《オキナ酒造》浅野誠三
583-0854羽曳野市軽里3-6-5/0729-56-0003
日本酒の蔵元。原料米は山田錦。仕込み水は金剛葛城山系の伏流水。蔵元の「オキナ酒造」は天保6年(1835)創業、平成15年(2003)廃業。蔵は羽曳野市軽里にあった。近年は「近つ飛鳥」という銘柄を造っていました。
《参考》羽曳野市長の広報コメント・平成31年度施政方針
市制施行60年を迎えた本年、平成31年度からさらに「令和元年度」となる本年度は、羽曳野市にとってより安心安全なくらしと、
魅力ある街づくりを進め、活力にあふれ、未来を見据え「選ばれる街」として継続的な発展をめざします。
「魅力発見 賑わいと創造にあふれるまち」
◇ 地域や行政情報の動画制作・発信
◇ 「出張!なんでも鑑定団 in 羽曳野」及び「俳句王国がゆく」の公開収録
★ 浅野家住宅(旧オキナ酒造)の交流拠点としての整備
◇ 羽曳野版DMO「(仮称)はびきの観光・移住創造かんぱにー」の設立
◇ 専門家の指導による観光ボランティアガイドの育成
◇ 果樹・花苗育成事業の拡充・発展(大阪府立環境農林水産総合研究所への交流派遣)
◇ 羽曳野市中小企業振興基本条例の制定
「歴史・文化が息づき 心身ともに躍動するまち」
★ 百舌鳥・古市古墳群の世界文化遺産登録に向けた環境整備
◇ 墓山古墳の史跡指定地の公有化、峯ヶ塚古墳の発掘調査などの実施
◇ 新市民プール管理棟等建設、第 2 期整備に向けた基本計画の策定
◇ 国立国会図書館デジタル化資料の閲覧・複写サービスを開始
《羽曳野市歴史的建造物の保存及び活用に関する条例の制定について》令和元年6月3日提出
本市が取得した★浅野家住宅(旧おきな酒造場)について、その歴史的に価値ある意匠や形態等を保存及び活用するための措置並びに安全性の向上及び維持を図るためこの条例を制定する。
・・・さて、羽曳野市では「旧オキナ酒造」が整備されるとうことで、ちょっと楽しみになりました。続いて、藤井寺市をのぞいてみましょう。
★「小山団扇」
《NEWS》2017.3.25産経ニュースより
伝統の小山団扇、藤井寺に「里帰り」/講談師・旭堂南陵さんが寄贈
戦国時代に起源を持ちながら、現在では職人がいなくなり、製造が途絶えた大阪府藤井寺市の伝統工芸品「小山団扇」の昭和初期のものが見つかり、市に寄贈された。寄贈したのは兵庫県西宮市の講談師、大阪芸術大学の客員教授としても活躍する講談師★旭堂南陵さん(67)。
http://www.osaka-kodankyoukai.com/
「これを機に多くの市民に知ってもらえれば」と話している。小山団扇は戦国時代★武田信玄(1521~1573)に仕えた知将★山本勘助が敵方(三好氏)の動きを探るため、現在の藤井寺市小山地区に潜伏していた際、隠れみのの職業として作ったことがルーツとされ、世話になった人に伝えたのが始まりとされる。一本の竹を細かく裂いた骨組みが特徴で、徳川将軍家や皇室への献上品としても知られ、江戸時代の観光ガイドブックでも紹介された。製法は一子相伝とされ、明治以降は代々「中野茂八郎(もはちろう)」という名前を継いだ職人が手がけてきたが、昭和45年に最後の茂八郎氏が死去、技術は途絶えた。今回南陵さんが寄贈したのは今年1月に京都の古本市で入手した黄色と濃い桃色の小山団扇2本。これ以外に、団扇本体を守るカバーや、箱に入っていた史料なども含まれる。史料の中には中野氏の名や小山団扇の由来、「昭和五年七月」という日付のほか値段表が記された解説書も。同書によると、寄贈された団扇は骨の数が80本ある「三號形(さんごうがた)」で当時の価格で2円程度。カレー1人前の値段が数十銭の時代で、やや高価な品だったことがわかるほか、最高級品は6円という記載もあるという。また、貴重な団扇用カバーもあり、今回の2本の団扇も、カバーの効果で歳月による変色はみられないという。有効な活用法を考えていた南陵さんが、知人の勧めなどもあり、藤井寺市へ贈ることを決めたという。南陵さんは「市民の間でも知らない人が多い。これを機に、多くの人に知ってほしい」。松浦信孝副市長も「ご厚意を生かし、何とか市民の皆さんの目に見える形で魅力をPRしていきたい」と語った。
小山うちわは1本の真竹で作られ、丸い柄の素朴な形で丈夫なのが特徴。一子相伝の秘法として継承されていたが、1970年に最後の代が亡くなり、技術が途絶えた。現存するものは少なく、地元商工会が復活に取り組んでいる。
※《藤井寺市商工会》
583-0027藤井寺市岡1-2-16/072-939-7047
http://www.f-sukiyanen.or.jp/index.html
【山本勘助】(1493、1500~1561)
近世には武田二十四将に含められ、武田の五名臣の一人にも数えられて、武田信玄の伝説的軍師としての人物像が講談などで一般的となっているが、「山本勘助」という人物は『甲陽軍鑑』やその影響下を受けた近世の編纂物以外の確実性の高い史料では一切存在が確認されていないために、その実在について長年疑問視されていた。しかし近年は「山本勘助」と比定できると指摘される「山本菅助」の存在が複数の史料で確認されている。しかし、史実と認められた情報が極めて少なく、それだけに★古今の創作家の想像力を大いに刺激してきた。
なお、当て推量なことを「山勘」★「ヤマカン」と言うが、一説には山本勘助の名前が由来とされている(大言海、辞海)。
《参考》「三好氏」
信濃源氏の一族で鎌倉時代の阿波守護・小笠原氏の支流。室町時代には阿波守護細川氏の守護代を務め、戦国時代に細川氏に対して下剋上を起こし、阿波をはじめとする四国東部のみならず畿内一円に大勢力を有し、三好政権を築いた。
本姓は源氏。清和源氏(河内源氏)の名門小笠原氏(信濃源氏)の庶流とされ、鎌倉時代の承久の乱で佐々木氏に代わって阿波守護となった阿波小笠原氏の末裔。阿波三好郡を本拠にしたことから三好氏を称した。鎌倉時代後期には既にその名が阿波国内で散見されるようになる。南北朝時代の初期は、南朝方として活動しており、北朝方の細川氏と対立していた時期もあった。しかし南朝が不利になり、細川氏が室町幕府内でも勢力を拡大し強大化するとそれに服した。阿波では細川氏の庶流の一つである阿波細川家が代々守護を務めたが、三好氏は、この阿波細川家の被官として勢力を伸ばす。
・・・歴史を紐解くのはこれぐらいにして、暑い夏だからこそ日本の伝統文化「蚊取線香」「冷素麺」、そして★「団扇」づくりに参加します。