・・・「空色画房」さんで目的を達成した後は、もう独壇場(土壇場ではありません)です。前回紹介できなかったことも含めて、
《天満切子ギャラリー》
530-0043 大阪市北区天満2-2-19 サンナカノビル1F/06-6926-4443
https://gallery.temmakiriko.com/
(切子工房RAU)530-0035 大阪市北区同心1-11-8 宇良ビル1F/06-6357-9362
https://www.temmakiriko.com/index.html
大阪天満宮正門脇に★「ガラス発祥の地」の碑があり、江戸時代に長崎のガラス商人、播磨屋久兵衛はオランダ人が長崎に伝えたガラス製法を学び、大阪に持ち込み大阪天満宮近くで作っていたと言われています。現在の与力町・同心界隈を中心にガラス工場が増えていき、大阪のガラス産業は急速に膨張します。その業者の数は東京を凌いでいたとの記述もあります。(ちなみに、ガラスのビー玉がはじめて国産化されたのも大阪市北区です。)近年は国内の競争や安い輸入品に押されて、隆盛を誇った大阪のガラス産業も衰退し、今では「大阪ガラス発祥之地」天満界隈からガラス工場はほとんど姿を消してしまいました。ガラスの町、北区同心で老舗工場であった「宇良硝子加工所」を「切子工房RAU」と名称を改め、宇良武一氏が今までにない技法で作られた切子をガラスの町天満への想いを込め、「天満切子」と命名しました。
★天満蔵めぐりマップが完成しました/2019.1.25
https://www.city.osaka.lg.jp/toshiseibi/page/0000254755.html
天満地区HOPEゾーン協議会では、天神さんから大川浜へ「もてなし」のまちなみづくりをテーマに、天満の歴史や文化など地域の特性を活かした、魅力ある居住地づくりに大阪市と連携して取り組んでいます。かつて天満青物市場としてにぎわった水辺近くには、菅原町を中心に、伝統的な建物や川に面して建てられた★「浜蔵」などが今なお多く残っています。歴史あるまち天満の「蔵」をキーワードに、まちの魅力を満載した天満蔵めぐりマップが完成しました。ひご覧いただき、昔の面影をたどりながら天満のまちなみをお楽しみください。
★北区菅原町に歴史顕彰板が完成しました
https://www.city.osaka.lg.jp/toshiseibi/page/0000295402.html
このたび北区菅原町に、「蔵のまち天満・菅原町」歴史顕彰板が設置されました。かつて「太平橋」が架かっていたところ、大川沿い遊歩道の西の方です。(北区菅原町)天満青物市場の歴史、菅原町の建物の特徴、今も「現役」の土蔵などを紹介しています。
《NEWS》2018.3.28日本経済新聞より
大阪市の天満橋から天神橋にかけての大川沿いには江戸時代から昭和初期にかけて天満青物市場が開設されていた。近郊で取れた野菜だけでなく、全国の乾物が船や荷車で運ばれて取引され、各地に流通していった。堂島の米市、下流の京町堀付近にあった雑喉場(ざこば)の魚市とともに「天下の台所」を担う存在だった。市場の周辺には問屋や仲買人が集まる。天神橋北詰の西側、現在の北区菅原町一帯には乾物問屋街が生まれ、最盛期の大正時代には200軒を超えていたという。その面影を伝える白壁の蔵が点在している。大阪市は歴史を生かした街づくりを地域と連携して進める「HOPEゾーン事業」で、古い街並みが残る地区の建物外観の改修などに補助金を出す修景を続けてきた。事業はこの3月末で終了する。菅原町を含む天満地区では10年前に協議会が設立され、18件の建物が対象となった。
古い蔵の外観を新しくし、本社ビルも景観に配慮したデザインで建て直した乾物問屋★北村商店の北村弘一相談役は「商いの形は昔と様変わりしたが、蔵はずっと使い続けてきた。愛着がある」と話す。住宅に付随する屋敷の蔵は一般的に細長い敷地の奥にあるのに対し、天満の蔵は通りに面している。1837年に起きた大塩平八郎の乱の際の焼き打ちをくぐり抜けた蔵もある。菅原町の西側を南北に走る阪神高速道路の下にはかつて天満堀川が流れていた。このため、川に近い天満の蔵は浸水に備えて高床なのが特徴だ。北村商店の古い蔵の川側の土台部分は、川の水を遮らないよう、柱を囲わない足駄(あしだ)造りと呼ばれる構造になっている。
乾物商いの推移は、日本人の食生活の変化を映し出す。保存がしやすい乾物はかつて日本人の食生活に多く使われた食材だった。干瓢(かんぴょう)、干し椎茸(しいたけ)、海苔(のり)、昆布、凍り豆腐、凍りコンニャク、寒天、切り干し大根、ずいき、ひじき、干した山菜など多彩な乾物がつくられ、消費された。「寒天は昔、日本の有力な輸出品だった。人工栽培で量産された干し椎茸も輸出で戦後日本の復興に貢献した。こうした歴史が忘れられているのは残念だ」と北村さん。乾物消費が減り、現在の乾物問屋の事業はゴマなどの輸入や加工販売が主体になっている。
天満地区HOPEゾーン協議会の事務局長で、乾物問屋を営む後藤孝一さんは天満の蔵めぐりの街歩きイベントなどで参加者に歴史を語り継いでいる。昨年12月の街歩きでは乾物を使った料理を参加者に味わってもらった。「干瓢はもともと関西が主な産地で、昔は『木津』と呼ばれていた。歴史を知ることで乾物を見直してもらえたらいい」と語る。ゴマを主に扱う★和田萬商店は江戸時代に建てられた蔵の外観だけでなく内部も改修し、ゴマ製品の販売店に模様替えした。落ち着いた空間を活用し、クラシックのミニコンサートやゴマの加工教室、乾物料理の試食会などを開いている。和田武大専務は「蔵の土壁が厚さ45センチもあるのに驚く人が多い。防火に有効なだけでなく、温度や湿度の変化を少なくできる。乾物の保管に適した構造になっている」と説明する。現存する蔵の数は少ないが、菅原町を歩けば、天下の台所の歴史の一端をうかがい知ることができる。
《和田萬》
530-0046大阪市北区菅原町9-5/06-6364-4387
大阪、天満の和田萬本社のとなりに。土蔵を改装した本格的なごま専門の店舗「萬次郎 蔵」(まんじろうくら)が2010年11月、オープン。大阪の中心部では珍しい、築210年の土蔵が、乾物屋街によみがえりました。ゆったりと流れる時間のなかで、約100種類のごま商品やごまの試食を楽しんでいただけます。また、料理教室などのイベントも行っています。ぜひ一度、おこしくださいませ。
・・・さて、安藤建築を2つ紹介します。
《上方落語協会会館》設計:安藤忠雄2012
530-0043大阪市北区天満4丁目12-7/06-6354-7727
https://kamigatarakugo.jp/greeting/
正面左側のスリットは、上方落語の「上」。施工は、まこと建設株式会社。
《TS(堺屋太一)ビル》設計:安藤忠雄1986
530-0043大阪市北区天満3-1-2/06-6358-8558(堺屋太一事務所)
TSというのは堺屋太一氏のイニシャルで、6Fが堺屋太一事務所になっています。また下の階には、シャープ「AQUOS」のデザインなどで知られる★喜多俊之氏のオフィス?も入っています。
http://www.toshiyukikita.com/jp/
※喜多俊之デザイン研究所
541-0043大阪市中央区高麗橋2-6-9/06-6233-1948
541-0041大阪市中央区北浜 2-1-23日本文化会館8階/06-6233-1948
【喜多俊之】
1942大阪市生まれ1962浪速短期大学(現・大阪芸術短期大学部)デザイン美術科工業デザイン専攻卒業1967★IDKデザイン研究所設立(後、喜多俊之デザイン研究所へ改名)1969イタリアと日本を拠点にデザイン活動を開始2010年~大阪芸術大学教授。
《参考》「美術愛住館」設計:大林組、安藤忠雄1984
160-0005東京都新宿区愛住町2-5/03-6709-8895
東京、四谷三丁目に近い愛住町に開いた小さな美術館。私と妻の洋画家・池口史子が20年暮らしたビルを美術館に改装したもので、「美術愛住館」と名付けました。時には妻、史子の多彩な作風による絵画展や同時代の優れた具象作家の作品展を、また時には私、堺屋太一の著作関連や万国博の企画の足跡を辿る展覧会を行いたいと考えています。″美しく楽しい催し″が繰り広げられるようご支援ください。
《NEWS》2019.2.18産経新聞より
堺屋太一さん、ぶつかる壁なぎ倒すリーダー/建築家・安藤忠雄
40年前、堺屋太一さんの奥さん、画家の池口史子さんから、結婚を機に大阪・天神橋に家を建てるので設計を、と私に依頼がありました。史子さんが「安藤さんがいい」と指名してくれたようです。 堺屋さんの希望は「太閤さんになった気分になれるから」、大阪の「天神祭」を上から見たいと。そこで6階建てのビルのいちばん上が住居、という家を設計しました。以来、堺屋さんの指名でセビリア万博(1992)、花と緑の博覧会(1990)などでも一緒に仕事をしました。堺屋さんの83年の人生は戦いの連続だったでしょう。いま、日本人は戦わなくなった。けれども、堺屋さんは20代で大阪万博を考え、官僚や政治家、財界などの反対にぶちあたるたびに、それをエネルギーにした。壁にぶつかっても乗り越える気迫が夢を作っていくんだ、と。多くの反対を、そのリーダーシップと創造力、実行力で突き破り、昭和45年の大阪万博では多くの人たちに夢を見せました。堺屋太一という人はお祭り好きで、博覧会マニア。セビリア万博のときには「世界に発信するものを作れ」と、地上30メートルの世界一の木造建築を作ろうということになりましたが、スペインには巨大木造建築に関する法律がなかったため、周囲から反対されました。しかし堺屋さんは、「ないならば作ればいい」と、ヨーロッパ、アフリカの技術者たちとチームを組んで、これを実現させてしまった。愛嬌のある楽しい人で、大阪に来ると、親しい露天商や飲食業の人たちと食事しながら本音で語り合っていました。マージャンも好きで、奥さんも交えて、夜を徹して打っていました。その一方で大きな構想を練っていました。道頓堀に1キロのプールを作ろうと、とんでもないことを言い出す。その発想力は元官僚とは思えない。本棚には漫画がたくさん並んでいて、これらは私の発想の原点なんだと言われていました。資料分析に裏打ちされた冷静さと、作家として日本の未来を憂う視点ももっていた。よく怒り、よく笑う人だった。夢をみて、また次の夢をみて壁にぶつかって。それでも夢をつくって。壁はぶつかってなぎ倒していけ、と。堺屋さんを見ていて、リーダーというのはそういう人なんだと思いました。100歳までは元気だろうと思っていました。
2025年の大阪万博を見届けたかったことでしょう。それが悔やまれてなりません。「団塊の世代」の名付け親で、経済企画庁長官などを務めた作家の堺屋太一(本名・池口小太郎)さんは2019年2月8日、多臓器不全のため死去。83歳だった。
・・・さて、2025大阪・関西万博はどうなるのでしょう???そんなことを考えながら、東から西へ。