・・・小山団扇は戦国時代★武田信玄(1521~1573)に仕えた知将★山本勘助(1493、1500~1561)が敵方(三好氏)の動きを探るため、現在の藤井寺市小山地区に潜伏していた際、隠れみのの職業として作ったことがルーツとされ、世話になった人に伝えたのが始まりとされる。ということなので、「小山地区」を調べてみました。
《参考》「河内小山城跡」
583-0037藤井寺市津堂44
河内小山城は、南北朝時代の初頭、八尾★別当兼幸と対抗した南朝方★志貴右衛門が拠った城と伝えられており、創築年代は南北朝以前かと思われるが、その当時は砦であったといわれている。その後、「高屋城主」で河内国守護職★畠山義就が重臣安見備中守清時を「小山城主」とし、以後、安見清時ののち、清範、友重と数代居住した。永禄九年(1566)、小山城は★三好康重に攻められ落城し、安見友重は交野城へ退いた。その後、小山城は三好氏の支配下に入ったが、天正元年(1573)★織田信長軍の若江城攻めの時、小山城も攻撃され落城した。同三年、信長の河内の諸城破却によって廃城になったと思われる。
小山城は、★古墳を利用した城砦の代表的な城である。古墳は「城山古墳」と呼ばれ、古市古墳群の最北端にに位置し、羽曳野丘陵の支脈である恵我丘陵の北端にある。城山古墳は、南東面する巨大な五世紀中葉の前方後円墳で、前方部幅118m、後円部の径126m、墳丘全長205m、周濠は幅40~60m、さらにその外側に幅90mの周庭帯がある。これらの規模は、応神陵につぐ大王陵と推定されている。城跡には、土塁・堀などの城独自の遺構は認めがたいが、小字図によれば、墳丘部分が「本丸・二の丸」周濠部分が蓮池(堀)として利用されたと推定でき、この中核的部分が古墳の形状をほぼ残しているのは貴重な存在といえる。古墳をそのまま利用したことから、大幅な築造工事を加えずとも、城として十分使用しえたことが推定できる。なお小字図では、西方の平地に「殿町」があり、武士の日常的居住地はここにあったと思われ、中世城郭のプランとして城(砦)と下小屋(陣屋)との関係を示す点興味深い。
・・・多くの古墳は当然のこととして、「小山城」「高屋城」など活用?されてきました。
《参考》「藤井寺市ができるまで」/web風土記ふじいでらより
http://www.ne.jp/asahi/fudoki/fujiidera/05)rekishi/3)dekirumade/dekiru.htm
●江戸時代は14の村/現在の藤井寺市域には、江戸時代の終わり頃には14の村がありました。これらの村は河内国内の3つの郡に属する村でしたが、その支配関係は複雑でした。江戸時代になってから大坂の町は幕府の直轄地となり、現在の大阪府である摂津・河内・和泉の国でも、幕府領と藩領・旗本領などが入り組んだ状態になっていました。他の地方の国のように1つの藩が広い地域を一括支配するような形態ではなかったのです。これは、それまで大坂の地を根拠地としていた豊臣氏の勢力を排除すると共に、経済的・軍事的に重要な都市であった大坂や堺を直接支配することを目指したものでした。藤井寺市域にあった14の村では、野中・岡が幕府領で、大井・国府・林・古室が和泉国伯太藩領、船橋・藤井寺が相模国小田原藩領、沢田が上野国沼田藩領、★津堂・志紀小山・丹北小山・北條が「旗本知行地」となっていました。また、道明寺村は一村まるごと道明寺の寺領であり、古室の一部も社領として誉田八幡宮の支配を受けました。3つの別々の郡に属するこれら14ヵ村は、明治時代になってからも、しばらくの間はそのまま郡の区分が引き継がれていきました。明治22(1889)年に全国に市町村制度が施行され、全国各地で最初の大合併が行われました。その時に、14の村が、まず4つの大きな村に合併・統合されました。その後、旧郡の区域を越えて合併がくり返され、70年後には現在の藤井寺市域が初めて1つの行政区となりました。さらにその7年後、市制施行によって藤井寺市が誕生したのです。
●14ヵ村の支配と管轄/ 明治元年、14ヵ村の内、藩領以外の幕府領・旗本知行地・寺社領の7村は大阪府司農局(後に南司農局)の管轄となりました。明治2年1月には司農局が大阪府から分離して河内県となり、道明寺・北條・船橋・古室・藤井寺・野中・岡の7ヵ村は河内県の管轄となりました。大井・国府・沢田・林・★小山・丹北小山・津堂の7ヵ村は「藩領」のままでした。明治2年8月には河内県が堺県に併合され、所属の7ヵ村は堺県の管轄に変わりました。翌明治3年3月には、「宇都宮藩預所」となっていた★志紀小山・丹北小山・津堂の3ヵ村も「堺県」の管轄に入りました。そして、明治4年7月に廃藩置県が行われると、伯太藩領となっていた大井・国府・林の3ヵ村は伯太県に、沼田藩領となっていた沢田は沼田県(後群馬県)の管轄となりました。さらに同年11月の府県の整理併合により伯太県の3ヵ村と群馬県の沢田も堺県に編入されました。これにより、14ヵ村の全てが堺県に属するところとなったのです。この時の堺県は和泉・河内の旧2ヵ国全域がその領域でした。明治9年4月には奈良県が一度廃止されて、旧大和国全域が堺県に併合され、大変広域な堺県となりました。この堺県も明治14年2月に廃止となって大阪府に併合され、その後、明治20年11月に奈良県を分離して今日に至っています。
●「郡」の区分/ 複数の村をまとめる単位として「郡」がありますが、明治政府は郡に替えて戸籍法にもとづく「区制」を導入しました。堺県では明治5年2月に施行されました。藤井寺市域では、旧志紀郡の9ヵ村が第18区、旧丹北郡の2ヵ村が第19区、旧丹南郡の3ヵ村が第21区となりました。さらに、明治7年1月には「大区・小区制」が施行されましたが、従来の村の単位や習慣を否定する制度が不評で、政府は明治11年に「郡区町村編制法」を制定しました。堺県では明治13年4月に施行されています。郡や町村の名称は江戸時代のものを継承することが定められました。その後、明治29年の再編で、藤井寺市域周辺の郡は、中河内地郡と南河内郡に再編成されました。
《参考》「長尾街道」
https://www.city.fujiidera.lg.jp/kanko/spot/kankospotall/1459306821538.html
日本書紀の推古天皇二十一年(613年)の条に「難波より京(飛鳥)に至る大道(おおじ)を置く」と記されていた日本最古の「官道」である★「竹内街道」の北1,908m(但し計画値)に平行して整備された。古くは「大津道」と呼ばれた。大津の名は、羽曳野市北宮にある式内大津神社に由来するといわれるが、大和川と石川の合流地点が大津と呼ばれた時期があったことがあり、その大津に至る道という意味で大津道といい、細長い海岸浜堤を長狭(ながお)といい、その特徴から長尾街道と名が付いたという。奈良時代以降になると、その北側に「竜飛道」(のちの奈良街道)が整備された。河内国府(現在の土師ノ里駅付近)で本道と合流し、国分(現在の河内国分駅前)で分かれた、難波京・住吉津と飛鳥・平城京を結ぶ★重要な経路となった。河内国と大和国の間の山越えルートは、明治以前は国分村六軒(柏原市国分本町7丁目付近)から現在の近鉄関屋駅・二上駅の北側を通った「関屋越え」のルートであったが、明治13年(1880年)に田尻峠越えのルートが開削された。さらに近辺での付け替えにより現在の国道165号の道のりとなった。
・・・これらの街道や寺社に沿って、にぎわってきたことでしょう。そういう中にあって、「小山団扇」は人気があったと考えられます。
・・・お土産として「小山団扇キット」は販売されていますが、やっぱり講習会に参加するのがいいと思います。
・・・講習参加が2名だったこともあり、とても丁寧に指導していただくことができました。さらに苦労話や極意など、有意義で満足できる「小山団扇」を完成させることができました。このような素晴らしい伝統文化を大切にしていきたいと思います、ありがとうございました。
・・・自宅にもどり、教えていただいた極意をやったおかげで、見事に立ちました。これぞ「小山団扇」です。カッコイイ。