・・・「不定形屏風」を制作中ですが、「屏風」についての豆知識を掲載します。
《屏風とは?》本間美術館より
http://www.homma-museum.or.jp/column/column-918/
屏風は、もともと風除けや視線をさえぎり、室内装飾として欠かせない調度品でした。その屏風に絵を描いたものを「屏風絵(びょうぶえ)」と呼びます。屏風の形式は、一般的には六枚の画面(「扇(せん)」と呼ぶ)をつなぎ合わせた「六曲屏風」が基本の形です。二枚のものを「二曲屏風」、四枚のものを「四曲屏風」、八枚のものを「八曲屏風」と呼びます。折り畳んで運べるため移動や保管にとても便利です。数え方は、屏風一点を「一隻(いっせき)」(半双(はんそう)とも)といい、二隻で一組のときは「一双(いっそう)」。六曲一双屏風の場合、向かって右側の屏風を「右隻(うせき)」、左側の屏風を「左隻(させき)」といいます。見かたとしては、右から左(右隻から左隻)へと見ていきます。屏風はジグザグに立てることにより立体的に見せる効果があり、遠近両方から楽しんで見ることもできます。基本的には屋内に飾るものなので、当時の照明(蝋燭など)の明かりのなかで見ることを想定してつくられています。
屏風の歴史は古く、記録上では7世紀後半の天武天皇の頃に、朝鮮半島の新羅からの贈り物として届けられたことが始まりとされています。また、現存する最古の遺物としては、奈良時代の聖武天皇の遺愛品で、正倉院宝物として知られている「鳥毛立女屏風(とりげりつじょのびょうぶ)」にまで遡ります。以後、平安・鎌倉時代を通じて貴族やその周辺の人々の生活空間において、風や視線をさえぎったり、室内装飾などの調度品として用いられて、とても身近なものでした。屏風に絵が描かれるようになったのも平安時代頃からとされ、鑑賞絵画としての需要が高まった桃山・江戸時代には、墨の濃淡を用いた山水画、華やかな色彩の花鳥画や風俗画などが描かれるようになります。明治時代以降は、西洋文化の流入によって生活様式が変化し、日常的には用いられることがほとんどなくなりました。そして、展覧会などの作品発表の場ができたことで絵画の一形態として描かれ続け、現在に至っています。
・・・制作中の屏風は、変形させたために立てることが難しく、後方に「突支棒(つっかいぼう)」の役割を担う「扇(せん)」を配置することにしました。全体として脇役的な位置にあるわけですが、結構形が気に入っています。
《帆(ほ)》
風により船の推進力を得るための器具である。ヨットなどの洋装帆船において英語「sail」からきたセイル(セール)またはこれが訛ったスルなどと呼称される。ほとんどの帆は、帆の張る方向で区別され、横帆と縦帆のいずれかに属する。ヨットなど小型帆船では縦帆のみで構成されるが、遠洋航海を目的とした大型の帆船では横帆を主として縦帆と組み合わされた帆装が施されている。
・・・様々なセイルがありますが、以下のセイルの形に似ています。
●ラグセイル(lug sail)
ラテンセイルの前部を切り落としたような形状の縦帆である。一見横帆のようでもあるが、形状は上端よりも下端の方が長い不等四辺形であり、マストがヤードに対して極端に前寄りに固定されている点が横帆と大きく異なり、機能的にはラテンセイルと同等である。
●ガフセイル(gaff sail)とは、ラテンセイルの前方部分を全て切り落とした形状の縦帆である。マスト上方に船尾方向に向かって「ガフ」と呼ばれる支柱を配し、帆の上端を固定している。ラグセイルと比較して機構が簡単で操作しやすいため、縦帆の代表格とされスループ、ケッチ、ヨールなどに一般的に広く使用されていたが、近年ではその座をバミューダ帆装に譲る形となっている。
●ジャンク帆(Junk rig)
ラグセイルの一種で主に中国など東洋で使用されたジャンク船に用いられた縦帆である。中国独自の発明と考えられており、ラテンセイルと並び最も古くからの縦帆と考えられている。ジャンク帆の大きな特徴は、帆をバテン(バッテン)と呼ばれる多数の竹などでできている骨組みで支えていることである。緊急時にもブラインドのように簡単に巻き上げることができ、風に関係なく帆の形を維持でき安定した揚力を発生させることができた。
・・・ということで、この「扇(せん)」は「風の予感Premonition of the wind」というタイトルで、★単独でも展示できるようにしたいと考え制作を進めています。
・・・さらに「風」についての話題です。
《風のような★忌野清志郎、RCブレーク前の素顔》
/文:おおくぼひさこ/日経エンタテインメント2014
ある日仲井戸が帰宅してきた時に後についてきたのが清志郎さんでした。もしかしたら、「ごめんください」と言ったかもしれませんが、“いつの間にか居た”というのが一番ぴったりきますね。別の友達を、「この人は僕の大事な親友だ」と紹介されたこともありましたが、清志郎さんについては特に何の説明もなく。それだけ距離の近い存在だったのかもしれません。風貌は、華奢(きゃしゃ)な体におかっぱヘアでアーミーっぽい服を着ていて、★「風のようなさらりとした少年」という印象でした。その後も招いた覚えはないのですが、夕方になるとコーラの大びんを抱えて「奥さん、すみませんね~」と言いながら、しばしば訪ねてきました。それで何となく一緒に夕飯を食べたりしましたが、2人は口角泡を飛ばすというタイプではなく、「最近君どうだね」「うん。まあまあだ」というような独特のテンポ感が心地よく、眺めているのが好きでした。復活ライブ(2008年)の後、打ち上げで清志郎さんと久しぶりに会った時も、早速仲井戸と2人でくすくす、ぼそぼそやってました。かつて質問されて、★「RCは少年探偵団みたいだ」と答えたことがあるんですが、時を経ても少年のまんまだなと思いました。神宮前の家では、夜も深まるとよく2人で曲作りをしていました。2階建てにそれぞれ6畳間だけで、1階は私の事務所、2階を寝室に充てていましたが、曲作りのたびに私の仕事場を彼らに貸し出していたわけです(笑)。その頃に作られた中に★『雨上がりの夜空に』もありました。
【おおくぼひさこ】写真家。東京生まれ。青山学院大学時代、写真研究部に籍を置く。卒業と同時に管洋志氏に師事。1985年写真事務所「プラステン」を設立。夫はRCサクセションのギタリスト、仲井戸麗市。RCのジャケットやツアー写真をはじめ、多くの音楽アーティストを撮影。
《参考》オフィス オーガスタ代表取締役・森川欣信
http://www.office-augusta.com/augusta_20th/index.html
http://www.office-augusta.com/cgifiles/public/president/gian/diary01.cgi
事務所からほされメンバーの脱退、交代が相次ぎ、その活動がアンダー・グラウンドになった頃のライヴ・ハウスでの惨めな清志郎のパフォーマンスを覚えている。でも、僕らには縁があった。大学卒業後、就職したレコード会社で清志郎に再会する。「どん底だよ」って笑ったシャイな笑顔を覚えてる。そして、その日誘われ、後日出向いた屋根裏での新生RCサクセションに僕はなぎ倒されるくらい衝撃を受けた。挫折と絶望の底から音楽シーンをひっくり返そうとしていた彼のSOULを目の当たりに目撃した。それから、だんだん清志郎とは親しくなった。彼のポンコツのサニーで初めて家まで送ってもらった夜、彼がボソっと言った「この車が『雨あがりの夜空』のモデルなんだ」
・・・この雨(コロナ)にやられてエンジンいかれちまった俺(おい)らのポンコツとうとうつぶれちまったどうしたんだ Hey Hey Baby バッテリーはビンビンだぜいつものようにキメてブッ飛ばそうぜそりゃあひどい乗り方した事もあっただけどそんな時にもおまえはシッカリどうしたんだ
《NEWS》2020.3.2日刊スポーツより
茂木氏、今こそ忌野清志郎さんの“不謹慎力”必要
脳科学者の茂木健一郎氏(57)が、新型コロナウイルスの感染拡大による自粛ムードの中、「社会には小学生の不謹慎力、そして忌野清志郎さんが必要だ」との考えをつづった。茂木氏は2日、ツイッターを更新。イベントの開催自粛や小中高校の臨時休校などの混乱が続いている状況に、「大切なことだと思うのは、やたらと自粛したり、控えてばっかりいないで、出かけるときはでかけて、うまく工夫して集まったりしていないと、経済が回らなくなってしまう」とし、「そこで思い出すのが小学生の(特に男の子の)『不謹慎力』だ」と書き出した。かつて人気を博したバラエティー番組「8時だョ!全員集合」での加藤茶によるコント「ちょっとだけよ」や、ダウン・タウン・ブギウギ・バンドの「スモーキン・ブギ」などが小学生たちの間で爆発的に流行していた当時のことを「教師たちがものすごく焦っていたのを今でも覚えている。(笑)。あれは不謹慎力全開であった」と振り返り、「これは男の子に限ったことじゃないかもしれないけど、小学生くらいは、大人たちの良識だとか優等生的な見識だとかそういうものに可愛く結果としてさからう『不謹慎力』があって、それが今のご時世で自粛や休校やらで解放されなくなってしまっているとすると子どもたちにも不幸だし、社会にもよくない」と持論を展開した。続けて、「不謹慎力を、大人になっても保っていて、クリエイティヴに展開していたのが、忌野清志郎さんだと思う。社会には小学生の不謹慎力、そして忌野清志郎さんが必要だ」と私見を述べ、「いろいろ良識が説かれて(良識は大切だけれども)自粛が広がる今だからこそ、敢えて、不謹慎力の大切さを今朝くらいはふりかえってみたい」とつづった。
《NEWS》2020.3.28朝日新聞より
坂本龍一に清志郎が警告していた/コロナ危機「その後」
新型コロナウイルスの感染が世界規模で広がるいま、ミュージシャンの坂本龍一さんは、2009年に亡くなった忌野清志郎さんの言葉を思い出している。自らが監督する公演も中止となったが、この非常事態を見透かしていたかのような盟友の言葉には教えられることが多いという。公演の自粛を要請した政府や、苦境にあえぐ音楽業界をどう見ているのかも聞いた。 「コロナウイルスが終息するまでは、たくさんの人間が集まらない方がいい。お客さんが何千人と来るし、オーケストラが100人超、合唱が120人ぐらい日本全国から交通機関を使って来ることになっていました。いくつもリスク要因があったので、中止にせざるをえなかった。1年間、子どもたちが練習して努力してきて、晴れの舞台を迎えるはずだったので残念ですが、健康を守る、感染を拡大させないということが何倍も大事だということはわかっています。人間は自然の一部だし、仕方がないですね」 「人間は、歴史の中で何度も何度もこういうことを経験して、ヨーロッパの人口の3分の1が亡くなるとか、大きなパンデミックも経験してきている。それでもなお、音楽はなくならないまま、ずっと人類の歴史の中に存在してきたんですよね」
《参考》『い・け・な・いルージュマジック』
資生堂に口紅のキャンペーンソングの相談をされたプロデューサーが忌野清志郎と坂本龍一のコラボレーションを提案したことで生まれたのが、1982年リリースの『い・け・な・いルージュマジック』である。資生堂指定のタイトルは『すてきなルージュマジック』だった。それを清志郎と教授が独断で『い・け・な・いルージュマジック』に。俺たちはこのタイトルでなければ出したくないと訴え、プロデューサーがクライアントを必死に説得、時代に残る大ヒットとなった。