《堺の酒小史》文★角山榮/「酒文化研究所」酒文化論稿集より
★『商業資料』(後に「大阪機材雑誌」に改題)明治28年6月10日号(第二巻第四号)
大阪で発行されていたタブロイド型の経済誌『商業資料』、堺の酒について次のように記されている。「日本の酒産地中に於て、堺は即ち小灘と称せられる。蓋しその造石高の上より、又其酒造歴史の上より、灘に一歩を譲らざるを得ざるものありと雖も、蓋し或る点に於ては確かに之と抵抗するを得るのみならず、現に灘の造酒たる多くは堺酒商の為に、自由にせら れんとするの傾きありて、堺酒の名声は今や将さに大いに発揚されんとするものあり」と因みに、同『商業資料』によれば明治二七年 当時の堺酒造業の営業者は四四人、会社四会社、造石高、六万三一七一石五斗八升八合であった。
政府は明治17年11月同業組合準則を定め、府県に頒布して同業組合の結成を奨励した。これを受け、堺に★「酒造組合」が設置された のが、翌18年から19年にかけてであり、初代の組合長に選ばれたのが、★鳥井駒吉であった。酒造組合は鳥井駒吉を中心に酒造改良のため、つぎつぎと革新的な事業を企画し、これを実行に移していった。まず明治19年、鳥井駒吉、宅徳平、宅常三郎、石割七左衛門の四名が首唱者となって、★「堺酒造改良試験所」を設置したことである。この試験所は原料の米、水、麹を科学的に分析し、また酒の貯蔵技術の開発を目的とするもので、併せて同業者有志の子弟に新技術を伝授せんとするものであった。この試験所は好成績をあげていることを伝え聞き、全国各地から見学者が多数訪れるありさまであった。第二の新事業は、明治20年鳥井駒吉ら七名が中心になって、神明町に「共同醸造場」を設けたことである。その目的は共同事業によっ てコスト削減をはかり、良質の酒を醸出するためであった。なお同醸造場は明治21年株式組織に改められ「堺酒造株式会社」となった。第三の新事業として、堺酒造組合は明治23年組合機関誌として★『堺酒造月報』の刊行を始めたことである。毎号約九頁が原則であ るが、特別号には三十頁に及ぶものもある。この機関誌『堺酒造月報』は★堺市立中央図書館に所蔵されているが、同業組合の機関誌が現存していることは全国的にみてもそんなに多くないのではないかと思う。同業組合はやがて重要輸出品同業組合とか産業組合に法的整備とともに変化してゆくのであるが、輸出伸長による外貨の獲得が経済政策上の大きな課題になってゆく。このことは『堺酒造月報』 に早くから反映していて、清酒の海外への輸出振興に呼応して、毎号輸出統計が掲載されている。清酒の海外輸出に先鞭をつけたのも 鳥井駒吉であった。
【角山榮】(1921~2014)
1921年、大阪市生まれ。和歌山大学教授などを経て、75年には同大学長。88年から93年まで堺市教育委員。93年から2008年まで堺市博物館長。2008年、堺市教育委員会特別顧問に就任。勲二等瑞宝章受章(1997年)。2014年10月逝去。92歳。主な著作『堺-海の都市文明』、『茶の世界史』、『茶ともてなしの文化』、『生活史の発見』など多数。平成26年10月15日逝去。
https://www.lib-sakai.jp/column/2015/151223tsunoyamabunko.htm
中央図書館では、故・角山 榮(つのやまさかえ)氏(元堺市教育委員会特別顧問、元教育委員、元堺市博物館長)のご遺族から、角山榮氏が所蔵されていた資料をご寄贈いただき、「角山文庫」を開設しました。 同文庫の開設を記念して、平成27年12月23日(水)、中央図書館にて角山榮氏の師事を受けた秋田茂大阪大学大学院文学研究科教授による講演会「角山先生が切り開いた新しい歴史像」を開催いたしました。
★研究広報誌「AD・STUDIES」/吉田秀雄記念事業財団
Vol.13 Summer 2005(8月25日号)「企業と博覧会の出会い」/編集部
http://www.yhmf.jp/activity/adstudies/13.html
1895年(明冶28)6月発行の月刊誌★「商業資科」(後に「大阪機材雑誌」と改題)に掲載された「アサヒビール」と清酒「春駒」の広告にも、第4回内国勧業博覧会において「アサヒビール」は有功I等賞を、「春駒」は有功2等賞を受領したことを誇らしげに告示している。
大阪堺の酒造会社で清酒「春駒」を醸造販売していた鳥井合名会社の社長鳥井駒吉は、明治22年に大阪麦洒会社(現アサヒビール)を創立、1893年(明治26)★シカゴ万国博に「旭ビール」を出品し最優秀賞を得ており、この広告には「米国市俄高府閣竜世界大博覧会ニ於イテ名誉アル・・・」とはじまり、
https://www.ndl.go.jp/exposition/s1/1893.html
続いて「此度第四回勧業博覧会二於テ縮図ノ如く有功一等賞ヲ・・・|と受賞メダルを掲載して製品の優秀さが認められたことを記している。
https://www.ndl.go.jp/exposition/s1/naikoku4.html
※1900年(明治33)パリ万博でも最優等賞受賞。
《鳥井駒吉の生涯(前編)》/アサヒビールより
https://www.asahibeer.co.jp/area/07/27/sakai/komakichi_vol01.html
堺は、灘や西宮・伊丹などとともに、江戸時代に摂泉十二郷と呼ばれた清酒の名産地である。この伝統ある堺酒造業のなかで、鳥井駒吉は頭角を現していく。1879年に26歳で堺酒造組合の初代組長に就任すると、1883年6月に精米会社、1886年9月に酒造改良試験所、1887年5月には共同醸造所を設立した。いずれも醸造技術の改良や生産の合理化を目的とする革新的な取り組みであり、1888年には★バルセロナ万国博覧会に初めて瓶詰めの清酒を出品して輸出の途を開いたのであった。
https://www.mofa.go.jp/mofaj/annai/page5_000237.html
そして鳥井が本格的国産ビールづくりをめざし、大阪麦酒会社を立ち上げたのもこのころのことである。
《参考》「万博の歴史」
London 1851Paris 1855London 1862Paris 1867Vienna 1873Philadelphia 1876Paris 1878Melbourne 1880Barcelona 1888★Paris 1889Chicago 1893Brussels 1897Paris 1900St Louis 1904Liege 1905Milan 1906Brussels 1910Ghent 1913San Francisco 1915Barcelona 1929Chicago 1933Brussels 1935Stockholm 1936Paris 1937Helsinki 1938Liege 1939New York 1939Paris 1947Port au Prince 1949Stockholm 1949Lyon 1949Lille 1951Jerusalem 1953Rome 1953Naples 1954Turin 1955Helsingborg 1955Beit Dagon 1956Berlin 1957Brussels 1958Turin 1961Seattle 1962Munich 1965Montreal 1967San Antonio 1968Osaka 1970★
・・・常に新しい挑戦、時代を切り拓く努力を積み重ね今がある、頭が下がります。
《おまけ》一升瓶
https://jp.sake-times.com/special/project/pr_hakutsuru_01
以前は、江戸へ★下り酒として大量輸送される灘のような大ブランドを例外として、基本的に日本酒とは地産地消であり、祭礼などの場に地元の酒が四斗樽で運ばれて皆で自由に飲むか、比較的に裕福な階層が自前の徳利などを携えて酒屋へ行き、酒屋は店頭に並べた★菰(こも)かぶりの酒樽から枡で量り売りをするのが通例であった。このため、今でいう地酒はその町や村から外へほとんど出ることがなかった。しかし、明治後期から徐々に酒は瓶で売られるようになり、生産された町や村を離れて流通するようになった。
http://www.hakutsuru.co.jp/corporate/enkaku.shtml
1901年(明治34年)には白鶴酒造から★一升瓶が登場し、大手メーカーでは日本酒が瓶詰めで売られるのが普及していった。いっぽう、量り売りをする酒屋は戦前昭和時代まで見られた。酒が瓶詰めになったことは、人の酒の飲み方、すなわち消費形態や食生活にも変化をもたらした。それまでの日本酒の飲み方が、年に数回だけ振る舞い酒を枡の角に盛った塩を舐めながら飲み、飲んだからにはとことん泥酔するような様式から、酒屋から瓶で買ってきた自分の好みの銘柄を晩酌や独酌として、食事や肴とともにたしなみ、そこそこに酔う(当時の表現で★「なま酔い」という)様式へ変わっていった。