春駒 | すくらんぶるアートヴィレッジ

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・・・2020年1月の玉手箱プロジェクト「氣になる玉手箱展」に続いて、2月には「鳥井駒吉展」を予定しており、そろそろ企画準備を進めなければならないわけです。先だって、玉手箱プロジェクトとしても広報していきたいと思い、「木箱」を「酒樽」に見立ててみました。

 

 

《参考》酒樽における★「呑み口」の立て方/酒樽屋日誌

http://www.taruya.com/blog/2009/10/post_518.html

先の尖った栓の役割をする方を★「呑み」(ヒノキ)と呼び、円筒形の穴が貫通した方を★「呑み口」(桐)と言います。これは太さ(直径)から「八分」と「六分」の二種があります。樽の木製栓★「ダボ」を、プライヤーで注意深く動かしながら緩めていきます。「ダボ」も昔は杉の芯材で作りましたが、滲みにくいという利点から、今は高野槙が主流です。地方によっては「腹星(はらぼし)」とも呼びます。「ダボ」が抜けた穴に、木槌で軽く「吞み口」を垂直に叩き込みます。余り強く叩くと酒樽の穴が割れて洩れの原因になりますので、ゆる過ぎるかなと思われる位が程よい強さです。緩ければ更に叩けば良いのですが、強過ぎると割れてしまった酒樽の穴は元には戻りません。この力加減が★「呑み口立て」の中で最も重要なポイントです。なお、一度立てた「呑み口」は決して抜かないで下さい。水道の蛇口等と違い、酒樽の「呑み口」は少しずつ緩めて、加減を見つつ隙間から酒を出す道具です。抜いてしまうと、酒樽から勢いよく酒が吹き出してしまいます。何らかの不具合から酒が出にくい時は酒樽の蓋に錐(キリ)で小さな空気穴を開ける場合もあります。

 

 

・・・めったに日本酒を呑むことはありませんが、この情緒というか文化は素敵ですね。この「呑み口」を偶然持っていたのです。以前、「バードコール」作りにはまっていた時、イベントの古道具屋さんで見つけ音が鳴るのでは?と2つほど購入、ここで役立つとは不思議ですね。

 

 

《NEWS》2017.9.22サンケイBizより

かつては有数の酒どころ、堺市で日本酒造りの伝統を再び/消えた銘柄復活、新たな酒蔵も

かつて全国有数の酒どころとして知られた堺市で、伝統再興に向けた動きが相次いでいる。2016年は戦争で消えた銘柄が復活し、40数年ぶりに新たな酒蔵もできた。関係者は「堺の日本酒文化をアピールできれば」と意気込んでいる。古墳や刃物、臨海工業地帯のイメージが強い堺市だが、明治時代には市内に100近くの酒造業者があったとされる。しかし、工業化が進むと酒造りに使う地下水が足りなくなり、太平洋戦争中の空襲で多くの業者が被害を受けたことなどから、1970年ごろを最後に造られなくなった。同市北区の百舌鳥八幡宮のお神酒として愛された銘柄★「金の鳩」も空襲で酒蔵が焼失し途絶えたが、創業者のひ孫★益田美保さん(58)=イタリア在住=が昨年3月、販売を再開した。幼い頃、祖母らに「いずれ再建できれば」と言われていた益田さん。2014年の一時帰国の際、日本酒愛好家と意気投合したのを機に決意し、東京の酒造会社に醸造を頼んだ。イタリアで日本文化を紹介している益田さんは「日本大使館のパーティーで振る舞ったり、ローマ法王に献上したり。すっきりした味わいでイタリア料理によく合うと評判です」と胸を張る。

 

 

 

 

 

※「金の鳩」

https://kinnohato.jimdo.com/

 

 

少年時代を堺市で過ごした堺泉酒造(堺区)★西條裕三社長(75)が新しい酒蔵「利休蔵」を開いたのは15年3月。大阪府★河内長野市の酒蔵の社長を引退した後、地元有志の後押しを受け、約10年の準備期間を経てチャレンジした。堺出身の茶人にちなんだ清酒★「千利休」は穏やかな香りでキレが良いのが特徴。2017年は一升瓶約1万本分を仕込む予定だ。地元のお祭りやイベントにも積極的に提供。西條さんは「着実に浸透している。今後は廃業した酒蔵の関係者と協力し、当時の銘柄を再現したい」と目を輝かせる。堺市西区でこうじなどを製造販売している「雨風」も、創業年にちなみ命名したどぶろく「一六八九」を2016年7月に発売。豊田実社長(60)は「みんなで機運を盛り上げたい」と話している。

※「堺泉酒造有限会社」

590-0950堺市堺区甲斐町西3丁3-4/072-222-0707

https://sennorikyu-nihonshu.jp/

※天野酒蔵元「西條合資会社」

586-0014河内長野市長野町12-18/0721-55-1101

http://amanosake.com/

※糀屋「雨風」

593-8322堺市西区津久野町3丁32ー11/072-262-0333

https://www.amekaze-sakai.com/

 

 

《堺と酒造》資料でみる『ものづくり・堺』のあゆみより

https://www.lib-sakai.jp/kyoudo/kyo_digi/monodukurisakai/monodukuri_syuzou.htm

堺の酒造は、室町時代の『蔭凉軒日録』(15世紀半ば)にも登場しており、江戸時代に最盛期を迎えました。明治になっても100軒(多くは個人)近くの酒造業者があり、生産高は6万石を上回っていました。当時の引札(現在でいう広告チラシ)に、酒造業のものが多いことからもその繁栄ぶりが伺えます。明治12年(1879)、★鳥井駒吉が中心になって酒造組合が組織化され、「堺醸造改良試験所」を設立して酒造業の振興と醸造法の改良が行われました。その後、それまでの樽による酒の販売から、ビン詰めにして酒を販売し、日本酒は国内だけではなく、韓国・ロシア・アメリカ等の海外にも輸出されました。明治・大正期を通じて繁栄していた堺の酒造業ですが、良質の水が不足がちで、また市街地が密集する堺では酒造のための敷地を広げることが困難でした。このため堺の酒造家は、相次いで灘に進出することになって、しだいに堺の酒造は衰退していくことになりました。それでも戦前までは20数軒の酒造家が酒造りを行っていました。しかし戦時下において酒造が制限されて、18軒あった酒造業者は、昭和18年(1943)、堺酒造株式会社に一本化されました。戦争で多くの酒蔵は焼失し、戦後、堺酒造は新泉酒造と名前を変え、昭和41年に灘の酒造メーカーと合併して堺の酒造は消滅しました。ところで、灘に移った堺の銘酒ですが、金露(金露酒造)や都菊(肥塚酒造)は、平成7年(1995)の阪神大震災によって被災し、その後その幕を閉じました。

 

【鳥井駒吉】嘉永6年(1854)~明治42年(1909)

鳥井駒吉は、明治3(1870)17歳のとき家業の酒造業をつぎ、明治12年に堺酒造組合を組織化し堺の酒造業者のリーダー的存在となりました。「堺醸造改良試験所」を設立して酒造業の振興と醸造法の改良を行い、明治26年には「鳥井合名会社」として酒造業を個人経営から会社化しました。酒造業以外にも先見の明を持ち、南海電鉄の前身である阪堺鉄道を敷設するメンバーの中心になり、堺貯蓄銀行を設立するなど明治の堺の発展に大きく貢献しました。また一方で、当時ぜいたくな飲み物とされていたビールが今日のように盛んに飲まれるであろうと予測して、三島郡吹田にビール工場を建設しました。これが現在のアサヒビールです。鳥井駒吉は、堺や大阪で様々な公職につき、めざましい活躍をするとともに神仏を敬い、母に孝養をつくす人でした。大浜に酒造業者の集まる倶楽部として「旭館」を設け、「半静」「粋處」と号して、俳句や茶の湯をたしなみ、書画にすぐれました。 鳥井駒吉の生家は、代々米穀商を営む和泉屋といいました。駒吉の両親が分家して、文久元年(1861)甲斐町西2丁で酒造を創めるにあたり子息「駒吉」の一字をとって、酒の銘柄を「春駒」としました。

 

・・・孫そして曾孫が熱い思いをもって、堺の伝統文化を引継ぎ再建・再興しようとしている。頭の下がる思いで、自分のできることを少しずつでも実行・実現させていきたいものです。