《なら再発見》2014.3.2産経WESTより
磐之媛命、嫉妬深かった★仁徳天皇の皇后
仁徳天皇陵に治定(じじょう)される百舌鳥耳原中陵(もずのみみはらなかのみささぎ)は堺市にあり、墳丘の長さは486メートル。世界でも最大級の墳墓として知られている。それに対し、皇后の★磐之媛命(いわのひめのみこと)陵は、堺市から遠く離れた平城山(ならやま)に近い奈良市佐紀町の静かな場所にひっそりと佇(ただず)む。これほど遠く離れたところに別々に葬られたのはなぜか。そこには磐之媛の嫉妬心が関係しているようだ。「あをによし奈良を過ぎ小楯倭(おだてやまと)を過ぎ我が見が欲し国は★葛城高宮(かつらぎたかみや)吾家(わぎへ)の辺り」(古事記下巻)私が見たいのは難波(なにわ)の宮ではなく、実家のある葛城の高宮の辺りなのですと、悔しさと懐かしさに、切なく涙を流した。涙の理由は仁徳天皇の女性問題にあるというのだ。ある時、磐之媛は祭礼に使う葉(御綱葉(みつながしわ))を取りに紀伊国(きいのくに)(現在の和歌山県)に出かけた。その留守中、夫の仁徳天皇は八田皇女(やたのいらつめ)という女性と昼夜遊び戯れ、とうとう宮中に召し入れてしまった。磐之媛はそれを知ってたいそう怒り、取ってきたばかりの御綱葉を難波の川に投げ入れてしまう。怒りの治まらない磐之媛は難波の宮にいる天皇のもとには戻らず、淀川をさかのぼり、京都府南部を経て奈良に向かった。平城山から実家のある葛城の方向を見て詠んだのが、先の歌である。仁徳天皇の女性問題、実はこれが初めてではなかった。吉備(きび)の国(現在の岡山県)出身の黒日売(くろひめ)はとても美しいと評判だった。それを聞いた仁徳天皇は彼女を宮中に呼び寄せた。やがて磐之媛はそれを知り、黒日売をいじめたり、物を壊すなど錯乱状態になった。磐之媛のあまりの嫉妬深さに耐え切れず、黒日売は船で故郷に逃げ帰ろうとした。嘆いた仁徳天皇が見送りの歌を詠んだところ、磐之媛は激怒し、黒日売を船から降ろさせ、陸路を徒歩で国に帰らせたという。気性の激しい女性として知られる磐之媛だが、仁徳天皇の皇后になった頃には、夫のことを心から愛する心優しい人物だったそうだ。磐之媛が天皇のことを思って詠んだ歌が万葉集にある。「君が行き日(け)長くなりぬ山たづね迎えか行かむ待ちにか待たむ」(万葉集 巻二-85)天皇が旅に出かけられてもう何日も経ったのに、まだお帰りにならない。寂しくて仕方がないので、山道を探して迎えに行こうか。それとも、ひたすら待っていようか…。旅に出てなかなか帰ってこない夫のことを心配し、寂しく待つ妻の心境を綴(つづ)った歌だ。その後磐之媛は筒城(つつき)(現在の京都府京田辺市)に宮を置き、余生を送る。そして仁徳天皇35年6月にその地で亡くなった。のちに磐之媛は、仁徳天皇陵から遠く離れた★平城山の近くにひっそりと葬られた。古事記や日本書紀には、磐之媛は嫉妬深い女性として描かれている。しかし彼女は大豪族★葛城氏の出身であり、葛城氏の命運を担う立場にあった。天皇家と葛城氏のはざまに立ち、難波の宮にも、葛城高宮にも帰ることができなかった磐之媛。悩んだ末、最後に取った行動は表舞台から姿を消し、静かな人生を歩むことだったのではないだろうか。
【磐之媛命】
『日本書紀』では磐之媛、『古事記』では石之日売、その他、いはのひめ、磐姫とも記す。仁徳天皇の4人の皇后のうちのひとり。仁徳天皇2年(314年)立后。★葛城襲津彦の娘で★武内宿禰の孫にあたり、★皇族外の身分から皇后となった初例とされる。孝元天皇の男系来孫(古事記では玄孫)。仁徳天皇の男御子5人のうちの4人(履中天皇・住吉仲皇子・反正天皇・允恭天皇)の母。記紀によるととても嫉妬深く、仁徳天皇30年に、彼女が熊野に遊びに出た隙に夫の仁徳天皇が八田皇女(仁徳の異母妹。磐之媛命崩御後、仁徳天皇の皇后)を宮中に入れたことに激怒し、山城の筒城宮(現在の京都府京田辺市多々羅付近)に移り、同地で没した。
【葛城襲津彦】
武内宿禰の子で、葛城氏およびその同族の祖とされるほか、履中天皇(第16代)・反正天皇(第17代)・允恭天皇(第18代)の外祖父である。対朝鮮外交で活躍したとされる伝説上の人物であるが、★『百済記』の類似名称の記載からモデル人物の強い実在性が指摘される。
【武内宿禰】
景行・成務・仲哀・応神・仁徳の5代(第12代から第16代)の各天皇に仕えたという伝説上の忠臣である。★葛城氏・紀氏・巨勢氏・平群氏・蘇我氏など中央有力豪族の祖ともされる。
墓に関する伝承として『日本書紀では、玉田宿禰(武内宿禰の孫または曾孫)が武内宿禰の墓に逃げ込んだという。また『帝王編年記』(南北朝時代頃の成立)では、武内宿禰の墓に関する一説として大和国葛下郡の「室破賀墓」と見える。奈良県南西部の葛城地方では、武内宿禰と関連が推測される古墳として室宮山古墳(室大墓、奈良県御所市室)がある。同古墳は、葛城地方最大(全国第18位)規模の前方後円墳で、5世紀初頭頃の築造と推定される。同古墳は古来「室大墓(むろのおおばか)」と称され、武内宿禰の墓とする伝があった。ただし近年では、築造時期から★葛城襲津彦(4世紀末から5世紀前半の実在が確実視)の墓とする説が有力視される。
《参考》「宇部神社」
680-0151鳥取県鳥取市国府町宮下651/0857-22-5025
https://www.ubejinja.or.jp/new-about/
宇倍神社は、孝徳天皇大化4年(648)の創建と伝えられ、平安時代にまとめられた延喜式(※1)では鳥取県で唯一の名神大社、また一の宮として信仰を集め、明治4年に定められた制度により国幣中社に列せられました。現在の社殿は、明治31年に完成しましたが、翌32年には全国の神社では初めて、御祭神である★武内宿禰命(たけのうちのすくねのみこと)の御尊像と共に五円紙幣に載せられ、以後大正・昭和と数回当社が五円・一円★紙幣の図柄となりました。
命(みこと)は仁徳天皇55年春3月因幡国の亀金岡(かめがねのおか)に双履を遺し、360余歳でお隠れになったと記されています。古くから宇倍神社本殿の後にその霊跡と伝わる石があり、★双履石(そうりせき)と呼ばれています。ここは日本一長寿の神さま御昇天の地です。後丘の亀金山に本殿を見下す位置にあり、祭神終焉の遺蹟と伝える磐境であるが、地下1.2mの所から竪穴式石室が発見され、古墳時代前期末から中期の円墳(もしくは前方後円墳)の一部と判明した。
・・・「葛城氏」さかのぼって「武内宿禰」、なかなか興味深いですね。さて、仁徳天皇の皇后「磐之媛」は大豪族★葛城氏の出身であり、葛城氏の命運を担う立場にあった。天皇家と葛城氏のはざまに立ち苦しんだかどうかはわかりませんが、そろそろ「仁徳天皇」の話に移りましょう。
【仁徳天皇】神功皇后摂政57年~仁徳天皇87年1月16日
第16代天皇(在位:仁徳天皇元年1月3日 - 同87年1月16日)。諱は大雀命(おほさざきのみこと)(『古事記』)、大鷦鷯尊(おほさざきのみこと)・大鷦鷯天皇(おほさざきのすめらみこと)・聖帝(『日本書紀』)・難波天皇(『万葉集』)。漢風諡号である「仁徳天皇」は、代々の天皇と同様、奈良時代に淡海三船によって撰進された。善政を敷き、大規模な土木事業を行ったと伝わる。名の鷦鷯(ミソサザイ)は、同日生まれの平群木菟(武内宿禰の子)と、それぞれの産殿産屋に飛び込んだ鳥の名を交換したものだという。(『日本書紀』仁徳天皇元年正月条)応神天皇の崩御の後、最も有力と目されていた皇位継承者の菟道稚郎子(うじのわきいらつこ)皇子と互いに皇位を譲り合ったが、皇子の薨去(『日本書紀』は仁徳天皇に皇位を譲るために自殺したと伝える)により即位したという。この間の3年は空位である。難波に都を定め、人家の竈(かまど)から炊煙が立ち上っていないことに気づいて3年間租税を免除し、その間は倹約のために宮殿の屋根の茅さえ葺き替えなかったと言う記紀の逸話(民のかまど)に見られるように、仁徳天皇の治世は仁政として知られ、「仁徳」の漢風諡号もこれに由来する。一方で、記紀には好色な天皇として皇后の嫉妬に苛まれる人間臭い一面も描かれている。また、事績の一部が父の応神天皇と重複・類似することから、元来は1人の天皇の事績を2人に分けたという説がある。また逆に、『播磨国風土記』においては、大雀天皇と難波高津宮天皇として書き分けられており、二人の天皇の事跡を一人に合成したとする見方もある。
《NEWS》2016.6/21~24日本経済新聞より
●非公開でも研究は続く/仁徳陵の謎を探る(1)
全国で20万基以上あったとされる古墳の中で最も大きいのが、宮内庁が仁徳天皇陵として管理する堺市の前方後円墳、大山(だいせん)古墳だ。墳丘は全長486メートル。三重の周濠(しゅうごう)を持ち、一帯に広がる百舌鳥(もず)古墳群の盟主として君臨している。この古墳群に現存する古墳44基のうち、大山古墳を含め23基は宮内庁が陵墓や陵墓参考地として管理。一般の立ち入りを原則認めていない。大山古墳では明治初期にあらわになった石室が見つかり、石棺や副葬品の絵図が描かれたことがある。以降、外部の研究者が現地を本格調査したことはないが、それでも古墳研究全体の進展と歩調を合わせて謎の解明がこつこつと続いている。以前の古墳研究では被葬者が眠る主体部のみが重視されがちだったが、近年は濠や堤、外域まで詳しく調査。情報の蓄積が進む。年代推定の物差しとして重要なのが墳丘に並んでいた円筒埴輪(はにわ)だ。製作技法などの分析が1980年ごろから進み、築造年代がより細かく推察できるようになった。一方「宮内庁は陵墓の補修に伴った調査の成果などを90年代ころから小まめに情報発信している」と一瀬和夫・京都橘大学教授は指摘する。大山古墳では宮内庁は94~97年に墳丘を測量・踏査。その際などに見つけた埴輪や土器を公表しており、貴重な研究材料となっている。被葬者については「やはり仁徳天皇だ」との見方を含め今なお諸説あるが「築造年代については近年、5世紀前半を軸に絞られ、議論の幅は50年もない」と白石太一郎・大阪府立近つ飛鳥博物館館長は話す。21世紀に入り、百舌鳥古墳群は大阪府羽曳野市や藤井寺市に広がる古市古墳群と併せて、世界文化遺産への登録をめざす動きが活発化。あちこちで保全と活用を目指して調査や発掘が進んでいる。2013年、ニサンザイ古墳の周濠内で木橋跡を発見。前年には航空レーザー測量で陵墓を含め計82基の精密な3次元図面も作製した。大山古墳では★大地震による地割れや地滑り跡が刻まれた墳丘の詳しい状況が明らかになった。
※参考「大山古墳墳丘部崩形にみる尾張衆黒鍬者の関わりからの検討―誉田御廟山古墳墳丘部崩形との関連性をふまえて― 」川内眷三/四天王寺大学紀要第54号(2012年9月)
ただ大山古墳はあまりに巨大だ。「専門機関を設けても総合調査には10年、100年単位が必要。まずは課題を一つ一つ解決していくことが大切だ」。白石館長はこう語る。
●巨大古墳に様々な呼称/仁徳陵の謎を探る(2)
「『仁徳天皇陵』の正式名は何ですか」。堺市役所の文化財課には時々、こんな電話がかかってくる。無理もない。宮内庁が仁徳天皇陵として管理する同市の巨大古墳は、実に様々な名前で表記されるからだ。「大山(だいせん)古墳」「大仙古墳」「大仙陵古墳」「伝仁徳陵古墳」……。呼称を複数持つ古墳は他にもあるが、ここまで多彩な例は珍しい。関心の高さの表れだろう。市の担当者はその都度、こう答えている。「立場や考え方によってそれぞれです」宮内庁の呼称は「仁徳天皇百舌鳥耳原中陵(もずのみみはらのなかのみささぎ)」。平安時代の法令集、延喜式(えんぎしき)が記す名だ。同庁が管理している陵墓はいずれも明治初期、延喜式をもとに当時の知見を踏まえて被葬者が指定された。だが歴史学や考古学の研究が進み、指定に対する疑問や否定的な意見が相次いでいる。「天皇の名を冠して呼ぶのは学術上は不適切」。1970年ごろからこう考えられるようになり、現在は陵墓も一般の遺跡と同じく所在地の名で呼ぶか、古文書に登場する名を使うようになっている。仁徳天皇陵の所在地は堺区大仙町。では「大仙古墳」が正しいかというと、堺市の文化財課では「大山古墳」と表記している。「大阪府が用いている文化財地図に合わせた呼称。一部の古文書に『大山陵』と書いてあるのに基づく」と堺市世界文化遺産推進室の十河良和さんは説明する。ただし古文書を調べると「大仙陵」と書かれたもののほうが多いという。日本史の教科書では「大仙陵古墳」を採用しているものもある。2010年、世界遺産の国内暫定リストに登録した呼称は「仁徳天皇陵古墳」。「同じ堺市でも、世界文化遺産推進室はこちらを使う」と十河さん。ただし「被葬者が確定したわけではない。『現在は仁徳天皇陵としている古墳』という意味だと丁寧に説明する必要がある」。大阪府立近つ飛鳥博物館の白石太一郎館長はこうくぎを刺す。
●「明治の盗掘説」真相は/仁徳陵の謎を探る(3)
★米ボストン美術館には大山(だいせん)古墳(仁徳天皇陵)出土とされる古代の鏡や大刀などが収蔵されている。「1872(明治5)年、堺県(現堺市)の県令(知事)が立場を悪用して仁徳陵を発掘した際に持ち出した品」。こんな説が★小説などを通じて広まっている。確かにこの年、堺県が★「墳丘を清掃して石を取り払ったら穴が開き、石室を見つけた」との文書を国に提出している。これが意図的な発掘だったというのだ。出土した石棺や甲冑(かっちゅう)などの詳しい絵図も残る。宮内省(現宮内庁)から派遣された絵師が描いたものとされる。だが当時の状況を詳しく検証した元堺市博物館学芸課主幹の樋口吉文さんは「当時の県令にそんな権限はなかった。ぬれぎぬだろう」と話す。江戸幕府は、周辺住民が里山として大山古墳を利用するかわりに維持管理を委ねた。明治初期もこの状況は続いており「まきでも拾おうと住民が墳丘に立ち入り、ついでに少し石をどけたところ石室を発見。県令が国に届け出たのだろう。通常の手続きで、文書の内容に疑わしい点はない」と樋口さんは分析する。絵図を描いたのは宮内省の絵師ではなく、絵の巧みな★建築技師だったことも判明。「古美術に造詣が深かった技師が話を聞き、私的な立場で現地を訪ねて描いたのでは」ボストン美術館の収蔵品については「大山古墳とは年代が合わない」との指摘がかねて出ている。宮内庁は同館で調査し2010年、成果を公表した。収蔵品は★岡倉天心が買い付けたものだった。明治39年(1906)に、1450円で一括購入したことが判明したが、購入リストには「古代の墓で出土した青銅製品」とのみ記され、「仁徳陵」の名は無かった。裏付けのないまま唱えられた「仁徳陵出土」との推定が一人歩きした――。調査を担当した徳田誠志・陵墓調査官はこう推察する。「確かな情報は無く、現時点で結論は出ない。仁徳陵と結びつけることは控えるべきだ」
●宮内庁、地元と連携模索/仁徳陵の謎を探る(4)
大山(だいせん)古墳(堺市)を仁徳天皇陵として管理している宮内庁は今秋にも、補修工事の準備のため周濠(しゅうごう)の水面下を音波探査機で測量する。堺市などが作成した航空レーザー測量図と組み合わせる計画で、墳丘規模などが明らかになると期待が高まっている。宮内庁が管理する陵墓・陵墓参考地は全国に約900ある。国史跡などには未指定で、古墳といえども法制度上は「文化財」ではないが、同庁は補修に伴って発掘した際は現場を研究者や報道陣に公開し、成果も発表している。2008年からは堺市にある陵墓参考地、御廟山(ごびょうやま)古墳やニサンザイ古墳などで地元自治体と調査区の位置などをすり合わせて発掘している。「こうした調査方法を広げると共に環境調査や景観整備、防災など従来手薄だった分野で地元との連携を深めたい」と徳田誠志・陵墓調査官は話す。百舌鳥・古市古墳群の世界遺産登録をめざす動きや観光立国をめざす政府の姿勢も、こうした流れを後押しする。宮内庁はかねて「陵墓は観光する場ではない」との立場だが、見学ポイント整備などで地元連携を進めるという。徳田陵墓調査官は「地元の協力あっての陵墓保全。関心を高めることは重要」と話す。「陵墓では今も皇室の祭祀(さいし)が執り行われており、静安と尊厳の保持が最優先」。一般の立ち入りを原則認めない理由を宮内庁はそう説明する。ただ今後、大山古墳など超巨大古墳の補修が本格化すると、同庁の人手が不足して外部の応援が必要になる、ともいわれる。皇室のあり方を巡る議論とも絡み、陵墓管理については多様な意見があるだけに、歴史遺産を未来へ引き継ぐべく丁寧な議論を重ねる必要がある。
・・・、五木寛之「風の王国」の醍醐味は、「ボストン美術館」所蔵の絵図にまつわる展開ですが、あくまで創作ですから。とはいうものの★県令「税所篤」が仁徳天皇陵の石室の発掘を行ったことはほぼ事実であろうし、税所の収集癖や所業から、盗掘まがいのことが行われた可能性は、否定できない。明治前期の古美術・考古の一大コレクターであった税所篤。県令という立場を利用した強引なまでもの収集癖にまつわる胡散臭い話が、常に見え隠れしている。
◆【ボストン美術館 (Museum of Fine Arts, Boston、略称MFA)】◆
アメリカ合衆国マサチューセッツ州ボストン市にある、全米有数の規模を持つ美術館。
・・・これまでの大仙陵出土遺物に関する《NEWS》などを紹介しておきます。
●2011年8月13日
宮内庁:獣帯鏡など5点/仁徳陵出土「可能性低い」
宮内庁が仁徳天皇陵に指定する大山古墳(堺市、5世紀中ごろ)で出土したと伝えられ、米国ボストン美術館が所蔵する獣帯鏡(じゅう・たい・きょう)など5点について、同庁書陵部が初の公式調査を行い、年代や購入記録から「(大山古墳出土の)可能性は極めて低い」との見解をまとめたことが13日、分かった。5点が米国に渡った経緯は不明だったが、同館に勤務し、仏像などの東洋美術を収集していた思想家★岡倉天心が1906年に京都、奈良へ出張した際、計1450円(米価比で現在の約580万円)で一括購入したことも判明。大山古墳では1872年に前方部で石室が見つかり、中の石棺や甲冑(かっちゅう)などを描いた図面が残る。学界には同館所蔵品を「この時流出した」とする説と、「墳丘や甲冑と年代が合わない」との否定説があり、出土地をめぐる議論が再燃しそうだ。新見解は同庁発行の「書陵部紀要」に掲載しており、近く、ボストン美術館に送付する。書陵部の徳田誠志首席研究官が08年に渡米。大山古墳出土と伝わる獣帯鏡、環頭大刀の金箔(きんぱく)張り柄頭、馬具の一種の三環鈴と馬鐸(ばたく)2点の計5点を調べた。国内外の出土例から獣帯鏡は5世紀後半~6世紀前半、他は6世紀前半と判断。大山古墳は墳丘の須恵器から5世紀半ばとの説が有力で、「5点をセットで埋納したなら、その古墳の築造は6世紀前半。(大山古墳とは)年代が異なる可能性が高い」と結論づけた。また岡倉が作った購入品リストなどに5点は「古代の墓で出土した青銅製品」とあるだけで、大山古墳を示す記載は一切ないことも判明。徳田首席研究官は「日本では明治時代末から『仁徳陵出土』とのうわさがあったが、遺物や同館の書類に関連をうかがわせる点はなかった」と話した。同館に購入先の記録はなく、売り手は分かっていない。
●大仙古墳の実測図
『日本書紀』によれば、仁徳天皇は癸酉の年に即位したことになっており、治世67年目の冬10月5日に、河内の石津原(現在の堺市石津町から中百舌鳥町一帯)に行幸して陵地をさだめたという。そして、その月の18日から工事が開始されたが、工事期間中に、野原から鹿が走り出てきて、工事人たちの前で倒れて死んだ。人々が怪しんで調べてみると、その耳から百舌鳥が飛び去った。それで、この地を百舌鳥耳原と名付けたという地名起源説も併せて記されている。仁徳天皇は、それから20年後の治世87年目の1月16日に崩御し、その年の10月7妃に百舌鳥野に埋葬したという。その崩御年は西暦399年とされている。しかし、『古事記』は丁卯の年の8月15日に崩御したとし、年齢を83歳としている。干支年の丁卯は西暦427年であり、一般には、『古事記』の記述を採用し、5世紀前半死亡と見なしている。それゆえ、大仙古墳の築造年が5世紀前半と推定されてきたが、その推定を覆すような発見があった。昭和50年(1975)、この古墳の西南隅の三重目の濠の外側と接した部分で、大阪府教育委員会が発掘作業中に円筒埴輪の破片がいくつか出土した。その埴輪片は、明らかに5世紀後半、場合によっては6世紀初め頃までずれ込む特徴を示していた。もし埴輪の編年が正しければ、円筒埴輪と仁徳天皇の没年とは半世紀から1世紀近いズレがあることになり、古墳の被葬者は仁徳天皇ではないことになる。
●柏木政矩が描いた長持形石棺
明治5年(1872)9月、大仙古墳の前方部正面が台風で土砂が崩れ、竪穴式石室が露呈した。そのとき、★柏木政矩(かしわぎまさのり)という画家が石室に入り、内部の様子をスケッチ風に作図した。その図面が、大阪城天守閣にある大阪市立博物館に保存されている。柏木政矩が描いた長持形石棺は、蓋の前後左右に各々2個ずつ縄掛け突起が造り出されているが、この突起がほかの古墳のものに比べてかなり大きい。さらに、蓋が厚く断面が家形石棺に似ていて、長持形石棺のもっとも新しい段階、すなわち6世紀初めころの特徴があるという。石室内に残されていた短甲は、鉄に金メッキした銅板を張り付けたものらしく、柏木は総体銅鍍金と注釈をつけている。また2枚の金属板を止め合わせるのに革ヒモではなく鋲(びょう)が用いられていて、古墳時代後期に近い特徴を備えているという。だが、前方部の竪穴式石室に埋葬されていたのは、この古墳の主ではない。前方後円墳では被葬者は後円部の中心に葬られ、その他の場所は親族や関係者、あるいは副葬品だけをまとめて埋めることが多い。上空から確認したところによると、この古墳の後円部の墳頂には小さな土まんじゅうがあり、その周りを江戸時代に設けられた石柵が楕円形に取り囲んでいるという。大仙古墳は陵墓として宮内庁の管轄下にあるため、学術調査すら一切禁止されている。そのため、古墳の主を埋葬する後円部中央の石室の様子などわかっていないはずだ。だが、古文献の調査で意外なことがすでに判明している。江戸前期までに石室は盗掘によってすでに掘り尽くされ、石棺の蓋もとっくに持ち去れているというのだ。貞享2年(1685)の時点で、すでに石室の天井石が露出していたので、堺奉行が修理し、その13年後の元禄11年(1698)には、江戸幕府が石室の周囲の竹垣を巡らし保護したことが記録れている。宝暦7年(1757)に編纂された★『全堺詳志(ぜんかいしょうし)』によって、石棺の大きさは長さ1丈5寸(3.18m)、幅5尺5寸(1.65m)、厚さおよそ8寸(0.24m)だったことが分かっている。だが中には何も残っていなかったそうだ。新井白石も、そうした事実を認識していて、「御陵はあばかれて、石棺の蓋の石、堺の政所の庭の踏み石となれりという」と記している。在野の考古学者・中井正弘氏は、この古墳を暴いたのは豊臣秀吉であるとする面白い仮説を立てておられるそうだ。堺政所の庭石とされた石棺のふたは2.5トンの重量がある。これを運び出すには、三重の濠を埋めるなど大規模な土木工事が必要である。代表的な自由都市の堺を支配下においたとき、秀吉は陣頭に立っていくつかの古墳を破壊し、その土砂で濠を埋めた前科があり、秀吉ならやりそうなことだ、というのがその根拠だ。