《諸鍬神社》
639-2141奈良県葛城市弁之庄119-1/0745-69-3910
祭神:品陀和気命 息長帯比売命 玉依比売命。拝殿は入母屋造り、間口六軒もある立派な建物。鳥居は境内にもあるが、一の鳥居は百余メートル離れた南にあり、八幡宮の額が掲げてある。桑山氏の産土神を祀る。
★おんだ祭
https://www.city.katsuragi.nara.jp/index.cfm/14,2560,43,196,html
・・・スイカが美しい。
《伊邪那岐神社》
639-2151奈良県葛城市南今市246番
祭神:伊弉諾命、天児屋根命。岩橋山と称される社叢を背景とした社。創建由緒等に関する資料はまったく見当たりません。一の鳥居が東500mほどの辺りにあることから、往古は相当広大な社地を有していたようです。当社には36枚もの三十六歌仙絵馬が奉納されるという、非常に珍しい神事があるとか。一年に一度だけ当屋から運ばれ、一時間ほど床に並べた後はすぐにしまわれる神事のようです。その神事の意味合いはまったく分かっていないとのこと。一の鳥居から現社地の間には今市に伝わる江戸時代の伝承、今市物語を顕彰した石碑★「孝女伊麻旧跡」があります。
《参考》「奈良県神道青年会」
http://www.narashinsei.com/index.html
当会は奈良県内に鎮座する神社に奉職する40歳以下の青年神職の会です。会員数は約100名で構成されており、普段はそれぞれの「お宮(神社)」で神様にご奉仕しながら、会員同士で互いに連絡を取り合い、密接な関係を築きつつ、共通認識・課題に取り組み、地域社会の福祉に寄与すべく、相互研鑽に励み、青少年教化活動や時局を見据えた各種研修会の開催・他団体との交流をはかるなど、多岐にわたり活動をおこなっております。当会の創立は我が国の戦後復興も著しい昭和39年に遡ります。丁度その頃は高度成長期の経済とは真逆に、心の喪失が叫ばれ始めた時期でもあり、「建国の聖地」、「国のまほろば」と讃えられる大和の地 奈良県より、戦後荒廃した民族精神を呼び覚まし、麗しい祖国再建の礎にならんと、当時の先輩方の情熱により結成されました。平成26年には創立50周年の節目の年を迎え、このホームページは当会の次の50年への第一歩を記すべく開設致しました。
《孝女伊麻旧跡》
奈良県葛城市南今市461
https://www.city.katsuragi.nara.jp/index.cfm/14,2704,53,215,html
旧下市街道より、伊邪那岐神社に向かう道を少し入ったところにある石碑です。その昔病弱な父親への孝行に生涯を尽くした孝女伊麻をたたえたものです。伊麻は父が病に伏せた時、★鰻を食べさせればよいと人に教えられましたが、山里ではどうしようもありませんでした。しかし、あきらめることができず、何とかして鰻を食べさせてやりたい―そんな伊麻の願いが天に通じたのでしょう。夜がふけて大分遅くなったころ水がめの中で音がしました。何だろうと思ってのぞいてみると、何とそこには鰻がいたのでした。喜んだ伊麻はさっそく料理をして父に食べさせると、病いはたちまちのうちに治り、もとの元気な体になりました。この話にちなみ、★磐城小学校の校章は水がめの形をかたどって作られています。伊麻の命日である2月27日には、毎年追善法要が営まれ、小学生たちもお参りします。
https://www.city.katsuragi.nara.jp/index.cfm/21,4573,56,274,html
《大磯虎女旧跡地》
「和州葛下郡今市地蔵尊略縁起」によると、この地蔵院は富士野の仇討で有名な曽我十郎祐成に愛された大磯の虎女に始まります。建久4年(1193)、弟の五郎時致とともに曽我兄弟は、苦節18年の末、父の仇を討ったものの討ち死にし、空しく草葉の露と消えました。これを悲しんだ虎女は、出家の後、この草庵にわび住まいし、十郎祐成の供養をしました。当時大字南今市には、虎女が架けた「虎がはし」という橋が残されています。また、この地蔵院には虎石というのがあり、虎女の墓印であると言い伝えられています。
http://www.town.oiso.kanagawa.jp/isotabi/miryoku/miryoku/torajyo.html
・・・まもなく最終目的地、
《長尾神社》
639-2164奈良県葛城市長尾471/0745-48-3018
http://www.city.katsuragi.nara.jp/index.cfm/14,10470,53,214,html
葛城市長尾に鎮座する長尾神社では、御祭神は水光姫命と白雲別命が祀られています。当社の創建は明らかではありませんが、平安時代の書物である「三代実録」や「延喜式」神名帳にも記載される葛下郡の式内社で、とても古い歴史を持つ神社です。また放光寺古今縁起(1443年)には、飛鳥時代に天武天皇が壬申の乱で勝利したことから、その報賽(ほうさい)としてこの地を神地と定められたと記されています。古代においてこの長尾神社の場所は、大阪方面から★竹内街道を通って大和へ入り、飛鳥の藤原京に至る古代の大道★「横大路」の西側の入口となる所であり、重要な場所に社地を構えていました。そして現代に至っても、この長尾の地は竹内街道や★長尾街道などの主要な街道が集まり交差する、交通の要衝であることから、この街道を行き交う人々の守護神、いわゆる★交通安全の神様としても、厚く信仰されています。鳥居下に★蛙の石造物(狛犬→蛙)が見られます。なで蛙と呼ばれ、その頭を撫でると、★「無事帰る」「若返る」「お金が返る」などといった願い事が叶うと言い伝えられます。
※当社社伝に「水光姫命が応神天皇の御代に竹内村の三角磐に降臨され、子孫の加弥比加尼(かみひかね)に命じて当地に祀られたもので、その姿は白蛇であって、神社の北東の御陰井に封じた」と記された井戸跡です。
・・・「かえる友の会」としての聖地でもあります。少なくとも年に1回、お参りしたいものです。