カルピス | すくらんぶるアートヴィレッジ

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・・・カルピスを特集しようと思った動機(モチーフ)は、

 

3月23日からオンエアが始まった「あの頃の味」編は、「濃いめの『カルピス』」として初のTVCM。長澤が友人と訪れた温泉施設で、風呂上がりに商品をひと口飲むと幼い頃の記憶がよみがえる。5歳の彼女が兄の制止を振り切り、「いーの! もっと濃い方がいーの!」と口をとがらせ、カルピスの原液をグラスに注ぐ回想シーンになり、続いて現在の長澤が「いーの!」と幼い頃の口調を再現してみせたり、「いいんだよ~」とおどけたりすると、友人から「キャラも濃いめ」とツッコまれて、「イエース!」と返答する。

 

・・・「長澤まさみ」さんに関心を抱き始めたのは、映画「SING」なんです。ヤマアラシのASHがギンギンのロックを演奏するシーン、思い出すだけでも興奮するんです。孫娘に、あの赤いエレキギターの玩具を買い与えたほどです。そして、大流行の「コンフィデンスマンJP」のダー子。これだけ立て続けに登場されたら、さすがにはまりますよね。ダメ押しに、先日の放映では「フリーダ・カーロ」に扮して絵を描いておられたので、イメージぴったりで心奪われました。発作的にフリーダの本も購入しました。ははは

 

 

《カルピス》

https://www.calpis.info/

1917「醍醐素」(脱脂乳を乳酸菌で発酵したもの)発売(「醍醐素」はのちに「カルピス」開発のもととなった)

1919酸乳をベースにしたわが国初めての乳酸菌飲料「カルピス」を発売

1922「カルピス」徳用ビン発売。この商品に★水玉模様包装紙(青地に白の水玉)を初めて使用

1922★「初恋の味」のキャッチフレーズを初めて新聞広告に使用

1924オットー・デュンケルスビューラー図案の黒人マークの「カルピス」広告を新聞で初めて掲載(*1990年1月、差別問題から自主的に使用を中止しました)

 

★国民的飲料「カルピス」の知られざる起源――元僧侶の創業者が発揮した驚くべき経営手腕

/ハーバービジネスオンラインより

https://hbol.jp/92090/4

世界まで巻き込んだ、国際懸賞ポスター展/その中でも特に目を引くのが、第一次世界大戦後のインフレに苦しむドイツを中心とした欧州の商業美術家救済事業として、外務省ともタイアップして1923年に開催した、カルピスの宣伝用ポスターデザインを公募した「国際懸賞ポスター展」で、各国から1400点もの作品が集まりました。これは欧州に比べて格段に遅れていた日本の商業美術界に新風を吹き込もうとしたものでもありました。これらの作品の数々は、東京・大阪・福岡・福井・石川で行なわれた展覧会でも大きな反響を呼び、入賞した以外の応募作品も、競売にかけられ、応募者に代金が送られました。なお、長年にわたって愛されていた、パナマ帽を被った黒人男性がストローでグラス入りのカルピスを飲んでいるデザイン(1990年に使用を中止)は、この時に3等に入賞したドイツ人のオットー・デュンケルスビューラーという著名な図案家の作によるものです。

多くの人々に生きる力を与えた、一杯の「カルピス」/ここまで触れてきた通り、海雲は今まで誰も挑んだことの無かった飲み物にチャレンジする行動力と、それを様々なやり方で人に伝えるアイデアを持ち合わせていましたが、ただの優れた起業家であるだけでなく、カルピスに取り組んだきっかけや上記の国際懸賞ポスター展を見ても分かる通り、元々僧侶だったこともあり、ホスピタリティに溢れた人物でした。それを象徴するのが、1923年に東京を襲った関東大震災時のエピソードです。焼け野原と化した東京で飲み水を求める人々に、海雲は会社の資産を投じて、冷たい「カルピス」を配って歩きました。当時の状況を海雲はこう語っています。「その時私がいた山手方面は水が出たので、飲み水に困っている人々に水を配ってあげようと考えた。そのとき、せっかく飲み水を配るのであれば、それにカルピスを入れ、氷を入れておいしく配ってあげようと考えた。いまこそ、日頃の愛顧にこたえるときだと思ったからである。幸いなことに、工場にはカルピスの原液がビヤ樽で十数本あった。これを水で6倍に薄め、それに氷を入れて冷やして配ることにした。金庫のあり金2千円を全部出して、この費用にあてた。さて、配る方法である。そのころ、トラックは1日1台80円でチャーターできた。しかし震災のあとだけに、車は逼迫していたが、何とか4台のトラックをかき集めてきた。そして、翌日の9月2日から東京市内を配って回った。私たちの「カルピス」キャラバン隊は、いたるところで大歓迎を受けた。上野公園に避難していた人々などが、黒山を築いて私たちを迎えてくれた。」元々、海雲は上記で触れた通り、先進的に企業ブランディングを強く意識していた人物ですので、こうした行動に出るのは自然なことだったのだと思います。そして、その胸の内には、仏教によって育まれた大乗精神や、若き日に内モンゴルで触れた人の優しさといったものが息づいていたのではないでしょうか。

 

1974「カルピスソーダ」全国発売

1991「カルピスウォーター」発売

 

 

※カルピスは1990年に「味の素」からの出資を受け、2007年には★完全子会社になった。

https://business.nikkei.com/atcl/gen/19/00051/062600005/

人事異動を実施するなど一定の融合は図っていたが、食品と飲料で製品の特質が異なる以上、サプライチェーンの共通化などは難しかったようだ。完全子会社化からわずか5年後の2012年、味の素は「アサヒグループホールディングス(GHD)」にカルピスを売却した。「カルピスには、ブランド価値を高め続けてもらいたい」カルピス出身で、現在はアサヒ飲料の常務執行役員マーケティング本部長を務める大越洋二氏は、アサヒ傘下入りが決まったとき、アサヒGHDの泉谷直木社長(当時、現会長)に言われた言葉を鮮明に覚えているという。アサヒ傘下に入った後も、「今まで通りでいい」というメッセージだと感じた。カルピスとアサヒは同じ飲料メーカーといえども、組織風土に違いがあった。カルピスは乳酸菌飲料という特定の分野を深堀ってきたが、アサヒ傘下のアサヒ飲料は総合飲料メーカーとして常に他社とシェアを争ってきたからだ。営業部門などは当初別々のままにして、なじませる期間を設けた。カルピスとアサヒにとって転機となったのが、2015年だ。アサヒ飲料の経営会議のメンバーが、同社とカルピスの経営統合を見据えて、2社で共通化できる強みは何か、議論を重ねた。その結果、アサヒ飲料は全社方針として★「ブランド価値の向上」を掲げる。各ブランドの守るべき価値を定めた“憲法”を作り、部門横断組織のブランド管理委員会が定期的に営業社員などに対して勉強会を開いた。アサヒ出身であろうと、カルピスの商品への理解を深めてもらい、逆にカルピス出身者もアサヒ商品を理解することが求められた。16年1月、カルピスとアサヒ飲料は経営統合する。今では、生産から物流、販売体制まで共通化している。さらに、アサヒ傘下の別会社では、乳酸菌技術を生かした健康食品も開発するなど、一定のシナジー効果が出ているようだ。★「一緒になるときに大事なのは互いを認め合う度量」と大越氏は話す。アサヒ飲料の“ブランド憲法”も、カルピスのブランド管理基準書を生かす形でつくられた。小さなことに見えるが、買われた側を尊重できるかが成否を分ける。少子高齢化で国内市場が先細る中、業界の再編は今後ますます進んでいく可能性がある。そのとき上手く統合できるかは企業の競争力をも左右する。

 

・・・「互いを認め合う度量」高めたいものです。

 

2009「カルピス」発売90周年を迎える(7月7日)

2012「カルピス」の容器を全面刷新、プラスチック素材の「ピースボトル」で発売

2019アサヒ飲料は10月1日、「カルピス」ブランド発売100周年限定商品として「匠のカルピス」370ml(希望小売価格税別150円)を2020年3月末までの期間限定で発売する。

★「カルピス」ブランド発売100周年施策/100周年スペシャルパッケージが6月11日より登場。LINEを使って、大切な人と一緒に応募するキャンペーンも実施。

https://prtimes.jp/main/html/rd/p/000000093.000039153.html

100周年スペシャルパッケージのデザインは、夏に家族や友達、恋人と一緒過ごす、かけがえのないひとときの風景を特別に人気の3人のイラストレーターが描き下ろしています。

【かとうれい】1992年生まれ、東京在住。青春を感じるような、甘酸っぱくロマンチックな世界観を描くイラストレーター。2015年に初画集『girl friend』を出版(宝島社)。広告や挿絵、CDジャケット等多岐に渡りイラストレーションを手がける。

【Pomodorosa】イラストレーター、音楽作家。イラストでは装画やキャラクターデザイン、音楽ではCM等の映像音楽を主に手がける。2015年に自身初の商用画集となる「Music, Fashion and Girl」を一迅社より出版。

【米山舞】高い技術力でクリエイター内でも注目される。10代に人気のテレビアニメ作品を多く手がけたアニメーター。エヴァンゲリオンを製作し世界的に有名になったアニメ制作会社ガイナックス出身。主な参加作品として、『THE IDOLM@STER』(2011−原画)、『キルラキル』(2013−作画監督、総作画監督補佐)、『キズナイーバー』(2016−アニメーションキャラクターデザイン)

 

 

★日本版「黒は美しい(ブラック・イズ・ビューティフル)」運動、2013年末始動

http://blackisbeautiful2013.blog.fc2.com/blog-entry-10179.html

企業問題としての黒人差別は、プラダ、グッチと相次ぎ、2019年1月の日清食品の「ホワイトウォッシュ」事件、そして今回の花王である。記事には、「社員の働き方に配慮した企業を「ホワイト企業」と呼ぶことにちなみ、プロジェクト名に「ホワイト」の文言を入れた」とある。差別語「ブラック」を使った「ブラック企業」の対義語が「ホワイト企業」などというのは、名誉白人低国でしか起こらないトンデモ事態だ。この国で、企業問題としての黒人差別で有名なのは、カルピスの「黒人マーク」とタカラの「だっこちゃん」だと思われるので、今回は、ジョン・G・ラッセルの「黒人マーク」「だっこちゃん」についての記事を紹介する。(中略)さまざまな媒体をとおして、欧米人が作りだした★黒人観を、いわば素直に輸入してきた日本人には、最初はそれが虚像だとはわかっていないかもしれないが、このまま放置しておけば、日本人が無意識に受け入れている黒人に対する固定観念をいっそう助長することになろう。日本人は、人種差別が海外だけにあるものではなく、この日本国内にもあるということを認識する必要がある。例えば、興味深いことに、カルピスはすでに★10年前から欧米への輸出品からは「黒人マーク」を削除していたにもかかわらず、日本国内では「黒人マーク」を使用しつづけていたのだ。それは、日本には、黒人に対する差別がなく、黒人を"健康美"や"機能美"の象徴として用いることになんの問題もない、という認識によっていたのだ。カルピスが、今回本国内においても「黒人マーク」の使用を中止したのは、アメリカでの同社による「黒人マーク」いついての意識調査で、調査対象となった36人(白人と黒人)の過半数が、差別を感じると回答したためである。つまり、★日本人がそれに差別を感じるからではなく、アメリカ人がそのように感じたから、中止を決めたのである。私の知る限り、大阪で「黒人差別をなくす会」を作って活動している★有田利二氏の努力を例外として、一般の日本人がカルピスの「黒人マーク」に★差別を感じとり、使用中止を要求した例はない。

 

《黒人差別問題から省みる日本人の「普通」地獄》河合薫(健康社会学者)/日経ビジネスより

今回は感情の赴くままに書く。なので、読んだ方も感情の赴くままに考えて欲しい。

「まず、俺は誰も責める気はない。文句を言うつもりもない。これが差別だとかどうとかそんなの本当にどうでもいい話」これは6月15日に、東北楽天ゴールデンイーグルスのオコエ瑠偉選手が「自分のものすごく嫌だった過去」を、ツイッターでさらけだした際に、冒頭に書かれていた言葉だ。オコエ選手が「周りと違うと初めて認識させられた」のは、保育園で先生が★「みにくいアヒルの子」を読んでくれたときの周りの子供たちのまなざしだった。うつむき耳をふさぎ、孤独を感じたオコエ選手は、その後も“心が無くなる瞬間”をたびたび経験する。「親の似顔絵を書くとき、顔は肌色で描きなさいと言われた」「おまえの家で虫とか食うんだろうと罵られた」「甲子園に黒人は出るなとか聞こえてきた」……etc.etc「ここから飛び降りて生まれ変わって、普通の日本人になれるかな、と考えていた。今となっては、この普通とはなんだろうといまだに考えている」「心が無くなるのは本当に怖い」──。そして、3ページにわたるオコエ選手の“嫌だった過去”は、こう締めくくられた。「今後、自分の子どもができて同じ経験をさせないようにするにはどうすればいいのだろう。と考えている人。そういう人たちの共感につながればいいな」と。#BlackLivesMatter のハッシュタグが付けられたこの投稿は、6月22日現在で19万3000件の「いいね」が付き、5万2000件リツイートされている。このツイートはさまざまなメディアでも取り上げられたので、ご覧になった人も多いかもしれない。一方、オコエ選手はメディアが、「楽天オコエ、差別受けた過去明かす」という見出しを付け報じていることに対し、ツイッターを更新し、「メディアがこうやって★勝手に差別とかいうけど、日本人一部にとって差別って言葉自体刺激的だし、★これが差別なのか俺でも分からないから俺は使わない」と記している。

米国に端を発した差別反対の動き/差別。確かに刺激的な言葉だ。なのに「差別された」「差別されてんだよ」などと、この言葉を日常的に使うこともある。「それ差別だろ?」とののしれば、「差別じゃないよ、★区別だよ」と言い返されることも。学歴差別、男女差別、年齢差別など、理不尽な差別に悩み、苦しむ人たちもいる。オコエ選手の投稿は、#BlackLivesMatter のハッシュタグが付けられているとおり、白人警察官による米ミネソタ州の黒人暴行死事件が引き金となった全米の抗議デモに関連して、「自分のものすごく嫌だった過去」を書いたものだ。亡くなったミネソタ州の男性の最期の言葉は、“I can't breathe”。男性は警官らに首と背中を圧迫され続け、脳への血流が止まって死亡し、事実上の即死状態だった。現場にいた警察官4人全員が懲戒解雇され、起訴されている。これまでも黒人男性が警察官に射殺される事件は繰り返された。今回の抗議デモの最中も、米ジョージア州アトランタのハンバーガー店で黒人男性が射殺された。どれもこれも不合理な事件で、そこに「黒人の人権」はなかった。相手が黒人だから発砲しているんじゃないのか。黒人の命を軽んじてるんじゃないのか。400年前にアフリカから黒人を★「奴隷」として買ってきた時代は、とっくに終わっているのに、黒人の「生きる意志」さえ奪う人たちが後を絶たない。つまり、#BlackLivesMatterとは、★言葉が示す通り「命」の問題なのだ。

日本のメディアは今回の抗議デモが過激化している背景を、「人種差別とコロナ禍で浮かび上がった所得や医療水準の格差の広がり」と説明するが、★それは「イエス」であり「ノー」だ。米国には日本人が決して理解できない「感情」がある。少なくとも私はそう考えている。幼少期に私が米国に住んでいたときも、ティーンになって留学したときも、大人になって米国人の友人とお酒を交わしたときも、「私たち日本人には理解できない“感情”」を、たびたび感じてきた。それは外からは決して見えない、★皮膚の下に潜んでいるものだった。奴隷制という歴史と、多種多様な人たちがつくり上げた国だからこそ、オバマさんのような理想を掲げ、平和を追求し「I」ではなく、「we」を主語にするリーダーが必要だった。だが、トランプ大統領になってから、そうした米国の“建前”がどんどん崩れていってしまったのだ。その一方で米国には、★属性ではなく「個人」をきちんと評価し、「異物」を受け入れる土壌もある。アフリカ系米国人であっても、スポーツ選手、俳優、芸能人、ミュージシャン、政治家、実業家として活躍する人たちもいるし、スパースターとして米国のアイコンになっている人はたくさんいる。例えば野球の世界を見ればいかに米国が「個人」をきちんと認めるかが分かるはずだ。(中略)実際に米国で活躍してヒーローになって初めて評価した。そしてその★名声を逆輸入したのだ。そう。これこそが日本の問題であり、オコエ選手の経験が、問うていることではないだろうか。「ここから飛び降りて生まれ変わって、普通の日本人になれるかな、と考えていた。今となっては、この普通とはなんだろうといまだに考えている」と、オコエ選手が吐露したように、日本には★「普通」という、至極曖昧で、それでいてとんでもなく重い“まなざし”が社会のいたるところに刷り込まれている。日本という国が持つ「異物への厳しいまなざしの根深さ」と言い換えてもいい。(中略)おそらく同級生の中に「異物である私」を快く思わない生徒がいたのだと思う。日本に帰国してから漠然とした息苦しさを感じていたが、上履き事件でやっとその正体が理解できた。それは「普通が一番」という★暗黙のルールだった。「普通」とはみんなと一緒。見た目、キャラクター、能力、思考性などのありとあらゆる場面で、「普通」が求められてしまうのだ。米国では常に「自分MAX」になる教育を受けた。勉強好きな子は勉強し、駆けっこの速い子は陸上チームに入り、おませな女の子たちは口紅を塗り髪の毛をブリーチし、★誰もが「最高の自分」をめざしていた。(中略)フランスの哲学者、ジャン=ポール・サルトルは、社会のまなざしをregardと名づけ、以下のように論じている。「人間は自分で選択したわけでもないのに、気づいたときには既に、常に状況に拘束されている。他人から何ものかとして見られることは、私を1つの存在として凝固させ、他者のまなざしは、私を対自から即自存在に変じさせる。★地獄とは他人である」(『存在と無』より抜粋して要約)と。私たちの言動の多くは社会との関わりの中で生まれ、他者のまなざしという、えたいのしれない空気に操られ、他者に支配されている。地獄とは他人。まさに「普通の日本人」というまなざしに、オコエ選手は心を無くしたのだろう。(中略)そして、「普通」という意味不明のまなざしに、悩み、苦しみ、生きづらさを感じている人たちがいたるところに存在することすら、★「普通」の人たちには理解できない。障害のある人、LGBT、外国人、結婚しない女性、子どもがいない夫婦、イクメン、などなど、普通の日本人というマジョリティーからはみ出るマイノリティーは、異物と判断され、「普通」に同化するか、排除されるか、はたまた屈辱的な扱いに耐えるかという、究極の選択を迫られる。オコエ選手と同じように、心が無くなる経験をする日本人もたくさんいる。「今後、自分の子どもができて同じ経験をさせないようにするはどうすればいいのだろう。」オコエ選手のこの言葉に秘められた闇は深い。実に深い。無意識に普通を求める社会。★普通って、何なんだよ。

 

・・・(中略)が多くてわかりにくいので、ぜひ原文をお読みいただきたい。「普通って何なんだろう」と考えている普通の自分がいる?

 

 

《NEWS》2019.7.25日本経済新聞より

「カルピス」博物館、群馬・館林に開館100周年記念事業

https://www.asahiinryo.co.jp/company/newsrelease/2019/pick_0723.html

374-0072群馬県館林市大新田町166/アサヒ飲料群馬工場見学0276-74-8593

https://www.asahiinryo.co.jp/entertainment/factory/gunma/tour.html

アサヒ飲料は「カルピス」ブランドの100周年を記念して、群馬県館林市の工場敷地内にカルピスの見学施設を開設する。名称は「『カルピス』みらいのミュージアム」で、10月1日に一般公開を始める。★カルピスの歴史をたどる映像を見たり、試飲をしたりできる。ミュージアムは東武伊勢崎線の館林駅から車で10分ほどの場所にある。見学施設は2階建てで、延べ床面積は約1260平方メートル。★予約が必要で、ガイドの案内がつく。工場見学とセットで所要時間は約90分。入場料は無料。入り口のホールにはカルピスのボトルを題材にした巨大オブジェを設置し、ボールペンやハンカチなど同施設でしか手に入らないグッズも販売する。アニメーションでカルピスの成り立ちを知ることができるコーナーや、タンクを模した部屋でカルピスの香りを体験できる展示なども用意した。歴代のカルピスのパッケージ10点以上を展示するコーナーもあり、大人も懐かしい気持ちで楽しめるという。カルピスの工場は現在群馬県と岡山県にあり、群馬工場は1972年から操業している。アサヒ飲料は七夕期間にカルピス仕様に装飾をした屋形船を浅草で特別運航するなど、100周年記念のイベントを相次ぎ企画している。大人から子どもまで楽しめるミュージアムの開設でファン層をさらに広げる。

 

 

・・・カルピスを通して、いろんなことを学ぶことができ、まさしく「カルピス博物館」。