・・・「windowとwind」そして「窓と風」、
《窓》象形文字「囱」が元字、心をつけ「悤」(突き抜けて機敏な)となり、音「ソウ」と突き抜けたと言う意味をとり会意形声文字窻となる。窓はその略字。
《風》形声。「虫」(蛇、竜) + 音符「凡」を合わせた字で、「かぜ」を起こすと見なされた蛇が原義(「虹」も同様で意符が「虫」)。「凡」は「盤」の原字で、盥盤の側面の象形。「虫」に代えて「鳥」を用いた文字が「鳳」であり、両方とも「かぜ」の使いとされた。古くは頭子音 pl- をもち、l の残った語が嵐である。
・・・古来、日本の家屋において「窓」という概念はなかったのでは?という疑問がわいてきました。
●Wikiより
日本では竪穴式住居の時代には天井部に採光用と排煙用の開口部が見られたが、これには庇が設けられ、雨が吹き込まないようになっていた。その後日本家屋の技術が発達して障子のような紙を使った採光用の窓が長らく利用されていたと考えられる。この障子は開け放つことで換気の用も足し、また梅雨など湿度が高い季節でも建物の広い開口部により、晴れ間には開放して★換気しやすい様式が発達したと考えられる。
《日本の暮らしの移り変わりと窓の歴史》窓リフォームマイスター「エコ豆知識」より
現代では、ガラスの入った窓がある家が当たり前ですが、もともとの日本の住宅にはガラスの入った窓がなく、★すだれや御簾(みす、ぎょれん)が、家の内部と外部を仕切っていました。そして、平安時代以降には、★蔀(しとみ)と言われる格子を取り付けた板戸が窓のような役割をしていました。鎌倉時代に始まり、安土桃山時代に千利休によって完成したと言われる★茶道の歩みに伴い、窓が発展しました。茶室には採光と通風に加えて、壁面の意匠として、また景観を採り入れる為に★下地窓、連子窓など様々な窓が作られました。江戸時代初期には、安土桃山時代の茶室がさらに進化し、現在に至るまでの日本の木造住宅の基本となった数寄屋造りが生まれ、江戸時代以降は住宅として広まりました。ここまでの日本の住宅は、気候の良い時期には自然を愛で、夏や冬の時期には、その厳しい寒さや暑さを生活の一環として受け止めるという四季の移り変わりに順応する考え方、★家の中と外を明確に分けない暮らし方に沿って創られてきました。日本の窓は、西洋の窓のように家を囲む壁に穴をあけるというものではなく、柱や梁の間にあるすべて開け放つことのできる★間仕切りのようなものだったのです。
明治時代から大正時代にかけては、急速に国家の近代化が進み、西洋の建築方式が取り入れられるようになりました。耐震性の高いコンクリートの建物が作られるようになったのもこの時代です。しかし、明治時代の初めには国内で窓用のガラスを作る技術がありませんでした。その為、富裕な人々の建てる建築物だけの窓だけに輸入ガラスが使われていました。この時代に作られたホテルや教会の美しいガラス窓の中には、今も見ることができる窓が多数あります。明治時代の後期から昭和にかけて、国内で窓ガラスが作られるようになった為に、庶民の家でも障子がガラスに変わっていきました。この当時、昭和5年にはアルミサッシが登場しましたが、ほとんどは木製のサッシと板ガラスの組み合わせの窓が使われていました。そして昭和30年を過ぎてから、アルミサッシが普及しました。樹脂窓がドイツで開発されてから50年、日本で生産されるようになってから30年以上経つ今でも、アルミサッシは多くの住宅に使われています。
《古典建築のなかの窓》文:市川紘司 (東京藝術大学美術学部建築科教育研究助手)
https://madoken.jp/research/windows-in-chinese-architecture/458/
日本建築における開口部は★「ま」。西洋建築における開口部は「あな」。それでは中国建築における開口部は? 古典から現在まで、日本人が知っているようで知らない中国建築における窓の文化についての論考。
《建築の歴史をのぞく「窓」というタイムマシーン》文:脇坂圭一(静岡理工科大学教授)
http://in-sist.jp/2017/04/27/entries/
夜しづかなれば 窓の月に故人を偲び 猿の声に袖をうるほす
今は亡き人を想い涙を流す孤独さが、窓からこぼれる月明かりによっていっそう際立ち、静かな夜に響く猿の声がさらにもの悲しさを深めている。ここに窓がなければ、月明かりもなければ猿の声もなく、どれだけ味気ないだろう。この句においての窓は、手の届かぬ世界と現世を“仕切る”役割を兼ねているとも読める。万葉集、枕草子、源氏物語、徒然草にも、このように当時の人々の感情が匂い立ってくる「メタファー(隠喩)としての窓」が数多く登場し、ときに恋心を、ときに緊張感を伝える効果的な手法として描かれているという。それらは単純な建築学からのアプローチだけでは決して見えてこなかった、機能性を超えた人と窓とのプリミティブ(原始的)な関係性について考えさせられる。ちなみにこれらに古事記を加えた6編に登場する窓表現の総数は、544回である。
研究では独自の進化を遂げた日本の窓の一端を垣間見ることができた。その用途や形状は、近代的なマンションの画一的な窓とは異なり、実に★バラエティ豊かだ。簾(すだれ)、御簾(みす)、格子、蔀(しとみ)、半蔀(はじとみ)、障子、遣戸(やりど)、妻戸(つまど)、戸……。“壁に穴を穿(うが)つ”西欧の窓は「隙間をつくる」のが目的だが、柱と柱の“間”がすべて開口部となる日本の木造建築では、★「隙間を埋める」のが窓、あるいは“戸”の目的だった。古くは窓が★「間戸」と表現されたこともあるゆえんだ。風になびく簾。採光と遮光の中間的役割を果たす障子。それらを縁どる細い柱、薄い壁。古典文学に描かれた日本建築のディティールは、近年世界が注目する★「ライト・アーキテクチャー(軽い建築)」につながる意匠が、日本では1,000年以上前からそこかしこにあったのだと教えてくれる。iPhoneやエコカーのように、“デザインの要素を減らすことで美しさを表出させる”シンプルで現代的な美意識が、わたしたち日本人のDNAには確かに擦り込まれているのだ。そうでなければ、簡素な造りの古寺や古い木造家屋に、あれほど郷愁を感じたりはしないだろう。そこから日本の窓と建築はさらなる変革と躍進を経て、やがてはフランク・ロイド・ライトやチャールズ・イームズなど世界の巨匠たちに影響を与える。いずれにせよ窓が、建築と歴史の果てなきロマンへとつながるタイムトラベルの「入り口」であることは、揺るぎのない事実である。
《窓のお話》古都奈良の寺院や文化財の紹介/文:中西忠より
https://www.eonet.ne.jp/~kotonara/madonohanasi.htm
伝来した当時の仏教寺院の「窓」はすべて四角い「連子窓(れんじまど)でした。「窓」の効用といえば「採光」、「換気」などでありますが、我々が「換気」といえば扉がありますが、「連子窓」には扉はありません。現在の「窓」のイメージとは違います。
《一般財団法人「窓研究所」》
YKK株式会社(社長:大谷裕明)のグループ会社であるYKK AP株式会社(社長:堀秀充)は、将来にわたって豊かな窓および建築文化の発展に寄与するため、2018年7月24日付で『一般財団法人 窓研究所』を設立しました。YKK AP株式会社は「窓は文明であり、文化である」の思想のもと、2007年から窓を学問として多角的に探究する活動「窓学」を実施し、建築、文化、芸術など、様々な視点から“窓”にアプローチしてきました。その遂行部門として2013年4月に設置した「窓研究所」を、このたび一般財団法人とすることといたしました。YKK株式会社およびYKK AP株式会社では、従来から事業活動を通じた社会貢献を積極的に進めております。今回の財団法人の設立はその一環として、これまで事業を通じて行ってきた窓学および建築文化に関する研究や研究助成などを公益的な観点から行うことにより、社会と文化の豊かな発展に貢献することを目的としたものです。当財団は、公益財団法人化をめざし、活動を行ってまいります。
★「窓から見える日本」
https://www.gov-online.go.jp/eng/publicity/book/hlj/html/201909/201909_08_jp.html
2020年春から、ブラジル、アメリカ、イギリスの「Japan House」で、窓を通して見える日本の美しさをテーマにした展覧会が開催される。「世界を豊かにする日本」をテーマに掲げ、世界の人々に「日本」に出会ってもらう場として 2017年に始動した 「Japan House」では、これまで、サンパウロ、ロサンゼルス、ロンドンの 3都市の事業拠点を巡回する様々な企画展を開催してきた。
https://www.japanhouselondon.uk/
第3期目に選出されたのは、一般財団法人窓研究所による「窓から見える日本(仮)」展である。「窓」の文明としての普遍性、文化としての多様性を考察しつつ、窓と建築を通して見えてくる日本の美しさを伝えようとする企画で、2020年の春からおよそ1年をかけての巡回展となる。所長の山本絹子さんは「窓研究所では、窓を建築の一部としてだけではなく、人間の生活や身体的行動に密接に関係しているものと捉え、様々な分野から“窓”を読み解くアプローチをしてきました。Japan Houseの巡回展は、日本発祥★”窓学”を紹介する良い機会だと思っています」と語る。
https://www.japanhouselondon.uk/whats-on/2020/windowology-new-architectural-views-from-japan/
Windowology: New Architectural Views from Japan presents a multidisciplinary exhibition combining the architecture of windows, photography, manga, craft and technology.
展示の総合ディレクションは、2007年の「窓学」の開設当時から監修を行ってきた、建築批評家の五十嵐太郎さんが務める。「10数年に及ぶ「窓学」の活動には、これまで国内外の大学を始めとする研究機関や有識者、アーティストに参加していただき蓄積してきた成果があります。今回はその中から、日本建築における窓の有りようを伝えられるものを選び、展示のための準備を進めています」と五十嵐さんは話す。柱と梁で建造する日本建築は、枠組みの間を全て開口部にすることが可能で、石やれんがを積んだ壁で建造する建築とは、★根本的な概念が異なる窓の構造を持つ。伝統的な日本家屋で“雨戸”や“襖”といった建具を開け放つと建物の表情が一変するのである。今回の展示では、香川県高松市、栗林公園の★「掬月亭(きくげつてい)」を例に、こうした様子や、日常的に取り扱う建具の機能美を映像で見せる。
《掬月亭》「ちんけでさびれた旅」より
http://www7b.biglobe.ne.jp/~chinke/kikugetsutei.html
ミシュラングリーンガイドで三ツ星も獲得した特別名勝栗林公園は、敷地面積75ha(東京ドーム16個分)もの広さを誇る池泉回遊式の大名庭園で、歴代の高松藩主の下屋敷だった場所です。江戸初期の寛永年間に造営が始まり、およそ110年もの月日をかけて造園が進められ、完成したのは江戸中期の1745年(延享2年)のこと。その昔は園内に複数の茶屋が点在していたようですが、現在残るのはこの掬月亭と日暮亭のみ。この掬月亭は藩主が舟遊びや観月などに使用していた茶屋で、南湖に張り出す様に建てられています。桂離宮の造営も同時期に行われており、同様に池の畔に雁行型に並ぶ姿は共通のもので、京の公家文化が波及しているのかもしれません。5つの建物が雁行する平面構成ですが、当初は7つの建物が連結されていたそうで、かつては北斗七星になぞらえて「星斗館」と呼ばれていたようです。建築年代や設計者は不明ですが、延享年間の絵図には描かれているので、江戸中期までには建てられていたのでしょう。外観は屋根が寄棟造りの柿葺で、床面積は119.35㎡。各棟には縁側が取り巻いており、一番南西側の茶室以外は明障子が嵌められている為に四方正面の観があり、実際に中へ入るのも縁側からそのまま上がります。どの方向から見ても重心の低い安定感がある眺めで、優美で軽快な数寄屋建築の一つ。
また、こうした家屋で、一般の民衆の生活がどのように営まれてきたのかを、国民的な人気漫画★「サザエさん」の中に探る試みも紹介される。その他、日本伝統の折り畳み式の立体図面である「起し絵図」で作る実寸大の茶室の模型が展示される。「茶室は、日本建築の中でかなり特異な建物です。例えば★“擁翠亭(ようすいてい)”は、茶室という狭小な建物に13もの窓が設けられています。このような建築は世界に類例がありません」と五十嵐さんは言う。思い思いの位置にそれぞれ意匠を凝らした窓が巡らされた茶室には、時間の経過と共に移りゆく“外”の景色を“内”に取り入れる、日本人の自然に対する独特の感性が感じられる。また、「窓の仕事学」と題する企画では、織物や染め物、焼き物、塩や茶といった食品の加工など、それぞれのものづくりに特化した窓の役割を見るとともに、日本各地の気候風土に根差した特産品や職人の手仕事、その歴史も併せて紹介される。「会期中は、来場者が参加できるトークイベントなども開催したいと思っています。日常的で身近な窓をきっかけに、豊かな文化交流が生まれることを期待しています」と山本さんは語る。
《擁翠亭》
https://www.arkray.co.jp/yousuien/index.html
かつて京都の擁翠園内にあり、鷹峯の太閤山荘に移築された、江戸時代前期の京の装剣金工(彫金)師後藤覚乗(勘兵衛光信)邸にあった13の窓(口)を持つ多窓茶室。別名「十三窓席」。擁翠亭の名は巨松があったことによる。現在は京都市の古田織部美術館で保存されている。
http://www.miyaobi.com/taikou-sansou/yousuitei.html
・・・「窓学」より以前、「間学」について大きな関心を抱いていました。
《あいだと間》文:野家啓一/2018第18回河合臨床哲学シンポジウムより
http://bunkyoken.kawai-juku.ac.jp/symposium/folder783/18.html
〈あいだ〉や〈間(ま)〉について語ることは難しい。それは、ときに不可能とすら見える。というのも、〈あいだ〉は在るようで無く、無いようで在る無限定の存在だからである。それは〈もの〉や〈ひと〉のように自存して在るものではない。だが逆に、〈あいだ〉がなければ、〈もの〉も〈ひと〉も支えを失い、在ることはできない。〈あいだ〉のない世界には、稠密に充満した無差別の拡がり (延長)が在るだけである。それは空間ですらない。〈もの〉や〈ひと〉を容れる余地 (space) をもたないからである。したがって、そこには上下左右の区別もない。無差別の連続体に切れ目を入れることによって初めて、〈あいだ〉は出現する。デデキントではないが、切断は連続体を二つの領域に分割する。それによって、〈もの〉と〈もの〉との間には「距離」が、〈ひと〉と〈ひと〉との 間には「関係」が生ずる。言い換えれば、切断は〈あいだ〉をもたらす世界の分節装置であり、〈もの〉や〈ひと〉の個体化の原理でもある。〈あいだ〉を通じて、世界は sens すなわち方向と意味とを身に帯び始める。 同様のことは時間についても言える。隙間のない充溢した 連続体に時間は流れない。前後の区別を可能にする切断を通じて、時は流れ始める。音と音とは〈あいだ〉に隔てられることによって逆に結びつき、妙なる楽曲となる。しかし、水平の〈あいだ〉を手に入れただけでは、音はまだ人の心に響かない。それはクロノスという「過去から未来に向かって飴のように延びた 時間」(小林秀雄「無常といふ事」)を生ずるだけである。音の 連なりがニーチェの言う「音楽の精霊」を宿すためには、カイロスの手助けを必要とする。それを好機(チャンス)やタイミング、 あるいは垂直の〈あいだ〉と言い換えてもよい。 同じ機制は自己の成立にも働く。昨日の自己と今日の自己の同一性を支えるのは、水平の〈あいだ〉である。だが、それだけでは足りない。自己が自己となるためには、自らを垂直の〈あいだ〉に投錨しなければならない。その垂直の〈あいだ〉を木村敏は「生命一般の根拠」と呼んだ。自他関係、すなわち私と汝 の差異と同一もまた、この根拠に与かっているのである。〈あいだ〉は物と物、人と人とを結びつけると同時に切り離す。ジンメルならば「人間は、事物を結合する存在であり、同時にまた、つねに分離しないではいられない存在だ」(「橋と扉」)と言うであろう。分離の象徴が「壁」であるとすれば、結合のそれは★「橋」である。「日本の橋」のなかで、保田与重郎は「ものをつな ぎかけわたすという心から、橋と愛情相聞の関係はずい分に久しいもののようである」と述べた。時空の端緒から橋上の出会いと別れ、そして間柄の倫理まで、〈あいだ〉は森羅万象を象り 司るアルケー、すなわち「無限定なるもの(ト・アペイロン)」にほかならない。
・・・むむむ。
『人間の学としての倫理学』著:和辻哲郎/岩波文庫1934
和辻哲郎は「人間」という語がそもそもは「よのなか」や「世間」を意味しており、そこから「人」の意味へと「誤解」によって転じた例を挙げ、しかしこの「誤解」は単に誤解と呼ばれるにはあまりに重大な意義を持っている。なぜならそれは数世紀にわたる日本人の歴史的生活において、無自覚的にではあるがしかも人間に対する直接の理解にもとづいて、社会的に起こった事件なのだからである。この歴史的な事実は、「世の中」を意味する「人間」という言葉が、単に「人」の意にも解せられ得るということを実証している。そうしてこのことは我々に対してきわめて深い示唆を与えるのである。もし「人」が人間関係から全然抽離して把捉し得られるものであるならば、Menschをdas Zwischenmenschlicheから峻別するのが正しいであろう。しかし人が人間関係においてのみ初めて人であり、従って人としてはすでにその全体性を、すなわち人間関係を表している、と見てよいならば、人間が人の意に解せられるのもまた正しいのである。だから我々は「よのなか」を意味する人間という言葉が人の意に転化するという歴史的全体において、人間が社会であるとともにまた個人であるということの直接の理解を見いだし得ると思う。
・・・日常的な生活における「間」を簡単に考えると、
《函館蔦屋書店》
https://www.hakodate-t.com/news/13361/
時間、空間、仲間。3年前、函館蔦屋書店はこの3つの「間」を何よりもたいせつにしたいという思いのもと、この街で産声をあげました。私たちにとってこの3年間はみなさまと一緒にこれらの「間」を探し、見つけ出し、ともにできるかを考える日々でした。12月5日、函館蔦屋書店は4年目を迎えます。もっとひととつながり、ひとを思う場所へ。私たちは「間」をつくることにこだわり続けます。
《人間(human being)》Wikiより
人のすむところ。世の中。世間。人が生きている人と人の関係の世界。またそうした人間社会の中で脆くはかないさまを概念的に表すことば。(社会的なありかた、人格を中心にとらえた)人。また、その全体。ひとがら。「人物」。★関係性を重視して「人‐間(あいだ)」という名称があてられたとされている。旧約聖書の『創世記』において、人間はすべて神にかたどってつくられた(「神の似姿」)、とされ、身分や性別に関係なく、人間であれば誰であっても神性を宿している、とされた。アリストテレスは著書『政治学』において、人間とは、自分自身の自然本性の誠意をめざして努力しつつ、ポリス的共同体(つまり《善く生きること》を目指す人々の共同体)をつくることで完成に至る、という(他の動物とは異なった)独特の自然本性を有する動物である、と説明した。キリスト教では、旧約聖書の創世記で示された「神の似姿」という考え方が継承され、平等が重んじられ、一番大切なのは(自分だけを特別視するような視点ではなく)「神の視点」だとされるようになった。「人間らしさ」について、説明する方法は幾通りもあるが、「言葉を使うこと」「道具を使うこと」などはしばしば挙げられている。
《子どもの「社会力」の獲得と親密圏としての コミュニティづくりの必要性に関する研究》
/文:田中利則(湘北短期大学保育学科)
日本の社会では「3つの間が無くなった」ことを問題視するようになっている。「3つの間(「さんま」とも言われる)とは、つまり★「遊ぶ時間」と「遊ぶ仲間」と「遊ぶ空間」がなくなったということである。1960年の初め頃から高度 経済成長期に入った我が国は都市部の再開発を急ピッチで進めることになった。また、その結果として、空き地は高層ビル街となり、川や海は埋め立てられ高速道路に変わった。さらに、山は切り崩され、その傾斜には整列された住宅が立ち並ぶといった光景が全国的に見られるようになり、子どもの居場所や遊び場所が急激に減少した。そして、1970年代になると、子どもの高校や大学への進学競争が激しくなり遊ぶ時間もなくなってしまう傾向が見られるようになった。その結果として、外で遊ぶ子どもが少なくなれば、当然、群れて遊ぶ光景も見られなくなり、遊び仲間も消えていった。これらを背景として、「社会力」や「コミュ ニケーション力」を身につけられていない子どもが示す行動が社会問題化し、それと同時に、瞳の輝きをなくした子どもに出会う機会が多くなっていることが教育や福祉の世界の話題となる機会が増していった。
・・・今、新型コロナの影響で「遊ぶ時間」があるのに、「遊ぶ仲間」と「遊ぶ空間」がなくなっている。★緊急事態宣言が出されるにあたり、日本の伝統文化も含めて再考(再興)すべき時がきているのではないかと思う。