・・・結構スイーツ好きで、「ババロア」が食べたかったのですが、なかなか巡り合えないのでとうとうしびれを切らして、人生初の自作をすることにしました。1回目は柔らかすぎ、2回目は固すぎでしたが味はまずまず(ミカンを入れました)。後日、3度目の正直にチャレンジする予定です。ということで、今回はスイーツに関する情報です。
《つくは祢屋》
466-0027愛知県名古屋市昭和区阿由知通2-5-4/052-741-1481
「そぶくめ」、上りういろ、黒ういろ、はJR名古屋★高島屋B1銘菓百選にて取り扱っています。
https://www.jr-takashimaya.co.jp/
https://www.jr-takashimaya.co.jp/topics/meika.html
そぶくめ[登録商標]★宮簀媛命(曽福女)に因む、わらび菓「そぶくめ」は、新鮮な食感を大切に密封してあります、添付のきなこをまぶしてお召し上がりください。1620円(税込)賞味期限30日/特定原材料等:大豆。地方発送承ります、ご注文は電話かFAXでお願いします。発送及びお支払い方法ヤマトコレクト便(代金引換)送料+代引き手数料はお客様負担になります。FAX (052) 741-6481
・・・トコロテンも好きですが、小さい頃より「わらび餅」が大好きなスイーツ?です。口に入れてクニュクニュする食感がたまらないのです。「そぶくめ」を発見した時、正直興奮しました。このパッケージ(巻き取り鍵)で「わらび餅」なんて、ぞくぞくしませんか?未体験なので、近々なんとかしたいと作戦を練っています。さて、宮簀媛命(曽福女)は、羽曳野市と深~い関係のある人なんです。
《布曝女町(そぶくめまち)》地図では布瀑女町/「尾張名所図会を巡るより
https://nitibotu.exblog.jp/d2009-02-16/
市場町の東にある。八剣宮からは南東になる。曾福女(そぶくめ)ともいわれる。日本武尊が東征の途中にこの場所を訪れた時、川辺で布をさらした美しい女性が一人いた。その女性の名は宮簀媛(みやずひめ)である。(この時、宮簀媛は耳が聞こえない振りをしたと言われている。)その後、日本武尊と宮簀媛は結ばれた。このような話から「布曝女」という名が付いたと言う事である。また、『名古屋市史』では、布曝女の由来について宮簀媛が裁縫をした場所、また、猿猴庵の随筆によれば布をさらした場所であったなどの説も紹介している。
★日本武尊から宝剣を受ける宮簀媛命『尾張名所図会』前編三巻
https://websv.aichi-pref-library.jp/wahon/detail/94.html
『尾張国熱田太神宮縁起』によると、宮簀媛は父が乎止与命(おとよのみこと)、母が真敷刀婢命(ましきとべのみこと)で、建稲種命(たけいなだねのみこと)の妹である。
https://kotenseki.nijl.ac.jp/biblio/100064551
また、『日本書紀』では宮簀媛だが、『古事記』では美夜受比売(みやずひめ)とあり、尾張国造(おわりのくにのみやつこ)の祖となっている。日本武尊と宮簀媛の出会いとその関係については『日本書紀』・『古事記』・『尾張国熱田太神宮縁起』などに記述があるが、内容はそれぞれで若干違う。それらをまとめて簡単に記すと次のようになる。
景行(けいこう)天皇の時代に東国の平定を命じられた日本武尊は、まず伊勢神宮に詣でた。そこで、姨(おば)の倭姫命(やまとひめのみこと)から天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)と燧袋(ひうちぶくろ)を授かった。そして、尾張の氷上(ひかみ)の里(現在の名古屋市緑区大高)に至り、尾張氏の宮簀媛と出会い、東征を終えた後、結婚することを約束して、東国に向かった。その後、日本武尊は駿河国で敵に囲まれて、野火により焼き殺されそうになったが、倭姫命から授かった剣で草を薙(な)ぎはらい、燧袋の口を開けると、火は敵に返り、敵を焼き亡ぼした。その後、天叢雲剣は名を改め草薙剣(くさなぎのつるぎ)と呼ばれた。そして、常陸・陸奥などの敵を征伐し、信濃を通って尾張の宮簀媛のところへと戻った。さらに伊吹山の悪神を退治するために向かったが、草薙剣を宮簀媛に託したまま向かったので、伊吹山の神にたたられ伊勢の能褒野(のぼの)で亡くなった。『古事記』には次のような日本武尊の最期の歌がある。
嬢(おとめ)の 床の辺(べ)に 我が置きし 剣(つるぎ)の大刀(たち) その大刀はや
宮簀媛と草薙剣への想いを詠んだ歌であろう。その後、亡くなった日本武尊は白鳥となって、飛んでいき留まったところに御陵を造った、それを★白鳥御陵という。
日本武尊が亡くなった後の宮簀媛については、『尾張国熱田太神宮縁起』に次のような記述がある。
宮簀媛は日本武尊との約束を守り、草薙剣をずっと大切に守ってきたが、自身の衰えを感じるようになった。そこで、一族で話し合った結果、熱田の地に草薙剣を祀ることとした。そこが熱田の社である。
この時、「熱田」の名の由来を『尾張国熱田太神宮縁起』は次のように記し、興味深い。
楓樹(ふうじゅ)一株あり。自然に炎焼(えんしょう)し水田の中に倒れて光焔(こうえん)銷(き)えず。水田尚ほ熱し。/これは熱田の語源の1つとされている。
《参考》「白鳥御陵」Wikiより
ヤマトタケルが伊勢国能褒野で薨じ、同地に「陵」を造って葬ったことは、『古事記』『日本書紀』ともに一致するところであるが、さらに白鳥(『古事記』では「八尋白智鳥」)と化して西方に飛び、降り留まった地にあらたに「陵」を起こしたという記事は両書で異同がある。『古事記』においては能褒野から白鳥となって飛び、河内国志幾に留まり、そこに「陵」を起こし、これを「白鳥陵」と呼んだが、のちここからまたも白鳥となって飛び、ついに昇天したという。つまり『古事記』の白鳥陵は河内国志幾に営んだ「陵」である。『日本書紀』巻第七によれば白鳥となって能褒野陵から出て、まず大和国琴弾原(奈良県御所市冨田)にとどまり、そこに「陵」を造ったところ、さらに白鳥となって河内国旧市邑にいきとどまったので、そこにも「陵」を造ったが、また白鳥となって天に上ったという。『日本書紀』では最初の★能褒野陵、★大和琴弾原の「陵」、★河内国旧市邑の「陵」と三陵を時人は「白鳥陵」とよんだという。皇子の墓を「陵」というのは、『古事記』、『日本書紀』においてヤマトタケルの能褒野陵2つの白鳥陵のみで、例外的である。のちにヤマトタケルの墓を「能褒野墓」と定め、また『日本書紀』の所伝をも尊重し、「白鳥陵」2つを能褒野墓に附属するものとした。
https://www.city.gose.nara.jp/kankou/0000001454.html
日本書紀には、日本武尊(やまとたけるのみこと)は「東征(北関東から東北地方での戦い)からの帰り、能褒野(のぼの)(現在の三重県亀山市)で病に倒れ、その地に葬られた。日本武尊の魂は、白鳥となって大和へ向かい、大和琴弾原(ことひきのはら)(御所市冨田)にいったん舞い降りた後、河内の旧市村 (ふるいちむら)(大阪府羽曳野市)に降り立ち、その後、天に昇られた」と記述されています。現在、それぞれの地には御陵があり、これらは白鳥三陵と呼ばれています。
https://www.city.gose.nara.jp/0000000428.html
日本書紀に記される「日本武尊白鳥伝説」ゆかりの三市(三重県亀山市・大阪府羽曳野市・奈良県御所市)により、平成10年11月、夢育むまちづくりのための都市間交流の合意書を取り交わしました。
・・・このようなつながりもあって、ぜひとも「蚊遣り豚」に「巻き取り鍵」を取り付けたいと強く思っています。