・・・「蓮取り行事」の帰り道、道沿いの社寺等に立ち寄りつつ、「かえる友の会」としてどうしても行かなければおさまらない神社をめざします。
《新町運動公園》
639-2127奈良県葛城市新町292番地3
https://www.city.katsuragi.nara.jp/index.cfm/17,2969,80,html
《葛城市コミュニティセンター》
639-2127奈良県葛城市新町337/0745-69-6961
https://www.city.katsuragi.nara.jp/index.cfm/17,2972,80,html
《飯豊天皇埴口丘陵》
639-2113奈良県葛城市北花内
http://www.pref.nara.jp/miryoku/ikasu-nara/bunkashigen/main00220.html
宮内庁によって飯豊天皇埴口丘陵として管理される陵墓です。考古学的な名称は、北花内大塚古墳。古墳時代(5世紀末~6世紀初頭)に築かれた、全長約90mを測る前方後円墳です。周辺には水をたたえた濠がめぐり、濠の外側には周堤と呼ばれる堤がめぐります。陵墓の保全事業にともなって実施された発掘調査では、人物や動物といった形象埴輪や円筒埴輪のほか、木製品が出土しています。江戸時代初期、新庄藩がおかれ藩主として桑山氏が入部を果たした際、一時墳丘上に領内の神社がすべて集められるという事業がなされました。その結果、墳丘上部は著しく改変されています。その後、桑山氏が改易となると同時に旧状に戻され、江戸時代末の修復を経て現在の姿となります。飯豊天皇は女帝です。その名は、現在の歴史の表舞台には出てきません。しかし、『扶桑略記』(平安時代)などには、第24代天皇として、その名が記されています。この歴史観が現在にも引き継がれていたならば、最初の女帝は推古天皇ではなく飯豊天皇とされていたことでしょう。御陵の名称などは、周辺地名に大きな影響を与えています。「花内」「三才」といった地名は、それぞれ「埴口」「陵(ミササギ)」の転訛したものと理解できます。また、別名のひとつに「忍海部女王」があり、「忍海角刺宮」にて政務をとったとされるなど、葛城忍海地域ときわめて深い関係をもっていたことがわかります。また明治時代まで存在した南北2km、東西7kmという狭小な忍海郡の成立や、周辺地域の歴史を考える上で、重要な位置をしめています。記紀に登場します。雄略天皇の後を継いだ清寧天皇は、後継者をのこすことなく崩御しました。しかし、雄略天皇即位に関わって有力な皇子たちが命を落としており、次代を担う皇子が不在という事態に陥ります。この時、履中天皇の皇子であった市辺押磐皇子と、葛城蟻臣の娘である荑媛の間に生まれた飯豊女王が忍海角刺宮にて政務をとり、混乱の収拾にあたります。その間において、播磨(兵庫県)にて、忍海部造細目の邸宅にて保護されていた二人の皇子(億計王、弘計王)が、大和へ帰還をはたします。二皇子は、飯豊女王の兄弟です。飯豊女王は位を譲り、弘計王が顕宗天皇として即位します。飯豊天皇 飯豊女王、忍海部女王などの別名をもちます。その名称より、葛城忍海地域で養育されたと考えられます。記紀ではそれぞれ書きぶりが異なりますが、清寧天皇から次代の天皇に引き継ぐにあたり、大きな役割を果たした女性と考えられます。億計王、弘計王 後の仁賢、顕宗天皇。異説もあるが、飯豊女王の兄弟であると考えられています。清寧天皇 雄略天皇の皇子。後継をのこす前に崩御。雄略天皇 清寧天皇の父。自らの即位の障壁となる皇子はことごとく排除します。飯豊女王の父、市辺押磐皇子もまた、狩りに誘い出された上で殺害されます。この事件をきっかけに、億計王、弘計王の二人は、播磨に隠されました。
https://www.city.katsuragi.nara.jp/index.cfm/13,2260,31,135,html
《参考》
●「北花内」
https://www.city.katsuragi.nara.jp/index.cfm/21,4545,56,274,html
花内のいわれは、宮内庁所管の「飯豊天皇埴口丘陵」(前方後円墳)の「埴口」が、「花口」さらに「花内」に転訛したものと考えられています。「花口」と記されているのは、「続日本紀」に、葛下郡の花口宮麻呂が私稲を投じて貧しい人たちを救ったとあり、「花内」と記されているのは、「金峯山免田田数注進状」にあります。北花内と南花内の境界は、藤原京に都があったころ、葛下郡と葛上郡の間に新しく設けられた忍海郡との境界でもあります。
●「笛堂」
https://www.city.katsuragi.nara.jp/index.cfm/21,4547,56,274,html
このあたりは、中世(鎌倉~戦国時代)の新庄を支配した布施氏の一族といわれる★笛堂氏の本拠地で、居館が字城山を中心にあったと言い伝えられています。なお、笛堂の「笛」については、笛吹の「笛」と相通じるところがあり、柿本とゆかりが深いと言い伝えのある「万葉集」を代表する歌人の柿本人麻呂が活躍していたころ、飛鳥(現在の橿原市と明日香村)の地から二上山、さらに竹内峠を越えた飛鳥(現在の大阪府太子町)に向かう★葬列を、人麻呂の挽歌にともなって笛堂の笛吹の一団が葬送行進曲を奏でたとの説もあります。このことから笛堂の地名の起源は、笛吹、柿本とともに古代までさかのぼる可能性を秘めています。
《為志神社》
639-2131奈良県葛城市林堂311
為志神社遺蹟石碑由来:式内小社 為志神社は伊古比都幣命祭神として古くから栄えた延喜式には、忍海郡二社の筆頭に記載されてる由緒正しい神社で久しくその尊厳を発揮していたが、明治三十九年の勅令社寺合併令により明治く四十三年二月八日をもって式内大社葛木坐火雷神社に合併されて今日に至った。しかるに廃社の後、人々は社殿の後に為志神社遺蹟の石碑を建て、あたかも神殿に対するが如くこれを崇拝してきたのである。人々の志実って社殿を再建し祭神を還しここに式内小社為志神社の最高が成就したあと、なお為志神社遺蹟の碑を温存する所似である。昭和五十七年十月十七日 式内小社為志神社 再興発起人一同
《正道寺》
639-2144奈良県葛城市葛木236-1
《葛城御縣神社》
639-2144奈良県葛城市葛木68
式内社で、旧社格は村社。大和国に6つある御縣神社の1つである。劔根命を主祭神とし、天津日高日子番能瓊瓊杵命を配祀する。ただし、元々の祭神は天津日高日子番能瓊瓊杵命であり、劔根命は明治5年に祀られたものである。劔根命は、日本書紀に神武東征の論功行賞により葛城国造に任じられたと記される人物である。創立の年代は不詳である。元々は現在地より100メートル東に鎮座していた。延喜式神名帳に「大和国葛下郡 葛木御縣神社」と記載され、大社に列している。いつの時代からか境内に八王山西光寺が建立され、後に神社の方は衰えた。1601年(慶長6年)、当地の領主桑山氏は自らの産土神である尾張国海東郡の★諸鍬神社を三才山(伝飯豊天皇陵)に勧請し、それに当社を合祀した。1864年(元治元年)、葛城御県神社を諸鍬神社より分離し旧社地に復しようとしたが、その地には西光寺があるため、その西の現在地に遷座した。1874年(明治6年)に村社に列格した。
《法林寺》(浄土宗)凉井山
639-2143奈良県葛城市南道穂174/0745-69-3043
高砂産・竜山石・流紋岩質溶結凝灰岩の刳抜式石棺、★「掖上鑵子塚古墳」のものとされています。当初は手水鉢に転用されていたようですが、今は蓮が植えられ、周囲に石燈籠や瓦や植木が置かれています。
《参考》「掖上鑵子塚古墳」
639-2244奈良県御所市柏原字鑵子山
https://www.city.gose.nara.jp/kankou/0000001444.html
全長約150メートル、後円部直径約102メートル、前方部幅約88メートルを測る前方後円墳で、後円部三段、前方二段の段築が認められる。五世紀後葉の築造とみられる。全周を巡る幅15メートル程度の広い周濠をもつが、南部の前方部コーナー付近では先行して存在した大形の円墳のために周濠が歪められている。後円部中央の主体部には★長持形石棺が収められていたと伝えられ、盗堀によって出土した遺物には金銅透彫※(金偏に夸)帯(すかしぼりかたい)金具、琴柱形石製品、桂甲小札などが知られる。また墳丘上からは各種埴輪が採集されており、とりわけ帽形埴輪は昭和13年に重要美術品に指定された逸品である。
通説では南葛城地方では室宮山古墳に後続し、屋敷山古墳に先行する首長墓に位置づけられるが、室宮山古墳から規模を大きく縮小して形状にも規制が入る点が注意される。近年では、時期がさらに下がって屋敷山古墳と同程度の時期になるとして、室宮山古墳との間に1世代の空白を想定する説も挙げられているが、小規模な調査に留まるため詳細は明らかでない。なお、谷間という奈良盆地からの仰望が制限された立地でもあることから、ヤマト王権に滅ぼされた★葛城本宗家の葛城円・眉輪王らの墓に比定する説もある。
・・・こういう発見があるので、寄り道はやめられませんねえ。目的地めざして、さらに北上します。