・・・「俳句館」には行けませんが、
《松原市非核平和展》2019年8月5日(月)~9日(金)
https://www.city.matsubara.lg.jp/event/11378.html
~次世代に語り継ごう、戦争の悲惨さ、平和の尊さ~をテーマに非核平和展を開催します。たくさんの方のご参加をお待ちしております。
〇パネル展示/★丸木美術館・ピース大阪・松原市民ふるさとぴあプラザ所蔵のパネル展示。戦時中に使われた物品や衣料品の展示コーナーを同時開催。
〇DVDの上映/戦争関係のDVD(アニメ)を上映します。
〇体験してみよう
1.「廃材を使って楽器を作ってみよう」(定員:各20名)
8月5日(月)午後2時~3時30分/市役所8階801会議室
6日(火)午後2時~3時30分/はーとビュー(人権交流センター)
2.「体験談聞き取り(語り部)」(定員:30名)
日時:8月8日(木)午後2時~3時30分/市役所8階803会議室
3.「折鶴コーナー」日時:常時開催/市役所1階市民ロビー
《NEWS》2018.10.10朝日新聞デジタルより
美術の視点で読み解く「原爆の図」広島で特別展
被爆の惨状を描き、反戦反核の象徴として広く知られる「原爆の図」。社会的役割の大きさの一方、美術的な評価の対象には長らくされてこなかった。作者の丸木位里(1901~95)・俊(1912~2000)夫妻の画業を振り返りつつ、「原爆の図」の絵画表現を読み解こうという展覧会が、広島市現代美術館(082・264・1121)で開かれている。日本画家の位里と洋画家の俊が共同で描き上げた「原爆の図」から、私たちは何を読み取れるだろうか。展示は「原爆の図」以前の夫妻それぞれの作品から始まる。水墨による独自の表現を探求した日本画家の位里と、南洋に渡り量感豊かな裸体表現を身につけた洋画家の俊。展示室に並ぶ2人の作品を追っていくと、後の「原爆の図」に通じる特徴が随所に表れていることがわかる。たとえば、位里の「牛」で画面を覆う墨の濃淡は「原爆の図」にも用いられている。「裸婦(解放されゆく人間性)」など、俊の作品群で見られる人物描写も同様だ。そして、展示は地階へと移る。緩やかにカーブした壁に沿って、縦1・8メートル、横7メートル超の「原爆の図」が並ぶ。腕を前に突き出し、裸でさまよう人。真っ赤な炎の中に横たわる赤ん坊。大画面に描かれた人物はほぼ等身大で、リアルな存在感を持って目の前に迫ってくる。全15部の連作だが、今展では第5部までと、50年代初めにつくられた第1~3部の再制作版を展示している。再制作版は、アメリカでの展示を依頼された夫妻が紛失に備えてつくったもので、構図はほぼ同じだが、タッチなど細部が異なる。広島出身の位里は原爆投下の数日後に広島を訪れ、俊も後に続いた。そして2人は、自身の体験や家族などから聞いた話をもとに「第1部 幽霊」(当初の題は「八月六日」)を制作。その後、「第2部火」「第3部水」を完成させた。全国で展示された「原爆の図」は、被爆地の惨状を伝えるメディアの役割も果たした。会場では、全国巡回の様子を紹介する資料も展示している。笹野摩耶学芸員は「異なるジャンルの2人の画家が、これだけの大作を共同で描き続けたのは珍しいことだと思う。当時の社会的需要や役割も含め、『原爆の図』を深く知ってもらいたい」と話す。
◆【原爆の図丸木美術館】◆
355-0076埼玉県東松山市下唐子1401/0493-22-3266
http://www.aya.or.jp/~marukimsn/
・・・「丸木美術館」にも行きたいなあ。
《マツバラ金網株式会社》
580-0014松原市岡6-1-25/072-333-2212
★「金網のまち松原」市役所のエントランスホールに金網で織り上げた大壁画が登場
http://www.design-mesh.co.jp/topics.htm
このたび松原の地場産業・金網のPRを目的に、ウジェーヌ・ドラクロアによって描かれた「民衆を導く自由」を金網で織り上げた壁画を松原市役所のエントランスに寄贈展示することになりました。大阪府松原市は、真珠核、印材に並んで、明治時代より「金網」が地場産業として定着しておりますが、昨今では、各種産業における製造拠点の海外移転化が見うけられ、国内外に至っては、中国製品との熾烈な競争により、改廃業している業者が後を絶たない状況です。そこで、市内の金網業者各社は、新製品の開発や新規顧客の開拓に重点を置き日々工夫を重ねております。この度は、金網で織り上げた壁画を公共の場である市役所に寄贈することにより、市にお住まいの皆様や松原の地場産業に従事している方々に、松原の金網産業の可能性と伝え「厳しい時代でも官民が手を取り合い、力を合わせて諦めずに頑張ろう!」というエールを送らせていただこうと考えました。当社がこれまで工業用に供してきた金網を建築装飾用に販売する中で、開発に成功したジャガード織機を用いた金網製網技術を活かし、躍動感のある繊細なタッチを網に託しました。緻密な図柄の表現は、何度も紋を書き換えることで実現しました。囁かではありますが、私共の情熱が地域の活性化と地場産業の発展に繋がるようにと期待し、官民が力を合わせた新しい展開につながることを願っております。
《参考》芦田秋窓と天美句会
https://www.city.matsubara.lg.jp/bunka/work/4/7699.html
浄土真宗(西本願寺)の吉井山敬恩寺(天美東8丁目)山門を入った菩提樹の下に、句碑が見られます。「越えし山 行く手の山も霞かな 秋窓」とあり、昭和59年(1984)3月に俳画結社の白扇社が建てたものです。この句の作者である秋窓の姓は芦田。名は喜三郎。秋双とも号します。明治16年(1883)、現在の大阪市中央区平野町でローソク製造業を営む家に生まれました。14歳で正岡子規の門に入り、俳句の道に進みました。同門の松瀬青々や青木月斗と共に大阪俳壇の重鎮として活躍し、現代俳画の祖とまでいわれています。秋窓は昭和24年(1949)、関西発の女性村長(兵庫県武庫郡良元村―現宝塚市仁川周辺)でも知られた弟子の岡田指月(幾)と俳画院を結成し、その3年後の27年には俳画誌「白扇」を創刊したのです。俳画は、俳味のある略筆の墨画や淡彩画で、俳句の賛を添えます。とりわけ、秋窓がめざした俳画は、大自然の中に脈々と波打つ自然のありのままを写生することでした。それは、空間を生かした俳句・画・書の不即不離の三位一体を基本とすることでもあったのです。白扇社友は、関西を中心に広がっていきましたが、なかでも敬恩寺は河内における重要な句会の場となりました。その理由は、敬恩寺の吉井章現住職の祖母である秋香(菊)が昭和26年から秋窓に師事し、同寺で天美の人々らと天美句会を楽しんだからです。大阪市阿倍野区阪南町に住んだ秋窓はお寺をたびたび訪れ、指導につとめました。時には何日も逗留し、多くの作品を襖や屏風・衝立に描き、また掛軸・色紙・短冊を残したのでした。今も、彼の遺墨が吉井家に数多く所蔵されています。まさに、秋窓俳画の寺といえるでしょう。そのうちの一つが、句碑に刻まれた作品だったのです。秋窓は昭和29年6月、同寺で行われた天美句会のあとも4、5日寺にとどまり、座敷の入口側と右側襖の各四面すべてに高野山(和歌山県)の天をつらぬく杉木立を描きました。そして、右側襖絵に「越えし山 行く手の山も 霞かな」と賛したのです。また入口襖絵には「月あかり いつか夜明けて ほととぎす」とよみ、引き手の下に「昭和29年6月 天美句会の日 吉井山にて 秋窓」としたためています。秋窓・白扇社との機縁をつくった秋香は昭和31年、59歳で亡くなりました。秋窓も41年に83歳で逝去しますが、義母秋香を継いだ吉井秀風(英子)さんが秋窓・指月らのあと、今では白扇社を主宰し、敬恩寺などで俳画を広めています。天美東8丁目の池内総合会館前に秀風さんの「ふれ合ひの 和が輪をひろぐ うらゝかや」の句碑が平成8年3月、池内自治連合会によって建てられました。秋窓の遺志を受けつぎ、お寺の前坊守として、地域のコミュニケーションを願う秀風さんの気持ちがよみとれるでしょう。
★布忍の西除川を詠む
https://www.city.matsubara.lg.jp/soshiki/hisyo_kouhou/6/2/3/4522.html
江戸時代、市域の西部を流れる西除川は★布忍神社(北新町2丁目)あたりでは★布忍川ともよばれていました。河内のガイドブックである延宝7年(1679)刊の『河内鑑名所記』は、その布忍川を狂歌や俳句の題材として好んで載せています。布忍川は、当時の松原における名勝地でした。平安時代の創建といわれ、本尊十一面観音の信仰を集めた向井村(現北新町)の永興寺(「歴史ウォーク」26・27)や、同じく十一面観音で有名な高木村(現北新町)の東之坊(布忍寺)が川の流れに沿って、境内地を隣りあわせていたことから、人々は布忍に足を運んだでしょう。『河内鑑名所記』の編者である三田浄久は柏原の豪商でしたが、京都の松永貞徳に師事し、北村季吟や井原西鶴など著名な文人とも交遊して、狂歌や俳句に秀でていました。同書は、巻4の中で布忍(「布瀬といひならハす」と注記しています)の項を設け、布忍川を次のように詠いました。地元布忍の寺内栄貞が「観音のおまへにかゝるかねの緒ハ所からとて布忍なりけり」と狂歌を詠んだ後、同じ布忍の薮貞弘が「布忍川そこをひくなとゆふたちのたちまち風のさき手成けり」と続きました。そして、大和の宇陀(奈良県)から来た岡崎秀綱が「夕たちに大水出れは布忍川はゝは何丈何尺かある」と添えました。これをうけて、三田浄久が「夕たちに大水出れハ布忍川浪はしハにてはゞもしられす」と返したのです。続いて、これらの狂歌のあと、次の7句もの俳句が並べられています。
「糸による物や布忍の川柳」(向井村の安求)「卯の花の波にさらすか布せ川」(現羽曳野市島泉の光栄)「波やしハよするちゝミの布瀬川」(現河南町中村の森政公)「布瀬川鮎のさしみや糸造」(田井城村の平本重成)「涼しさやきても見よかし布瀬川」(現羽曳野市島泉の清重)「川つらをさらす布忍の氷かな」(現八尾市萱振の好貞)「氷日や水張をする布忍川」(宇陀出身の谷則武。当時は南都「現奈良市」に住む)
こうした歌から、夕立による大水で水量が激しくなったさまを想像させます。一方、句からは川柳や卯の花が川面に映えるのどかさとともに、涼しげで清らかな水の流れや氷の張った凛とした寒気のきびしさの情景もよみとれます。のち、享和元年(1801)に刊行された『河内名所図会』でも布忍川の項目をたてて、先の秀綱と浄久の狂歌を引用しています。布忍では、宝永2年(1705)に名所・旧跡や風景を選んだ「布忍八景」絵馬が布忍神社に奉納されていますが、布忍川の景観は、多くの人々の目を楽しませたのでした。
★『河内鑑名所記』の中の狐塚
https://www.city.matsubara.lg.jp/soshiki/hisyo_kouhou/6/2/10/4682.html
陰陽師・安倍晴明は、阿倍野(大阪市)にいた安倍保名が信太の森(和泉市)に住む人間に化けた女狐と契りを結んで生まれた子どもだと伝えています。有名な「恋しくば 尋ね来て見よ 和泉なる 信太の森の うらみ葛の葉」は、晴明に狐の姿を見られた母親が身を隠して保名に書き残したものでした。まさか晴明が狐の子であるはずもありませんが、中世から近世にかけて、延々とそのように言い伝えられてきました。江戸時代前半の延宝七年(1679)に発行された『河内鑑名所記』の中にも、次のように信太の森の狐が登場します。
塚本の狐 是ハ布忍に塚有。泉州信田の狐ハ女、塚本の狐ハ男、しのたへ通ひけるとそ。両所狐の名所なり。さすかなる つかもと茂る 木立かな 一志 塚もとの きつねはけてや 女郎花 栄貞
『河内鑑名所記』は、河内の旧跡や見所をガイドした地誌ですが、布忍の塚本には狐塚があって、信太の森の女狐に通う男狐の名所として紹介しています。布忍の寺内栄貞や同じ布忍の一志は、人間に化けた塚本の狐を題材に★俳句も添えました。狐塚については、我堂村(天美我堂)の北端、現在の府道我堂-金岡線が西除川に架かる天美大橋の北側にあった小山を狐塚と呼ぶことから、同塚の可能性が高いでしょう。松原市教育委員会では、狐塚古墳跡(全壊・前方後円墳)として文化財分布図に登録しています。享和2年(1802)6月の「東我堂村明細書上帳」に、西除川に関して「高木村北領内より西へ流れ、夫我堂村北領内に当り、字橋詰より字狐塚迄凡六十五間程領内ニ而」とあるように、狐塚は我堂村の字名としても知られています。我堂は今でこそ天美地区に属していますが、もともとは布忍地区に含まれていたようです。文禄3年(1594)の検地帳に「丹北郡布忍郷之内我堂村」とあり、江戸時代には東我堂村と西我堂村に分かれていました。狐塚の南方300メートル、現在の松原警察署我堂町交番あたりは塚本とよぶ字名ですので、我堂村集落の北部が塚本の狐の生活圏と伝えられていたのでしょうか。塚本の狐は、さしずめ布忍の安倍保名ともいえるでしょう。和泉市葛の葉町には、今も女狐を祀る信太森葛葉稲荷神社が鎮座するなど、狐伝承は世間に知れわたっていますが、同じように名所といわれた塚本の狐が忘れられてしまったことは残念なことです。
《松原市新図書館》
https://www.japandesign.ne.jp/kiriyama/234_maru_architecture/matsubara-library/
大阪府松原市における図書館の計画です。松原市周辺には、古墳やため池などが多くあります。本計画敷地も文化施設が多く集まる中央公園の親水空間であるため、池の一角です。本計画では、ため池を埋め立てず古墳のように池に浮かぶような佇まいを持った図書館を計画しています。600mmのRC外壁と鉄骨造により軽やかにスキップフロアにしており、外部環境を適材適所に取り入れた多様な居場所を構成しています。
http://maruarchi.com/w_matsubara.html
★高野洋平+森田祥子(建築家)/共同設計:鴻池組
高野洋平:1979年愛知県生まれ。名城大学理工学部建築学科卒業、千葉大学大学院博士後期課程修了。博士(工学)。佐藤総合計画を経て、2013年よりMARU。architecture共同主宰。
森田祥子:1982年茨城県生まれ。早稲田大学理工学部建築学科卒業、同大学大学院修了。NASCAを経て、2010年MARU。architecture設立。
主な受賞として、松原市新図書館設計・施工者選定プロポーザル 最優秀賞、日本建築家協会優秀建築選2017(間の間の家)、グッドデザイン賞(二重窓の集合住宅)、東京都建築士会住宅建築賞(Around the Corner Grain)、土佐市複合文化施設設計者選定プロポーザル 最優秀賞など。
・・・竣工が待ち遠しいですね。
《まつばらテラス(輝)》
580-0044松原市田井城3丁目104番/072-330-0326
https://www.mizuno.jp/facility/osaka/matsubara_terrace.aspx
市の中心部(松原市田井城)に位置する。市立図書館、市民体育館、市文化会館など市の施設が集中する一角だ。地上3階建て・鉄骨造、延べ面積3641m2で、設計・施工者★大和リース。松原市では、設計から施工までを一括管理で行う事業者を、公募型プロポーザル方式で募集・選定した。契約金額は実施設計と建設工事合わせて10億5840万円(消費税含む)。1階には子育て支援センター「キラキラひろば」、陶芸室、交流・情報展示コーナー、事務室などを、2階には研修室、会議室、音楽室、フィットネスルームを、3階には多目的ホール、工芸工作室、和室などを配している。音楽室の1つは地元出身の人気ロックバンド★「flumpool(フランプール)」が監修したことでも話題となった。
・・・コンサートも行きたいなあ。