・・・竹の「茶杓」「花入れ」と進んできましたが、「茶筅」がなければ抹茶を点てられません。
《茶筅・茶筌(ちゃせん)》
茶道において抹茶を点てるのに使用する茶道具のひとつで、湯を加えた抹茶を茶碗の中で混ぜるための道具。竹製のものがほとんどだが流派により使用する竹の種類や色が異なる。抹茶といえばこんもりと泡を立てた姿が有名であるために、泡だて器の一種と考えられることも多いが、泡を立てるための道具ではない。現代ではアウトドア用の金属製・プラスチック製のものもある。茶筅の字はもともと鍋などの焦げ付きを落とす道具、筅(ささら)から由来している。 芸術まで高められた★高山(奈良県生駒市高山町)産の茶筅では「筌」の字を使うことが通例である。
《参考》「生駒市高山竹林園」
630-0101奈良県生駒市高山町3440番地/0743-79-3344
新型コロナウイルスの感染予防のため「竹林園」は4月11日から休館しています。
★茶筌の歴史/表千家不審庵より
https://www.omotesenke.jp/chanoyu/7_1_38b.html
大和高山の里で、代々「壹岐(いき)」の名を継ぐ池田家は、古くから表千家流煤竹(すすだけ)の茶せんを作ってまいりました。茶せん作りの里として知られる大和高山(現・奈良県生駒市高山町)では、全国で使われる茶せんの九割が作られております。その歴史は古く約五百年余り前、室町時代に遡りますが、大和鷹山の城主鷹山大膳介)頼栄の二男である鷹山民部丞入道★宗砌がおり、文雅を好み連歌師として名を馳せ、南都(奈良)に住まい、南都称名寺の僧★珠光との親交がありました。それが縁で、茶の葉を粉末にして飲むことを考えた珠光に、茶道にふさわしく茶をまぜる道具の制作を依頼され作りあげたのが茶筌なのです。珠光が京都へ移り時の帝、後土御門天皇が茶の湯の席へ出かけられたとき、宗砌が献上した自作の茶筌を鑑賞されました。そして、その繊細な作りを見てお褒めの言葉を頂くと同時に、その茶筌に高穂(たかほ)という名前をつけてくださいました。これに宗砌は感激して茶筌つくりに力を入れ、その製法を鷹山家の秘伝としました。こうして天皇が名前をつけてくださったことにより、高穂茶筌が有名になり、ここ鷹山村の名前や家名の鷹山を廃止し高穂にちなんで高山と改めました。高山城がなくなった後も秘伝の茶筌制作、販売を許された家臣16名が★秘伝としての言いつけを固く守り一子相伝の伎として、生まれて性を名乗る男子以外には、茶筌の制作を許すことはありませんでした。
《西山浄土宗日輪山「称名寺」》
630-8254奈良市菖蒲池町7/0742-23-4438
http://www.eonet.ne.jp/~syomyoji/index.html
今年の「珠光忌」は、中止させていただきます。(住職が体調不良の為で、★コロナウィルスが原因ではありません)先に本年実施を告知しておりましたのに、このような事になり大変恐縮いたしておりますが諸事情をご推察の上、ご理解いただきますように。お願い申し上げます諸般の事情により普段の見学・拝観は、平成26年1月1日よりお断りさせていただいております。誠に勝手を申しますがお許しいただきますように。
(毎年5月15日の御忌日に珠光が設けた茶室「 獨盧庵」が一般公開されています。)
【村田珠光】(1422、1423~1502)
室町時代中期の茶人、僧。「わび茶」の創始者と目される人物。なお僧侶であり本来ならば苗字は持たないが、慣習的に「村田珠光」という呼び方が広まっている。近年では「しゅこう」と濁らないとする説もある。珠光が茶の湯の弟子である古市澄胤に宛てて書いたとされる『古市播磨法師宛一紙』(通称「心の師の文」)は、珠光の茶の湯に対する考えが記されていることで有名である。
https://www.omotesenke.jp/list2/list2-2/list2-2-1/
「心の文」は茶の湯が人間の成長をもたらす心の道であるということを示唆しています。そのなかには宗教的な、特に禅宗の影響があると思われますが、おそらく一休宗純との親交があり、一休から「圜悟の墨跡」を受けたという伝承もまた珠光の禅的背景を語るものといえます。珠光の「心の文」には、「和漢のさかいをまぎらかす」という言葉があって、それまでの唐物中心の茶の湯の道具に対して、和物(国産品)をどのように唐物と調和させて新しい美をつくるかというところに珠光の関心がありました。また珠光は「月も雲間のなきは嫌にて候」という文章を残していて、満月の皓々(こうこう)と輝く月よりも★雲の間に見え隠れする月の方が美しいと述べています。こうした不足の美を楽しむ心に珠光の創造したわび茶の主張がありました。
※茶道入門より
http://verdure.tyanoyu.net/cyasen.html
その形は流儀や用途によってさまざまですが、表千家では煤竹、裏千家はじめほとんどの流派では白竹(淡竹)、武者小路千家では紫竹(黒竹)が使われます。穂先の形状も流儀によりそれぞれ異なりますが、武者小路千家の茶筅は穂先が真直ぐになっており、外穂の先端を内に曲げる形状のものは、裏千家流で先端を曲げたことが始まりらしく、利休以降に出現したとおもわれ、官休庵流(武者小路千家)は★利休形に最も近い形をしています。ささら状で軟らかい「数穂」が薄茶用で、数穂の半数くらいの穂の数で堅くしっかりした穂先の「荒穂」が濃茶用、他に天目茶碗に使う「天目茶筅」、筒茶碗に使う「長茶筅」などがあります。茶筅の語は、北宋徽宗皇帝の『大観茶論』(1107)に、「筅、茶筅以筋竹老者為之。身欲厚重,筅欲疏勁、本欲壯而未必眇、當如劍瘠之状。蓋身厚重、則操之有力而易於運用。筅疎勁如劍瘠、則撃拂雖過而浮沫不生。」(筅、茶筅は、筋竹の老いたもので作る。身は厚くて重く、筅は疏くて勁いのがよい。筅の本は壮く、末は眇くなければならない。そして剣脊状にすべきである。実が厚く重いと、操るときに力が入って運用いやすく、筅が疎くて勁く剣脊のようであれば、撃払がすぎても浮沫が生じないからである。)とあるのが初出とされますが、★中国では15世紀明代に抹茶の衰退とともに茶筅も消滅してしまいます。
http://www.o-cha.net/teacha/rekishi/soudai.html
南宋の『茶具図賛』(1269)に「竺副帥」として載る茶筅の絵は、長くて外穂・内穂の別がないササラ状で、愛媛県のボテ茶、島根県のボテボテ茶、富山県のバタバタ茶、沖縄県のブクブク茶、鹿児島県のフィ茶など各地に残る茶漬けの一種「振り茶(桶茶)」で使用されるのものに相似しています。
・・・ボテボテ、バタバタ、ブクブクなど面白いのがありますねえ。





