・・・今回の奈良行きのきっかけとなった《法隆寺壁画》著:春山武松(朝日新聞社★1947)を紹介しておきましょう。
「法隆寺金堂の壁画」といえば、金堂外陣の土壁に描かれていた12面の壁画をさすことが多いが、これらの他に内陣小壁の飛天の壁画20面と、外陣小壁の山中羅漢図18面があった。このうち、外陣の壁画12面は1949年の金堂の火災で焼損し、小壁の羅漢図は跡形もなく粉砕されてしまった。内陣小壁★「飛天」の壁画20面のみは火災当時取り外されて別の場所に保管されていたため難をまぬがれた。法隆寺金堂壁画の芸術的価値は、日本において文化財の調査・保護が始まった明治時代初期(19世紀末)からすでに認識されていた。壁画の劣化・剥落は当時から始まっており、いかにして壁画の劣化を食い止め、後世に伝えていくかについては、すでに明治時代から検討が行われていた。1940年(昭和15)からは、当時の一流の画家たちを動員して壁画の模写事業が開始された。模写事業は第二次世界大戦をはさんで戦後も続けられたが、1949年(昭和24)、不審火によって金堂が炎上。壁画は焼け焦げてその芸術的価値は永遠に失われてしまった。この壁画焼損事件は、日本の文化財保護の歴史における象徴的な事件として記憶されている。この事件をきっかけに文化財保護法が制定された。また、壁画が焼損した1月26日は★文化財防火デーと定められ、日本各地の社寺等で消火訓練が行われている。現在、法隆寺金堂にある壁画は1967年から1968年(昭和42~43)にかけて、当時の著名画家たちによって模写されたものである(前述の1940年から開始された模写とは別物)。焼け焦げたオリジナルの壁画は法隆寺内の大宝蔵殿の裏手の収蔵庫に、焼け焦げた柱などと共に保管されている。収蔵庫は長年非公開となっているが、耐震性に問題がないことが判明したことから、法隆寺では焼損壁画を将来公開する方向であり、★2021年を目途に公開の時期と方法が検討されている。
★1884年に画工「桜井香雲」が開始した現存する最古の本格的な現状模写
《ウィリアム・アンダーソン・コレクション再考》文:彬子女王/第9回国際日本学シンポジウム報告より
桜井香雲(1840~95?)は、 復古大和絵系の画家田中友美の門人で、画塾を出た後、按摩を業としながら全国を遊歴していたが、友美の推薦により、1884(明治17)年、帝室博物館に保存するための法隆寺金堂壁画の模写に携わったことが知られている。東京国立博物館所蔵の模写がその際の作品である。香雲が模写に携わっていたことを当時の英国人が知っていたとは考えにくく、このコメントが古筆によるものであることは間違いないと思われる。大英博物館蔵の模写はアンダーソンが駐日英国公使アーネスト・サトウErnest Satow(1843~1929)から譲り受けたものである。サトウの日記にはサトウとアンダーソンが1879年12月8日共に法隆寺を訪れたとの記述がある。この訪問の際、二人は曼荼羅等の伝来の御物を見ているが、壁画に関する記述は日記上には見受けられない。しかし、1884年の『東洋絵画叢誌』に手がかりとなる記述がある。法隆寺の壁画に関する記述の中で、「大和国法隆寺金堂なる壁面の仏画は僧曇徴筆にして(中略)先年英国人[サトウ] 氏が京都に遊びし時此畫を一見し、万国無二の物なりとて痛く賞賛され、西京の画家★桜井香雲氏(今大阪府博物館御雇)に写方を嘱托せし所、氏は種々の工夫を凝らし細大残らず写取りて之を送られ、其後更に此畫を写して博物局へ献じ御備品となりしは、今度其筋より此壁面の畫大三ヶ所小八ヶ所都合十一ヶ所を写し取るべき旨を大阪府に命ぜられしかば(後略)」との記載がある。つまり、1879年の訪問時かどうかは定かではないが、壁画に感銘を受けたサトウ は香雲に模写を依頼し大英博物館所蔵の模写が制作され、以後香雲はもう一度壁画を写して東京国立博物館所蔵の模写が制作されたというのである。よく知られている1884年の香雲の模写作業の端緒となったのが英国人のサトウの発願であったというのは、大変興味深い事実と言えるのではないだろうか。
★大正~昭和期に行われた日本画家「鈴木空如」による模写
《参考》空如の偉業「金堂壁画模写」鈴木空如資料調査研究事業/秋田県大仙市
http://www.city.daisen.akita.jp/docs/2013102200269/
法隆寺金堂は、昭和24年(1949)1月26日の火災で、解体修復のため取り外されていた内陣小壁の飛天を除き、すべての壁画が焼損しました。皮肉なことに、空如の名が広く世に知れたきっかけは、金堂壁画の焼失した同年6月に、東京芝大門の協和銀行本店で「空如遺作法隆寺金堂壁画模本展」が開かれたことによります。空如の金堂壁画模写は、明治40年(1907)から昭和7年(1932)まで26年間に3度原寸大で模写を行い、3組の模写本が存在します。空如が法隆寺金堂壁画の模写を志すきっかけとなったのは、明治初期に活躍した画工「桜井香雲」の金堂壁画模写本を見る機会があり、香雲の仏画に対する姿勢と壁画自体の美しさ荘厳さに感銘を受けたためといわれています。その思いは「桜井香雲先生を憶う」という一文に記されています。空如は、香雲の模写本を手本とし実際に法隆寺金堂を訪れ、香雲が見落とした線や色彩などを補い模写を行いました。空如が一生をささげた金堂壁画模写は、仏画家として最も円熟したころに始まり、現在のような照明設備も無い中、数十回に渡り法隆寺を訪れつぶさに模写し、真に迫るまで古色を吟味し、心身ともに艱難辛苦を乗り越えて金堂壁画の模写本3組を完成させました。3組の模写絵は、空如没後、3か所に分蔵されます。大正11年(1922)完成の1作目は、終焉の地、姪が経営する箱根湯本・吉池旅館(箱根鈴木家本)、昭和7年(1932)完成の2作目はリッカーミシン(現平木浮世絵財団)、昭和11年(1936)完成の3作目は生家鈴木家に所蔵されました。現在、1・3作目は両家の御厚意で大仙市に御寄贈いただきました。
★焼損後の1958年から安田靫彦、前田青邨を中心に制作された「再現壁画」
https://www.geidai.ac.jp/geidai-tuusin/timecapsule/b7.html
悪夢は、1949年1月26日の朝におこった。金堂から出火した炎は、わずかの間に内陣と壁画を焼く。茫然自失の人々の中、管主佐伯定胤は、炎に包まれた内陣にとびこもうとして抱きとめられた。焼けただれた十号壁の前にたたずむ佐伯。合掌瞑目ののち、彼は★「形あるものは滅す」とつぶやいたという。その絶望は想像に余りある。それは、足かけ十年におよぶ模写作業をしてきた人々も、同じだった。保存のための作業が、結果、壁画を失ってしまった自責、世間の激しい非難。残った模写と資料からの再現が、ここから悲願となった。残ったのは、1940年からの模写事業で、完成間近だった模写8面。壁画12面を、分割撮影した写真原版374枚。幸運にも4色分解でひそかに撮影されていた、12面全景の原色原版。そして明治時代の桜井香雲、大正・昭和の鈴木空如の模写などだった。それから17年たった1966年、ついに再現事業が決定する。新たに安田靫彦、前田青邨、橋本明治、吉岡堅二を主任に、4班14人の体制がくまれた。安田、前田は、すでに本学(東京芸術大学)を退官し、名誉教授。現役教官から教授吉岡堅二、助教授岩橋英遠、講師吉田善彦・稗田一穂、平山郁夫が参加した。綿密な打ち合わせを経て、模写は、制作当初への "復元" 模写ではなく、焼損時への "再現" 模写とすること。再現は、金堂の白壁に直接描くのではなく、和紙に描いて木枠に貼ったものを壁面にはめること。和紙には、まず写真原版を薄く印刷し、それに描きこんでいくこと、といった基本方針が決定された。作業は、翌67年春から各班いっせいに始まった。しかし最大の難関は、実は完成までわずか1年という、制作時間だった。ここから、各班はときに不眠不休の1年が始まる。14人以外にも、多くの助手が参加した制作スタッフは、総勢約50人。各アトリエの熱気に満ちた1年間は、まさに一大事業というにふさわしいものだった。試算によれば、制作ののべ時間は、じつに12万時間だったという。13年4カ月にあたる。各壁ほぼ共同制作だったが、三号壁の観音だけは、当時まだ37歳の若さだった平山郁夫現学長が、単独で仕上げたという。東博で記念展が開催された1968年は、文化財保護委員会が、文化庁となった年だ。この再現模写は、威信をかけた事業だったはずだ。一方、1913年に没した★岡倉天心が、最後に出席した古社寺保存会の会議で建議したのも、実は「法隆寺金堂壁画の保存」だった。満場一致の可決を見届け、自宅にもどってすぐ、天心は最期の床につく。焼損はたしかに悲劇だったが、廃仏毀釈や戦争などで、幾多の文化財の悲劇を見てきた天心であればこそ、再現の努力も正しく理解したかもしれない。
《法隆寺金堂壁画写真原板》重文指定年月日:20150904
https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/431993
昭和10年(1935)に文部省法隆寺国宝保存事業部の事業として撮影された法隆寺金堂壁画12面の写真原板群のうち、各面全図写真原板12枚、四色分解写真原板(原色図版用)48枚(以上ガラス原板)、赤外線写真原板23枚(ガラスおよびフィルム原板)である。対象の壁画は四方四仏4面および菩薩8面で、大型の画面に雄大な構図、精緻な描写、華麗な賦彩にて各面主題があらわされ、東アジア仏教美術史上の至宝と認められてきた。それゆえ、明治30年(1897)の古社寺保存法施行直後に金堂が特別保護建造物に指定されると、壁画保存は行政上の課題となり、大正年間の「法隆寺壁画保存方法調査委員会」の調査をはじめ各種対策が検討された。昭和9年法隆寺国宝保存事業が開始されると、正確な現状記録作成を目的とした金堂壁画の原寸大分割撮影が企画され、京都の便利堂(社長・中村竹四郎)が請負い、(一)原寸大分割写真撮影のほか、(二)各面全図写真撮影、(三)四色分解写真撮影、(四)赤外線写真撮影が実施された。昭和24年の壁画焼損ののちは、本四色分解写真原板が壁画の賦彩を最も正確に伝える画像記録となり、『法隆寺金堂壁畫集』(法隆寺金堂壁畫集刊行会、昭和26年)に原色図版が掲載されるとともに、文部省は和紙を用いた原色凸版印刷1000部を作成した。昭和42年・43年に実施された金堂壁画復元模写事業では、原寸大分割写真によるコロタイプ印刷版を下図とし、彩色にあたってはこの原色図版が大いに参考とされた。本件は高い技術を駆使し撮影された三種の写真原板である。原寸大分割写真原板(法隆寺蔵)と相俟って、古代東アジアを代表する仏教絵画である法…
・・・「金堂壁画」にまつわる経緯を調べていると、胸が熱くなってきます。何にせよ「焼損壁画」の公開が今から楽しみです。