《NEWS》2018.2.21朝日新聞デジタルより
香川)隔離の島の1950年代、ジオラマで再現へ
https://www.koebi.jp/news/tag/%E3%82%B8%E3%82%AA%E3%83%A9%E3%83%9E/
高松市の国立ハンセン病療養所大島青松園で、入所者が最も多かった1950年代後半の島をジオラマで残すプロジェクトが進んでいる。強制隔離の島で、ささやかな楽しみを見つけて暮らした入所者たち。その生活の様子を細部まで再現し、来園者との交流の場に展示する。ジオラマ制作は、入所者自治会からの提案を受け、大島案内などを手がけるNPO法人★瀬戸内こえびネットワーク(高松市)が昨夏から企画してきた。2010年の第1回瀬戸内国際芸術祭からアート作品づくりを建築家として支えている高松市の林幸稔さん(51)を土台や建物の設計担当に招き、鉄道ジオラマづくりが趣味の福武財団事務局長★金代健次郎さん(68)に監修を依頼した。再現するのは、入所者が700人を超えて最も活気があった昭和30年代前半の大島で、大きさは150分の1(幅2・4メートル、長さ6・2メートル)。ただ、当時の写真を集めてもモノクロで色がわからず、建物の内部もつかめなかったため、★入所者から話を聞いて、地図や設計図に落とし込む作業を続けてきた。
・・・「聞き取り」を「文字」で記録することも大切ですが、このような「形」で残すことはとても重要です。単なる「記録」を超えた「記憶」が蘇るとともに、。時間はかかるけれども、だからこそ人と人の交流までもが「表現」されていく。もっと多くのプロジェクトが始動することを願ってやまない。
《作品No. os08「物語るテーブルランナー in 大島青松園」》作:鴻池朋子
知識としての大島でなく、実際に大島を存分に散策して自然を体感し、夜は「面会人宿泊所」で、静かに人間と対話することを繰り返した鴻池。そうして感じた素朴で強いエネルギーを持つ場所としての大島と関わる作品が生まれた。それぞれの「語り」を手芸で縫う、鴻池が大島で出会った入所者の方や看護師、介護士の方々から個人の物語を語ってもらい絵にし、その下絵を元に刺繍などでランチョンマットを制作。奥能登や秋田でも行ってきたプロジェクトを大島でも展開。
《作品No. os09「{つながりの家}カフェ・シヨル」》作:やさしい美術プロジェクト
大島を味わうカフェ、大島産の新鮮な梅やかんきつ類を使ったドリンクや菓子類を提供。前回の芸術祭秋会期に★「社会交流会館」内に移転。
《千歳簡易郵便局》
761-0130香川県高松市庵治町6034-1/087-871-5541
https://map.japanpost.jp/p/search/dtl/300163729000/
・・・大島青松園の簡易郵便局が、どうして「千歳」なのか気になって調べていましたら、
《国立療養所「長島愛生園」》
701-4592岡山県瀬戸内市邑久町虫明6539/0869-25-0321
https://www.mhlw.go.jp/seisakunitsuite/bunya/kenkou_iryou/iryou/hansen/aiseien/
●日出簡易郵便局
701-4501岡山県瀬戸内市邑久町虫明6539/0869-25-1858
https://map.japanpost.jp/p/search/dtl/300154742000/
●木尾簡易郵便局
701-4501岡山県瀬戸内市邑久町虫明6253/0869-25-2272
https://map.japanpost.jp/p/search/dtl/300154805000/
・・・同じ瀬戸内海にある国立療養所「長島愛生園」においても、地名に無関係な局名となっていました。すべてではないにせよ、「所在をふせる」という意識が働いていたとも考えられます。もしそうだとしたら、本当に辛く悲しい「歴史の証人」でもあります。
【小川正子】(1902~1943)
http://akym.html.xdomain.jp/COREDRIVE/Kojima%20no%20Haru.html
医師。手記★『小島の春』で知られる。 1932年、希望して「長島愛生園」に勤務、光田健輔の指導を受ける。ハンセン病在宅患者の収容に赴き、その状況を『小島の春』に著した。同書は、その文学的価値が高く評価されて映画化し、「小島の春現象」を産んだが、一方でハンセン病に対する偏見を強化し、無らい県運動に加担したとする批判もある。
https://www.aozora.gr.jp/cards/001696/files/55153_55353.html
※「笛吹市春日居郷土館・小川正子記念館」
406-0013山梨県笛吹市春日居町寺本170-1/0553-26-5100
https://www.city.fuefuki.yamanashi.jp/shisetsu/museum/003.html
《参考》長島愛生園入所者自治会HP「邑久長島大橋開通までの歩み」
http://ww32.tiki.ne.jp/~jitikai/index.htm
http://ww32.tiki.ne.jp/~jitikai/kaga27.htm
http://ww32.tiki.ne.jp/~jitikai/kaituuayumi.htm
・・・この記念すべき橋を渡りたくて、愛生園へずいぶん昔に訪問させていただきました。
《NEWS》2018.5.9産経新聞より
「人間回復の橋」隔離の島と本土結び30年、「邑久長島大橋」元ハンセン病患者の交流後押し/岡山
二つの国立ハンセン病療養所がある岡山県瀬戸内市の長島と本土を結ぶ「邑久長島大橋」が9日、開通から30年を迎え、長島側の橋のたもとで入所者らが出席して記念式典が開かれた。橋は昭和63年、島と本土の間の約30メートルの海峡に架かった。隔離された入所者が声を上げて実現させた経緯から「人間回復の橋」と呼ばれ、元患者と島外との交流を後押しした。療養所の邑久光明園と長島愛生園の入所者は現在計約260人で、平均年齢は85歳を超える。これまでに6800人以上が亡くなった。
《もういいかい ハンセン病と三つの法律》公開:2012/映画製作委員会
550-0002大阪市西区江戸堀1-4-27-401アトリエエム内/06-6110-5059
http://mouiikai.cocolog-nifty.com/blog/
https://www.youtube.com/watch?v=-4zoMdhYM48
1907年の「癪予防ニ関スル件」、1931年の「(旧)癪予防法」、1953年の「(新)らい予防法」という三つの法律により、ハンセン病患者は強制隔離のための施設に送られた。その生活とはどのようなものだったのか。子孫断絶、堕胎、園内での労働によって生じた手足の障害といった、ハンセン病患者たちが背負った問題を証言や取材を基に明らかにする。
(監督:高橋一郎)ハンセン病問題はこれからの私たちの社会を考える上で大切なことを教えてくれます。それは「すべての病む人が安心して生きていける社会を作ること」です。人は病む存在です。どんな病を抱えていても人は平等に生きていく権利を持っています。ハンセン病問題は国家が政策として特定の病者を抹殺しようとした驚くべき事例です。さらに驚くべきことは、民主主義の時代のつい先ごろまでその政策が生き続けていたことです。私たちが病気になっても安心して生きていくため、ハンセン病問題は繰り返し語らねばならないと思います。
・・・映画に出ておられた加賀田さんが、公開の2012年に亡くなられています。
【加賀田一】
「ハンセン病療養所で死にたくない、死なせたくない」おわりに
http://ww32.tiki.ne.jp/~jitikai/kaga28.htm
2012.3.21加賀田一さん死去94歳ハンセン病理解へ尽力/長島愛生園元県人会長
お帰りなさい-。ハンセン病への偏見の解消や回復者の環境改善のために闘い、21日に亡くなった加賀田一さん(94)のお別れ法要が25日、ふるさとの鳥取市用瀬町内の葬儀場で行われた。親族や町民ら約100が故人をしのび、冥福を祈った。お別れ法要は、「最期は郷土の土に帰りたい」という加賀田さんの遺志をかなえようと、親族らが遺骨を持ち帰り、開いた。葬儀は22日に岡山県瀬戸内市の長島愛生園で済んでいる。読経が流れる中、2人が弔辞を読み上げた。医学生のころから親交があった鳥取市の「野の花診療所」院長の徳永進さんは「加賀田さんは人間が人間としてのありようについて中庸の立場で考え、悩み、実践行動を続けてきた。隔離の世界から病友と力を合わせ、石窟を掘るようにして開かれた世界をつくろうとされた」と故人に思いをはせた。焼香では、2000年3月に行われた「おかえりなさい町民集会」の様子などがスライドに映され、参列者は在りし日の姿を目に焼き付けていた。また、加賀田さんの最期をみとった施主の加賀田さゆりさんが「無知ということほど怖いことはない。★無知が偏見を呼び、偏見が差別を生むということを教えてくれた。尊い生き方を教えてくれた大恩人だった」と、親族を代表して謝辞を述べた。最後には、「いつの日にか帰らん」と望郷の念がこめられた「ふるさと」を参列者全員で歌い、加賀田一さんにお別れした。加賀田一さんは19歳で発病し、行政などの隔離政策で同園に入所。完治後はハンセン病に対する根強い偏見の解消などに尽くした。同園元鳥取県人会長。
【石山春平】
「二度と学校に来るな」と教師に言われた小6の夏から70年…差別や偏見と闘い続けてきたハンセン病回復者の半生