風の王国(12)便器 | すくらんぶるアートヴィレッジ

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・・・映画「かぞくわり」で最も印象に残ったのは、物語も最終段階にさしかかり、家族がワゴン車の中で「便器」を中央にして語り合うシーン。デュシャンの「便器(★泉)」に衝撃を受けて以来、コダワリ続けて来た私としては嬉しくもあり、再考を促してくれる映画でした。

 

《ミツカン水の文化センター》

http://www.mizu.gr.jp/index.html

「人と水とのかかわり」によって生み出されてきた生活様式を「水の文化」と捉え、活動を展開しています。この活動により「水」への感謝の気持ちを持って「水」の大切さを伝え、多くの方に「水」の恵みに気づいていただければ幸いです。センターから発信する機関誌やイベントなどを通じて、あなたも「水の文化」に触れてみませんか?

創業の地である愛知県の知多半島は水が得にくい土地柄だったため、文化元年(1804年)の創業時より、良質な醸造酢を作る為に山から木樋で水を引くなど、水の苦労を重ねてきました。また、廻船で尾張半田から江戸まで食酢を運んで社業の基礎を築くなど、水と深いかかわりを持ってまいりました。 そこで、1999年1月に「水の文化」に関する様々な研究や情報交流活動を推進していく母体として「水の文化センター」を設立し、2018年に20周年を迎えました。

◆【MIZKAN MUSEUM】◆

475-0873愛知県半田市中村町2-6/0569-24-5111

https://www.mizkan.co.jp/mim/

 

 

★機関誌『水の文化』31号「脱水(みず)まわり」2009年7月

http://www.mizu.gr.jp/kikanshi/no31/index.html

原始、水の近くに炉をつくり屋根を掛けたものが「家」になりました。トイレは屋外、風呂は沐浴か行水。そんな暮らしのスタイルは、加圧水道が敷設されるまでほとんど変わることなく続いてきたのです。水道の蛇口が流しの上にきたときから「家」における水の使われ方が激変しました。竃の火がガスに置き換わったこともその変容を後押ししました。それからわずか50年余「家」における、水にかかわるものは「水まわり」と総称されるようになっています。ルーツを忘れ一緒くたになってしまった「水まわり」。もう一度一つひとつの働き意味を思い起こすことで暮らしを豊かにするための水の周りの新しいスタイルが生み出せるかもしれません。

http://www.mizu.gr.jp/kikanshi/no31/04.html

現在の都市生活者にとって、なくてはならない水洗トイレ。その大切な設備が、産業史の視座から語られることは、かつてありませんでした。 開発者をはじめ、節目節目に現れたキーパーソンに温かいまなざしを注ぎながら、膨大な資料を収集し、まとめ上げられた★前田裕子さん。衛生設備の生産技術改革が、日本の金具産業を一新させるほどのイノベーションを引き起こしたように、★人類に不可欠なトイレには、再び、新たなイノベーションが期待されています。

これからの一番大きな課題は、★環境問題との折り合いをどうつけていくか。日本の場合は欧米と違って、し尿が肥料として重用され、農村で管理していたという歴史があります。そのことでトイレの水洗化が遅れたわけですが、その時代はそのやり方でちゃんと循環し、機能していたわけです。それが下水道が完備するまでの過渡期には、あまり性能が良くない単独浄化槽を使ったり、海洋投棄したりしていたわけですよ。単独浄化槽の新設が禁止されるのは、ようやく2000年になってから。それ以前に設置されたものは、そのまま放置されている状況です。1989年の統計(石井勲・山田國廣共著『浄化槽革命―生活廃水の再生システムをめざして』合同出版1994)によれば、水洗化人口の実に20%が単独浄化槽を使っています。だから、衛生的な水洗トイレといいながらも、★水に流して目の前から消えてなくなっているだけで、決して本当の「衛生的」な設備にはなっていなかった。それは欧米でも経験され、今日なお世界各地でみられる状況でした。こういったことは、お百姓さんがし尿を肥料として使っていた時代よりも、★ある意味では後退したと言っていいでしょう。世界人口の増加と水資源の分布、水質汚染の進行などを考慮し、下水道が完備しながらも、なおかつ循環型システムが求められるようになった今、人類に不可欠なトイレには、再び、新たなイノベーションが期待されているということです。

 

・・・「水(泉)」そして「便器」を再考することは、「家族」を再考することなのかもしれない。

 

【前田裕子】

愛知県生まれ。津田塾大学学芸学部国際関係学科卒業。一橋大学大学院社会学研究科修士課程修了。神戸大学大学院国際協力研究科博士課程修了。博士(学術)。現在、神戸大学大学院経済学研究科講師。

 

 

・・・さらにもう一つ、この映画に登場する★「穴」。実際には「屯鶴峯(どんづるぼう)地下壕」ですが、「穴」についても考えてみたいと思います。

 

《参考》NPO法人「屯鶴峯地下壕を考える会」

http://dondurubou.web.fc2.com/

屯鶴峯地下壕 軍部が官庁や放送関係施設を移転させる計画だった松代大本営の象山地下壕(長野市、総延長5.9キロ)に次ぐ規模で、西日本最大級。2000万~1500万年前の二上山の噴火で火山灰などが堆積した凝灰岩の地層は、掘削しやすく地下壕に適していたとみられる。各地の古墳で石棺などに用いられるなど、地質学や考古学上も貴重な一帯とされる。地名は、白い地層が「鶴が屯(たむろ)する」様子に似ていることに由来。

 

《参考》ビジネス2018年6月22日掲載

「自分に合った仕事なんて探すな」養老孟司先生の語る「働くってこういうこと」

ベストセラー『バカの壁』で知られる養老孟司さんは、同書の続編にあたる著書『超バカの壁』で、若者に向けて、自身の「仕事論」を語っている。

(ニートなど働かない人を)調査をすると、働かないのは「自分に合った仕事を探しているから」という理由を挙げる人が一番多いという。これがおかしい。20歳やそこらで自分なんかわかるはずがありません。中身は、空っぽなのです。仕事というのは、★社会に空いた穴です。道に穴が空いていた。そのまま放っておくとみんなが転んで困るから、そこを埋めてみる。ともかく目の前の穴を埋める。それが仕事というものであって、自分に合った穴が空いているはずだなんて、ふざけたことを考えるんじゃない、と言いたくなります。仕事は自分に合っていなくて当たり前です。私は長年解剖をやっていました。その頃の仕事には、死体を引き取り、研究室で解剖し、それをお骨にして遺族に返すまで全部含まれています。それのどこが私に合った仕事なのでしょうか。そんなことに合っている人間、生まれ付き解剖向きの人間なんているはずがありません。そうではなくて、解剖という仕事が社会に必要である。ともかく★そういう穴がある。だからそれを埋めたということです。何でこんなしんどい、辛気(しんき)臭いことをやらなきゃいけないのかと思うこともあるけれど、それをやっていれば給料がもらえた。それは社会が大学を通して給料を私にくれたわけです。生きている患者さんを診なくていいというのも、解剖に向かった大きな理由です。一番助かったのは、もうこれ以上患者が死なないということ。その点だけは絶対安心でした。人殺しをする心配がないからです。しかし患者さんを診るという行為から逃げ出しても、遺族の面倒だとか何とかもっと大変なことがありました。社会、仕事というのはこういうものです。いいところもあれば、悪いところもある。患者の面倒の代わりに遺族の面倒を見る。全部合わせてゼロになればよしとする。あとは目の前の穴を埋めていれば給料をくれる。仕事とはそもそもそういうものだと思っていれば、「自分に合った仕事」などという馬鹿な考え方をする必要もないはずです。NHKの「プロジェクトX」に登場するサラリーマンも、入社当初から大志を抱いていた人ばかりではないでしょう。合うとか合わないとかいうよりも大切なのは、いったん引き受けたら半端仕事をしてはいけないということです。一から十までやらなくてはいけない。それをやっていくうちに自分の考えが変わっていく。自分自身が育っていく。そういうふうに仕事をやりなさいよということが結論です。最近は、穴を埋めるのではなく、地面の上に余計な山を作ることが仕事だと思っている人が多い。社会が必要としているかどうかという視点がないからです。余計な橋や建物を作るのはまさにそういう余計な山を作るような仕事です。もしかすると、本人は穴を埋めているつもりでも実は山を作っているだけのことも多いのかもしれません。しかし実は★穴を埋めたほうが、山を作るより楽です。労力がかかりません。普通の人はそう思っていたほうがいいのではないかと思います。俺が埋めた分だけは、世の中が平らになったと。★平らになったということは、要するに、歩きやすいということです。山というのはしばしば邪魔になります。見通しが悪くなる。別の言い方をすれば仕事はおまえのためにあるわけじゃなくて、社会の側にあるんだろうということです。若い人が「仕事がつまらない」「会社が面白くない」というのはなぜか。それは要するに、自分のやることを人が与えてくれると思っているからです。でも会社が自分にあった仕事をくれるわけではありません。会社は全体として社会の中の穴を埋めているのです。その中で本気で働けば目の前に自分が埋めるべき穴は見つかるのです。社会のために働けというと封建的だと批判されるかもしれません。「自分が輝ける職場を見つけよう」というフレーズのほうが通じやすいのかもしれません。しかしこれは嘘です。まず自分があるのではなく、★先にあるのはあくまでも穴の方なのです。向き不向きだけでいえば、私は仕事に向いていないとずっと思ってきました。★仕事よりも虫取りに向いていると今でも思っています。虫取りをしている間、自分で全然違和感がない。ただ、そればかりやっていても食っていけないということはわかっています。向いている虫取りをするためには、どうすべきかと考える。すると、財産も何もないし、とりあえず働くしかない。だから仕事には向いていないと思うけど、やめろと言われるまではやっていいのではないかと思っているのです。本気で自分の仕事は天職だと思っている人はめったにいません。仮に虫取りが向いていても、それが仕事になっていいかというと、そうでもないでしょう。もしも虫取りが仕事になるとしてそれが嬉しいかといえばうっかりすると重荷になってしまうかもしれない。★楽しんでいられることというのは、ある程度無責任だからこそなのです。

 

 

・・・「穴で暮らす」という文脈ではありませんが、生きること・働くことと「穴」の関係についてとても参考になる考え方です。さらに、

 

《縄文人はなぜ死者を穴に埋めたのか(墓と子宮の考古学)》/著:大島直行/国書刊行会2017

https://www.kokusho.co.jp/np/isbn/9784336061959/

あまたの文献を渉猟・博捜して、縄文人の死や生に対する考え方、墓をつくって死者を葬ろうとした彼らの心、《再生シンボリズム》とその中核をなす《子宮》の意味に迫る、縄文解釈のドキュメンタリー。

 

《参考》「吉見百穴」埼玉県比企郡吉見町大字北吉見324/0493-54-4541

http://www.town.yoshimi.saitama.jp/guide_hyakuana.html

http://yoshimi-kanko.net/kanko/hyakuana/

国指定史跡「吉見百穴(よしみひゃくあな)」は、今から約1300年前の古墳時代終末期の横穴墓群です。文献によれば、江戸時代の半ば頃から、“不思議な穴”として人々に興味を持たれていたとか(2014年7月現在、219個の穴)。明治20年、当時帝大(現東京大学)大学院生だった坪井正五郎博士が発掘調査を行い、多数の遺物(人骨、玉類・金属器・土器類など)が出土しました。坪井氏はこの横穴を“土蜘蛛人(コロボックル人)”の住居として作られたもので、のちに墓穴として利用されたものであると発表。しかし、大正時代になり、古墳時代の後期に死者を埋葬する墓穴として作られたものであることが明らかになりました。横穴群のある岩山に、「地下軍需工場跡地」の洞窟もあります。戦時中(昭和19~20年)に大規模な地下工場の建設が行われ作られたもの。現在公開されているものは、左右500メートルにわたり山腹に掘られた一部となります。2、3か所の横穴の中に、「ヒカリゴケ」が自生しています。幻想的なエメラルド色を放つ、このヒカリゴケが関東平野にあるのは植物分布上きわめて貴重とされ、昭和3年に国指定天然記念物に指定されています。生育環境の変化に敏感で、その個体数は減少し続けているといいます。そのため、日本では環境省によりレッドリストの準絶滅危惧にも指定されている状況です。日本国指定の天然記念物「ヒカリゴケ」を見られるのは、埼玉県では「吉見百穴」だけです。

 

 

★又吉直樹のいつか見る風景/朝日新聞2017年8月5日

傾いた机を滑る味噌汁 熱がる次姉、大笑いする父 吉見百穴(埼玉県吉見町)

電車の車窓から夜の街を眺めていると、灯りの一つ一つに生活があるという当然のことに感動することがある。一人で暮らす部屋もあれば、家族が暮らす部屋もある。恋人同士が一緒に暮らしはじめたばかりの部屋もあるだろうし、大切な人が出ていったあとの部屋もあるだろう。灯りの数だけ誰かがまだ起きていて、なにか活動をしているのだ。灯りが消えている部屋だって、誰かが眠っていたり、もの思いに耽っていたりするのだろう。子どもの頃、狭い部屋に家族五人が揃って食事をとったことをたまに思い出す。父親が不在の時は母や姉達と落ち着いて話せるので、それはそれで心地良かったが、父もそこにいて家族全員が揃った時の、あの妙な安心感はなんだったのだろう?

灯りの下に生活/父親はイカの刺し身を食べながら、野球中継を見ている。台所から揚げ物の油がパチパチと音を立てているのが聞こえる。机の脚が一本折れていてガムテープでグルグル巻きにしてある。食事が机に並ぶと、母もそこに座る。机の一角に重たいものが並びすぎたのか次姉が座っていた机の脚が折れて、食べ物がすべって次姉の方に流れる。味噌汁がかかった次姉が熱がり、僕は呆然としていて、母と長姉が慌てて立ち上がり、父が一人で大笑いしている。次姉は笑われたことを怒り、父は「こういう時って、ほんまにスローモーションになるんやな」と嬉しそうに話していた。そのような生活があらゆる空間にあると思うと、すべての灯りが愛しくなる。

子規は見ていた/埼玉県吉見町にある古墳時代後期の横穴墓群の移籍を歩いた。横穴のなかは、それぞれ違いはあるが3畳程の空間がひろがっていた。横穴の入り口に重くて大きな石が置かれていたことなどから、現在ではお墓だったとされているが、発見された当初はコロボックルの住居だったのではと考える人もいたそうだ。俳人の正岡子規は吉見百穴を訪れて、次のような句を詠んでいる。 神の代はかくやありけん冬籠 子規

横穴の一つ一つにコロボックルの夫婦や家族が住んでいる光景を想像できるたことを羨ましく思う。横穴の住居のなかで冬の寒さを避けて春を待つ。「春になったらなにをして遊ぼうか?」と母コロボックルが囁く。「梅が見たい」と子コロボックルが答える。「花見は混雑するぞ」と父コロボックルが言う。そして、ゆっくりと春の夢を見ながら家族は揃って睡眠状態に入っていく。いや、花見が混雑するのは現代だけかもしれない。子規はどのようにコロボックルの生活を想像しただろう。過酷なものとみたか、楽しいものとみたか。そこには、おのずと自身の経験が反映されたことだろう。雅号の「子規」とはホトトギスの異称で、中国の伝説に「血を吐くまで鳴いたからホトトギスのくちばしは赤い」というような話があり、そこに結核のため喀血した自分を重ねて名付けたそうだ。そう考えると、横穴のなかで長い冬を耐えるコロボックルの感情や、春になり世界を自由に動ける解放感は決してよそ事では無かっただろう。というのは考え過ぎだろうか。吉見百穴の下には、太平洋戦争中に地下軍儒工場を建設するために掘られた大きなトンネルが残っている。全国から集められた3千人以上の労働者によって短い期間で掘られたそうだ。その巨大な穴から想像される光景は過酷な労働そのものだ。我々は様々な事象に触れて、なにかを想像することができる。街の灯りで人々の生活を想い、吉見百穴でコロボックルの営みや古代の理葬に想いをめぐらせる。そして、トンネルを見て過酷な労働を。僕が訪れたのは暑い夏の日だったが、軍需工場跡の★穴からは涼しい風が吹き続けていた。(芥川賞作家・お笑い芸人)

 

・・・毎年、夏になると戦争のこと・原爆のことに思いをはせる。「戦争を知らない子どもたち」の一員であることを自覚しつつ、世界には「平和を知らない子どもたちがいる」ことを考える。

 

《中世芸能史の研究》著:林屋辰三郎/1960岩波書店)

国栖(山の民)くず。国樔、国巣、国主とも書く。もとは大和王権に★未服属の山の民であったらしい。記紀によれば、吉野の国栖(国樔)は、石穂押別(いわほおしわけ)の神の子孫と称するが、吉野の山中に住み、★穴より出入りし、「尾生(おお)うるひと」とみなされていた。おそらく吉野の山で樵(きこり)や狩猟、川魚などの漁労に従事した山の民であったろう。『古事記』応神天皇の巻には、吉野の国栖が横臼(よくす)をつくり、大御酒(おおみき)を醸(か)み、それを献上するとき、口鼓(くちつづみ)を撃ち伎(わざ)をして、寿(ことほ)ぎの歌を歌ったという。この歌は、国栖らが大贄(おおにえ)(栗(くり)、菌(きのこ)、年魚(あゆ)などの土毛(どもう)類)を献(たてまつ)るとき、いまに至るまで伝えたというもので、これがいわゆる践祚大嘗祭(せんそだいじょうさい)に奏される「古風(こふう)」とよばれる国栖の舞であろう。『新撰姓氏録(しんせんしょうじろく)』には、允恭(いんぎょう)天皇のとき、御贄(みにえ)を進めた際、「神態(かみわざ)」を仕え奉ったという異伝を記している。「醸(か)みし大御酒 美味(うまら)に 聞(きこ)しもち食(お)せ まろが父(ち)」という国栖の歌は『西宮記(さいぐうき)』にも詞章がやや崩れながら伝えられているが、この歌の末尾に、「まろが父(親)」とあるのは、王化を慕って、心より臣従するという気持ちを強調するもので、中華思想の宣揚ないしは天皇の権威の強さをことさらに伝えるものであった。この国栖も平安時代には山城(やましろ)国(京都府)綴喜(つづき)郡に移住させられて奉仕させられたようである。ただ国栖とよばれるのは、吉野の国栖だけではないようで、『常陸国風土記(ひたちのくにふどき)』では、山の佐伯(さえき)、野の佐伯を国巣(くず)、または土蜘蛛(つちぐも)、八握脛(やつかはぎ)とよび、土窟(つちむろ)に住み、狼(おおかみ)の性、梟(ふくろう)の情をもつ人々としている。つまり、一般の農耕民と生活、風俗、習慣を異にし、かつて「まつろわぬひと」とよばれた山の民が国栖であったと考えられる。

 

 

《参考》「悠久に彩られた国栖の里の歴史」奈良・吉野ものづくりの里/国栖の里観光協会

http://kuzunosato.jp/kankou/index.html

神武天皇東征のおり、当地で光る井戸から出てきた尾のある人と出会い、それが★国栖人であったと日本書紀や古事記などは伝えています。尾のある人などはいるはずもなく、東征軍が当地で最初に出会った先住民でしょう。平野部の人と違い獣皮を尻に当てて山で働く姿が奇異に見えたのでしょうか。また当時西日本の豪族を支配して近畿に力を伸ばしてきた、神武の東征軍が、 支配者としてのおごりの視線で、先住民を見下していたのがそんな記述につながったのかもしれません。

今から約千三百年前大海人皇子(おおあまのみこ)は、 兄天智天皇の子大友皇子と戦って勝ち天皇の座につきました。天武天皇です。その戦いの旗揚げの地が吉野の宮といわれています。国栖から吉野川沿いに5キロほど下流右岸の宮滝遺跡とその付近に吉野の宮はあったとされ、 近くには、「吉野歴史資料館」があります。白く泡立つ奔流が岩をかむ岸辺に立ち、目をつむって、はるか古代に思いを馳せてみましょう。馬のいななきや風を切る矢羽根のうなり、兵士たちの雄叫びや太刀の打ち合う音が、 千三百年の時空を越えて聞こえてきませんか?散った夢や、実った夢、歴史に刻まれたドラマの跡を追うのも一興かもしれません。

★壬申の乱の折、吉野川の川べりで大友皇子の兵に追われた大海人皇子が村人に助けを求めました。村人は川舟を逆さにしてその中に皇子をかくし、追っ手の目につかぬようにしたところ、 現れた犬が舟を嗅ぎまわり吠えたので、村人はこの犬を打ち殺して、皇子の危機を救ったと伝えられています。以来この地では今でも犬を飼う家がないということです。また国栖小学校(廃校)下の御霊神社にコマイヌがいないのもそのためといわれています。

 

《参考》「壬申の乱と吉野」

http://www.town.yoshino.nara.jp/about/jinshin-war.html

天智天皇(西暦626-672)の御代、次時期天皇の候補者が二人おられました。一人は天智天皇の息子★大友皇子。そしてもう一人は天智天皇の弟★大海人皇子です。天智天皇がお隠れになる2カ月前、天皇は病床に大海人皇子を呼び、「後の事はお前に任せる。」と伝えました。しかし、陰謀を感じた大海人皇子は、持病を理由に辞退し、出家して吉野へと向かいます。この時、誰かがこう言ったと伝わります。「虎に翼をつけて放てり。」

天智天皇がお隠れになって半年ほどたった672年5月のこと。大海人皇子のもとに、大津京に不穏な動きがあるとの情報が入ります。同年6月24日、大海人皇子は吉野をお発ちになって不破へと向かい、大友皇子との戦いに挑まれます。この戦に勝利した大海人皇子は飛鳥浄御原宮で即位して天武天皇となり、様々な制度改革に邁進されることになります。

 

《参考》「いわくら」表記について

石位・・・『古事記』

・磐座・・・『日本書紀』『延喜式祝詞』

・石座・・・愛知県新城市 石座神社、京都府左京区 石座神社

・石坐・・・『風土記』『長谷寺密奏記 裏付』

・岩座・・・広島県安芸高田市 天ノ岩座神宮

・岩坐・・・京都府京都市山科区 岩坐(諸羽神社)

・磐倉・・・愛知県新城市 磐倉大明神(石座神社)

・岩蔵・・・東京都青梅市 岩蔵、京都府舞鶴市 岩蔵(岩室稲荷神社奥の院)

・石蔵・・・兵庫県相生市 石蔵明神(磐座神社)

・『天正十八年本節用集』では、1字で「いわくら」と読む総画数53画の難字が収録されています。これは「岩」「石」「聞」を組み合わせた字になっています。

・岩倉・・京都府京都市左京区岩倉(石座神社御旅所 山住神社)、岡山県倉敷市 岩倉神社、熊本県山鹿市 岩倉さん

★静岡県伊東市「八幡宮来宮神社」旧社地★「洞の穴」(岩倉の地名を持ち、伊波久良和気命をまつる)

http://hatimanguukinomiya.net/index.html

八幡宮と来宮神社とはもと別社、来宮神社の祭神が★伊波久良和気命、延暦年中合祀した。大昔、来宮の神様は、瓶にのってと神社付近の金剛津根に漂着したと言われる。この神を海岸近くの★洞窟にお祀りしていた。来宮の神は大変な酒好きで、沖を通る船を止めてはお酒を献上させたため、船人達は困った。そこで、船の見えない岡の方に遷した。そこも少し海が見えたので、再度遷したと伝わる。なだらかな石段の大きな社。杉林の中に鎮座している。

 

・・・なんともおもしろい話、それだけでも小説になりそうです。