だった。1917年生まれのペイと1912年生まれのヤマサキ。ヤマサキは1986年に先立ったが、2人の★アジア系アメリカ人建築家は同じ時代を生き、歴史に残る建築物を創った。最も知られているペイの建築物がガラスのピラミッドだとすれば、ヤマサキの場合、それは9.11で崩落した世界貿易センタービルだろう。1960~1970年代、アメリカの建築界で活躍した2人は交流があった。ある時、2人のディナーのテーブルに同席したのが、世界貿易センタービルの構造設計を手掛けたことで知られる構造設計エンジニアのレスリー・ロバートソンだ。2人をよく知るロバートソンは、筆者がヤマサキの人物評伝『9.11の標的をつくった男 天才と差別ー建築家ミノル・ヤマサキの生涯』を執筆するにあたってインタビューした際、その時の様子をこう回想した。「それはひどいディナーでした。ヤマが、ペイが創ったボストンのジョン・ハンコック・タワーのガラスが壊れた事件を論い、ペイに説教を始めたからです」1973年、ボストンにあるジョン・ハンコック・タワーは暴風でたくさんのガラスが崩れ落ちたために閉鎖され、ボストン市民を不安に陥れて問題となっていた。そのことで頭を痛めていたに違いないペイを、ヤマサキは批判的な口調で説教したという。ペイは気分を害してしまったのか、2人の間には穏やかならぬ空気が流れた。ロバートソンは2人の間に入って、そんな空気を和らげようとしたという。ヤマサキはなぜペイに説教したりしたのだろう? それについて、ロバートソンは、「ヤマは、ペイを助けたいという善意から、ペイにアドバイスをしているつもりだったのかもしれません」と話したが、そこにはもっと複雑な思いがあったのではないだろうか? ロバートソン曰く「ペイとヤマは建築に対するアプローチにおいても、性格においても、対照的な建築家だった」からだ。ペイは、ガラスのピラミッドで代表されるように、ガラスを駆使した建物を遺している。一方、ヤマサキはガラスを使うことには否定的で、★“反ガラス”の姿勢を貫いていた。そのため、ガラスを使った建物が隆盛していた当時、ヤマサキは建築界では異端視されていた。世界貿易センタービルを設計するにあたっても、できるだけガラスを使わず、多くの柱を使って彫刻のような美を生み出そうとした。また、2人は建築へのアプローチも異なっていた。ペイは創ろうとする建物を頭の中で視覚化して語ることができたが、ヤマサキはうまく視覚化できないために模型造りに力を入れた。性格も正反対だった。中国広州市の裕福な家に生まれ育ち、人の話にもよく耳を傾け、場に馴染むことができたペイ。一方、日本から移民した両親の下、シアトルのスラム街で育ったヤマサキは柔軟性がなく、自分の意見に固執した。同じアジア系アメリカ人ながらも自分とは正反対で、自分よりも優れているかに見られているペイに、ヤマサキは心のどこかで対抗心や嫉妬心を抱いていたのかもしれない。それが、「ペイに対する説教」という形になって現れたのではないか?また同時に、ヤマサキはペイにある種の優越心も感じていたのかもしれない。

 

 

当時、ヤマサキは世界貿易センタービルを創ったことで、世界の注目を浴びていたからだ。世界貿易センタービルのデザインについては、ヤマサキ以外に、ヴァルター・クロビウスやフィリップ・ジョンソン、ルイス・カーンなど当時の名だたる建築家約40人が建築家候補に選出されたが、ペイもその一人だった。しかし、最終的にはヤマサキが選ばれた。ペイが選ばれなかったことについては、関係者の間では意見が別れている。当時、ニューヨーク港湾局の副局長を務めていたリチャード・サリヴァンは筆者にこう話した。「世界貿易センターの設計については、何人かの建築家からは“興味がない”という返事がきました。ペイもその一人でした。彼は世界貿易センタービルのような大プロジェクトはやりたがらなったのです」一方、当時、ニューヨーク港湾局が世界貿易センタービル建設のために設けた「世界貿易部」の部長を務め、建築家選定に大きく関わっていたガイ・トゾーリはこう記憶している。「ペイは世界貿易センタービルのプロジェクトをやりたがっていましたが、我々は彼を選ばなかったんです」いずれにせよ、選ばれたヤマサキには、世界貿易センタービルの建築家としての自負があったことだろう。そんな自負心が、彼を思わず「ペイに対する説教」へと導いてしまったのかもしれない。そんなヤマサキだったが、ロバートソンは感じていた。「ヤマはペイを敬愛していた」ヤマサキのペイへの敬愛は、冒頭で紹介した滋賀県にある神慈秀明会の建築物に現れている。神慈秀明会は滋賀県山中にある教祖殿を建築するにあたり、ペイとヤマサキの2人を最終候補に絞り、最終的にヤマサキを指名した。ヤマサキの設計による教祖殿が1983年に完成した後、神慈秀明会はベルタワー(カリヨン塔)という塔の設計もヤマサキに依頼しようとしたが、かなわなかった。1986年、ヤマサキが他界したからだ。ヤマサキは言い遺していたという。「自分の後をやるなら、ペイだね」と。ペイはヤマサキの遺志を引き継ぎ、ベルタワーを、ペイが京都の店で買った象牙の★三味線のバチをモチーフにしてデザインし、1990年に完成させた。その後、ペイは、教祖殿の隣の山中にある★MIHO MUSEUMも創った。筆者は、拙著取材時、教祖殿とベルタワーを訪ねた後、MIHO MUSEUMにも足を運んだ。美術館のテラスから谷を隔てて見える教祖殿とベルタワーの絶妙なハーモニー。思わず、息を飲んだ。その時、学芸員の女性がこんな話をしてくれた。「ペイさんは、テラスの高さを5メートルずつ変えながら、教祖殿とベルタワーが最も美しく見える位置にテラスを配置したのです」 ペイはヤマサキがデザインした教祖殿と、自分がデザインしたベルタワーが美しく組み合わされるような地点を捉えて、テラスから望むみごとな★“屏風絵”を作って見せたのだ。それは、ペイとヤマサキのコラボといってもいい美しい“屏風絵”だった。そんな2人のコラボが完成してから4年を経た2001年9月11日、ヤマサキが創った世界貿易センタービルは同時多発テロの標的となって姿を消した。その悲運の最期を思うと、願わずにはいられない。ルーヴルのガラスのピラミッドよ、永遠に!

 

 

・・・次々に人と人・アートとアートが「つながり」これぞ文化だ芸術だと、ひとり納得しています。