・・・前回、「香散見艸(草)」編輯:此水観娯水(信田伝次郎) /校合:真風舎、渡辺桑月/明31(1898)の掲載が抜けていました。くわえて、渡辺桑月さんの刊行された句集も紹介しておきます。
『明治俳諧金玉集』
http://school.nijl.ac.jp/kindai/NIJL/NIJL-00918.html#3
岩代の国(福島県)の渡辺桑月によって、明治22 (1892)年11月9日に刊行された句集である。桑月宗匠は渡辺弥一郎、幼名は矢一、真風舎と号す、弘化三年十月二十三日生れ、本籍は新中町六十番地、今の斎藤 武雄氏港屋機業場のところである。川俣町役場の戸籍台帳にあり後で三番地上の方に移り綿屋と称したと生前中の古老佐戸川弥市氏からきかされた。御逝去は明治四十一年九月十六日午前七時六十三才、東京に移住後死亡された。この金玉集を発刊した当時は四十三才の壮者であった。
《参考》
●業俳、宗匠(師匠の立場)
俳句は、江戸初期(寛永-元禄)の松尾芭蕉が、連歌(れんが)の最初の一句だけを独立させたもので、当時「発句」と呼ばれた。「俳句」と呼ばれるのは明治以降である。与謝蕪村や小林一茶をへて、滑稽や遊戯性を高めた庶民の集団文芸となり、江戸時代は一定の人気を博した。俳句作品を採点することで、「点料」という金を稼ぐ「業俳(ごうはい)」が多数存在しており師匠として一門を構成し大勢の門弟や後継者も養成していた。江戸時代後期になると、全国に多数の流派が形成され、師匠からその名を代々受け継いで、宗匠(師匠の立場)とも呼ばれた。
●教導職
明治になると、「大教宣布の詔」が発布される。江戸幕府以来、日本全国の士族から庶民に至るまで根ざしていた、儒教や仏教思想を一掃し、国民を「神教」に教化するため神祇省、教部省を作り政府官吏「教導職」を任命して、大衆教化をはかろうとしたのだった。このため、神官・僧侶や平田篤胤の流れをくむ神道家、そして俳諧師が、政府の元に教導職として採用された。神教国教化の政策は一面で明治当初の「廃仏棄釈」など極端な仏教文化の破壊を引き起こした。日本の社会が大きく変化して、様々な問題が起きた時期でもある。教導職は政府の管理下で半官半民における管理形態とした。明治政府の教部省は幾多の変遷を得て、宗教法人となり現在は「神社本庁」(伊勢神宮など)、「神教大教院」(八幡神、稲荷神など)に至っている。
※以前は、教導職は芸能を利用して神教への国民教化をめざしたと説明され、落語家や芸人なども「教導職」になったと広く信じられていた。しかしこれは間違いだったことが現在は明らかにされている。実際に「神官」「僧侶」「俳諧師」以外で、教導職となった例はひとつも見つかっていない。
・・・さらに、これまで全く知らなかった事実が、
《神道芭蕉派の登場》明治初年の宗教界と「俳諧系神道結社」/民族文化研究会ブログより
民族文化研究会は、わが国の伝統的な民族文化・民族生活ならびに世界の諸民族を取り巻く問題の研究を目的とした組織です。
http://minzokubunka.hatenablog.com/entry/2019/05/20/144012
教導職制度が始まって約一年後の明治6年3月31日、曹洞宗永平寺管長の大教正・久我環溪が、俳諧師を教導職に任命してはどうかとの建白書を大教院に提出した。『教義新聞 第廿五号(明治六年八月)』に掲載された内容によると、俳諧師、特に「芭蕉派ト唱フル者」は「専ラ道学ニ心ヲ寄セ人倫ヲ正フシ」ているとして、「宗匠ト唱フル者ヲ挙ゲテ教導職ヲ命シ」、教導に尽力せしめてはどうかと述べている。環溪は当時江戸三大家と称されていた俳人の関為山、鳥越等栽、橘田春湖を推薦していて、この三名は5月3日に「訓導」として教導職に就任している。
また推薦の三名とは別に大教院で俳諧師の教導職試験が行われている。明治7年、三日間に渡って口述・筆記の試験が行われた結果、三森幹雄、鈴木月彦の両名が合格した。推薦により無試験で教導職となった「三大家」に対して、実力で合格した若手の三森幹雄らはこの後、俳壇でも宗匠達と比肩されるようになる。こうして俳諧師から教導職を輩出したことは、俳壇にとって喜ばしいことであった。俳諧師は江戸時代を通してある種の★遊民で他の文芸活動からは下に見られており、教導職として国家の認定を受けたことで、俳諧師達の立場は向上したと言える。
・・・長くなるので「中略」するが、明治17年8月11日の太政官布達により教導職制度自体が廃止されたにもかかわらず「神道芭蕉派(神道芭蕉派明倫教会)」なるものが誕生した。明治26年の芭蕉二百年忌の際には芭蕉を祀る祠宇の建設を思い立ち、東京深川の地に★芭蕉神社(現芭蕉稲荷神社:東京都江東区常盤)を建立している。
《芭蕉稲荷神社》
135-0006東京都江東区常盤1丁目3−12
https://koto-kanko.jp/theme/detail_spot.php?id=S00193
芭蕉稲荷神社は、大正6年の津波来襲の後、芭蕉が愛好したといわれる石造の蛙が発見され、故飯田源太郎氏等地元の人々の尽力によりここに芭蕉稲荷が創建され、大正10年東京府により常盤一丁目が旧跡に指定されたといいます。
(江東区掲示より)ここ深川の芭蕉庵は、蕉風俳諧誕生・発展の故地である。延宝八年(1680)冬、当時桃青と号していた芭蕉は、日本橋小田原町からこの地に移り住んだ。門人杉風所有の生簀の番小屋であったともいう。繁華な日本橋界隈に比べてば、深川はまだ開発途上の閑静な土地であった。翌年春、門人李下の贈った芭蕉一株がよく繁茂して、やがて草庵の名となり、庵主自らの名ともなった。以後没年の元禄七年(1694)に至る十五年間に三次にわたる芭蕉庵が営まれたが、その位置はすべてほぼこの近くであった。その間、芭蕉は庵住と行脚の生活のくり返しの中で、新風を模索し完成して行くことになる。草庵からは遠く富士山が望まれ、浅草観音の大屋根が花の雲の中に浮かんで見えた。目の前の隅田川は三つ又と呼ばれる月見の名所で、大小の船が往来した。それに因んで一時泊船堂とも号した。
第一次芭蕉庵には、芭蕉は延宝八年冬から、天和二年暮江戸大火に類焼するまでのあしかけ三年をここに住み、貧寒孤独な生活の中で新風俳諧の模索に身を削った。
櫓の声波ヲ打って腸氷ル夜や涙
芭蕉野分して盥に雨を聞く夜かな
氷苦く偃鼠が咽をうるほせり
天和三年(1683)冬、友人素堂たちの好意で、五十三名の寄謝を得て、「本番所森田惣左門御屋敷」の内に第二次芭蕉庵が完成した。草庵の内部は壁を丸く切りぬき砂利を敷き出山の釈迦像を安置し、へっついが二つ、茶碗が十個と菜刀一枚、米入れの瓢が台所の柱に掛けてあった。「野ざらし紀行」「鹿島詣」「笈の小文」の旅はここから旅立った。
古池や蛙とびこむ水の音
花の雲鐘は上野か浅草か
蓑虫の音を聞きに来よ草の庵
元禄二年(1689)「おくのほそ道」の旅立りの際手離された旧庵の近くに、元禄五年五月杉風らの尽力で第三次芭蕉庵が成った。新庵は、三部屋から成り、葭垣、枝折戸をめぐらし、池を前に南面し、水楼の趣があった。他に預けてあった芭蕉も移し植えられた。
名月や門に指し来る潮頭
川上とこの川下や月の友
秋に添うて行かばや末は小松川
芭蕉庵の所在地は、元禄十年松平遠江守の屋敷となり、翌十一年には、深川森下町長慶寺門前に、什器もそのまま移築されたようである。
《そんなことはもう忘れたよ/鈴木清順閑話集》文:八幡薫/写真:本多晃子
発売日:2018年7月27日(金)スペースシャワーネットワーク
【目次】
◆はじめに
◆飄々と鈴木清順かく語る
地震/★芭蕉と俳句/子供時代/銭湯と初恋/戦争/映画/日活解雇~空白の10年/蜜のあはれと引退宣言/死
◆米寿祝い
◆夫婦
◆On the day 本多晃子が綴る「その日」の風景
◆Interview それぞれの鈴木清順
野呂圭介/韓英恵/葛生雅美/鈴木崇子
◆幻の遺作 鈴木清順 脚本『蜜のあはれ』
◆おわりに
『殺しの烙印』、『肉体の門』、『ツィゴイネルワイゼン』などの作品で知られる映画監督・鈴木清順。1950年代〜90年代まで多くの作品を撮り、時に鬼才とも評されるほど独特な表現の映画監督だ。昨年2月に、惜しまれつつも亡くなり、2005年の『オペレッタ狸御殿』が遺作となった。このたび、そんな鈴木清順の素顔に迫り、「清順美学」とも称される彼の哲学がふんだんに散りばめられたエッセイ『そんなことはもう忘れたよ 鈴木清順閑話集』が7月27日(金)に発売された。本書では、『ピストルオペラ』のスチール撮影を務めた本多晃子が約20年にわたり親交を深めるなかで撮影された100点近くの写真や、出演者や映画関係者たちのインタビュー、映画化に向けて製作が進められていた幻の遺作『蜜のあはれ』の貴重なシナリオを収録。さらに、「子供時代の思い出」「初恋」「戦争体験」「日活解雇」「夫婦」などなど、鈴木清順が語る追憶が収められている。ユーモアと鋭い観察眼が滲む独特の言葉とともに切り取った、鬼才と呼ばれた男の、あたりまえのとある日常の記録だ。
鈴木清順という人物の極めてプライベートな内面を、描き出した内容の濃い一冊となった。
【鈴木清順】(1923~2017)
1923年東京都生まれ。本名・清太郎。1948年旧制弘前高等学校卒業後、松竹大船撮影所入社。54年に日活に移籍し、56年『港の乾杯 勝利をわが手に』でデビュー。その後、『肉体の門』『刺青一代』『けんかえれじい』など、数々の作品を手掛ける。1967年に公開された宍戸錠主演『殺しの烙印』が、「わけのわからない映画」と日活社長・堀久作の不興を買い、翌年一方的に解雇され、裁判に。10年の沈黙を経て、1977年『悲愁物語』で映画界に復帰。1980年『ツィゴイネルワイゼン』が大きな反響を呼び、続く81年『陽炎座』、91年『夢二』と共に浪漫三部作として高い評価を得る。90年に紫綬褒章受章。その独特の色彩感覚と映像美は「清順美学」と呼ばれ、現在もなお、世界中の映画ファンを魅了し続けている。プライベートでは、1997年に47年間連れ添った妻と死別。2008年、本書に登場する妻・崇子と再婚。2017年2月13日、慢性閉塞性肺疾患のため都内の病院にて死去。93歳。2011年には新作として室生犀星原作『蜜のあはれ』映画化の準備を進めていたが、叶わなかった。
★鈴木清順監督インタビュー
この芭蕉神社建立の時期から「芭蕉如何に大俳家たりしとも其俳句皆金科玉条ならんや」と宗教団体設立までいった芭蕉崇敬の姿勢を「(評価しているのは)俳諧宗の開祖としての芭蕉にして文学者としての芭蕉に非ず」と批判する「日本派」の★正岡子規が登場して写実主義の時代が到来し、俳諧に教訓を見る「旧派」は徐々に俳壇で隅に追いやられていくのである。
《参考》「芭蕉二百回忌の諸相」著:綿抜豊昭、鹿島美千代/桂書房2018
http://www.katsurabook.com/booklist/1145/
・・・結構「俳句」って、いろんな意味で奥深いですね。