《金剛蔵王大権現》
http://www.kinpusen.or.jp/niomon/index.html
金峯山寺にお祀りされる御本尊は、インドに起源を持たない日本独自の仏「金剛蔵王大権現」であります。今から1300有余年前、金峯山山上ヶ岳に★役行者が一千日の修行に入り、感得された権現仏であります。権現とは権(仮り)に現われるという意味で、本地仏の釈迦如来(過去世)、千手観音(現在世)、弥勒菩薩(未来世)が権化されて、過去・現在・未来の三世にわたる衆生の救済を誓願して出現されました。また金剛蔵王とは、金剛界と胎蔵界を統べるという意味も表しています。中尊像内に天正18年(1591年)南都大仏師宗貞、宗印等の銘がある。像高は中尊が728センチ、向かって右の像が615センチ、左の像が592センチである。寺伝では中尊が釈迦如来、向かって右の像が千手観音、左の像が弥勒菩薩を本地とし、それぞれ過去・現世・来世を象徴するという(「本地」は本来の姿である仏、「権現」は仏が姿を変えて現れたものの意)。通常は秘仏であるが、特別の行事の際などに開帳されることがある。
その右手に持つ三鈷杵(さんこしょ)は、密教の法具の一つで、魔を打ち砕くもの。それは外の魔はもちろん、私たちの心の中の魔にも容赦はない。蔵王堂中尊の左手は握り拳だが、多くの蔵王権現像の左手は二本の指を伸ばした「刀印」を結んでおり、情欲や煩悩を断ちきるという意味がある。高く上げられた足は、魔を踏み砕くため。
そして蔵王権現のからだの青──それは蔵王権現の大慈悲を表しているというが、もうひとつ、たたなづく青垣、大和の色、吉野の色。蔵王堂の蔵王権現たちを見上げると、外の光を受け、足もとからお顔の額まで、青のグラデーションを描く。それは明け方の吉野山の奥行きを目前に見上げるかのようだ。吉野の大自然から生まれた蔵王権現は、そのままその色をまとって、仏の色である「金」の装飾品を身につけ、仏は自然、自然は仏であることを教えてくれる。
※この青は「ラピスラズリ」であるという噂もある。
よく見れば、真ん中の蔵王権現の衣には龍の姿が描かれる。伝承では蔵王権現が山頂の岩を割って沸出し、最初に降り立った場所は、今の山上ヶ岳の大峯山寺の内々陣「龍の口」と言われる。それは龍穴という龍のすみかと考えられ、そこから生まれた蔵王権現は水と豊穣の神、龍神のあらわれと言われる。吉野から山上ヶ岳にいたる金峯山が龍そのものと言われることに深い関わりがあるのだろう。夜の蔵王堂から見える山並みは、山ひだも見えず、黒い稜線だけが浮かび上がる。そのうねる曲線はまさに龍の寝そべる姿だ。自然を司る蔵王権現は、時には雨を降らせる龍となって金峯山をとっぷりと濡らし、雲を生み、霧を吐き、川をつくる。だからいにしえの人々は蔵王権現の吐き出した水気に浄めてもらおうと、奥へ奥へと入り込んでいったのだろう。
金峯山寺の本堂。秘仏本尊蔵王権現(約7m)三体のほか、多くの尊像を安置しています。重層入母屋造り、桧皮葺き、高さ34メートル、四方36メートル。堂々とした威容の中に、優雅さがあり、たいへん勝れた建築という高い評価を得ています。金峯山寺内では古くから、白鳳年間に★役行者が創建されたと伝えており、また、奈良時代に★行基菩薩が改修されたとも伝えています。その後、平安時代から幾度か焼失と再建を繰り返し、現在の建物は天正20年(1592)頃に完成したものです。大正5年から13年にかけて解体修理が行なわれ、昭和55年から59年にかけて、屋根の桧皮の葺き替えを主として大修理を行ないました。
・・・吉野山と言えば「さくら」ですが、
それまでは、「春の訪れが遅く雪深い」イメージが強く、古今和歌集において、紀友則の「み吉野の山べにさける桜花雪かとのみぞあやまたれける」(春歌上)と詠まれているのが桜についての初見ではあるが、この頃はまだ、百人一首にも選出されている、坂上是則の「あさぼらけ有明の月とみるまでに吉野の里にふれる白雪」(冬歌)に代表される雪の歌が優勢であった。平安期に修験道が発達するにつれ、開祖である★役小角の奉じた蔵王権現の神木として桜が尊重されたことから、吉野山の桜が徐々に名を上げ(積極的に植樹を行い、爆発的に数が増えたという説もある)、新古今和歌集の時代になると、桜と雪はすっかり立場が逆転してしまっていた。新古今集の代表的歌人で「吉野山こぞのしをりの道かへてまだ見ぬかたの花をたづねむ」と詠った西行も吉野をたびたび訪れ多くの秀歌を残した。山上には「西行庵の跡」もある。
★「吉野の桜と蔵王権現」金峯山寺:田中利典
http://yosino32.cocolog-nifty.com/blog/2014/01/post-bd8b.html
日本各地に桜の名所は数多くありますが、その筆頭はやはり吉野山でしょう。その吉野山の桜は、決して、観光地や名所地にしようとして植えられたものではありません。すべて金峯山寺の御本尊蔵王権現様に献木されたお供えの「生きた花」なのです。千三百年の昔、我が国固有の民俗宗教・修験道の開祖とされる役行者が、金峯山上で一千日の修行をされた末、蔵王権現という修験道独特の御本尊を祈り出されました。そしてそのお姿を山桜の木に刻んでお祀りされたのが金峯山寺の始まりであり、以来、山桜は蔵王権現のご神木とされました。役行者は「桜は蔵王権現の神木だから切ってはならぬ」と里人に諭されたといわれ、吉野山では「桜は枯枝さえも焚火にすると罰があたる」といって、大切に大切にされてきました。江戸時代には「桜一本首一つ、枝一本指一つ」といわれるほどに、厳しく伐採が戒められたのです。桜とはそもそも神聖な木で、古来より、霊を鎮める霊力があると信じられてきました。サクラという言葉は、★「サ+クラ」に分解できます。サは、五月(サツキ)のサ、早苗(サナエ)のサと同じで、稲を実らせる穀物の霊です。クラは★盤座(イワクラ)のクラで、★神が降りてくる場所という意味をもちます。したがって、サクラ全体では、「稲の穀霊が降りてくる花」ということになります。日本人にとって満開の桜は、稲の霊の依代でもあるのです。ところで、今、日本にある桜の名所の大半は、もともと各地に自生していた桜ではなく、明治初期に品種改良によって誕生した「ソメイヨシノ」です。人が楽しむために植えられた桜なのです。しかし吉野の桜は蔵王権現のご神木であり、神仏に供えられたものとして一千年以上にわたって守り伝えられてきました。蔵王権現の聖地を荘厳する桜なのです。現代社会に生きる私たちは、なにかというと、人間を中心した生活を送りがちです。自分の都合のみを優先させる時代といえます。しかし古来からの日本人の営みは、自然と共に生き、自然の恩恵と脅威の中で暮らしてきました。決して人間中心ではなく、自然と共生し、共死してきたのです。だからこそ、自然の中に宿る神を祀り、仏を尊んできたのでした。いわゆる大自然と共に生きてきた日本人の心が、桜をご神木と敬い、権現への信仰の象徴を生んだといえるでしょう。吉野の桜は、今、危機的な状況を迎えつつあります。その吉野の桜を守ることは、花を穀霊の依代としたように、自然の中に神を見、仏を感じてきた日本人の心そのものを守る営みに繋がることと確信をしています。
【田中利典】(たなかりてん)
1955年京都府生まれ。金峯山修験本宗宗務総長。71年吉野金峯山寺にて得度。79年龍谷大学文学部仏教学科卒業。2001年金峯山修験本宗宗務総長と、金峯山寺執行長に就任。帝塚山大学特定教授、紀伊山地三霊場会議代表幹事、日本山岳修験学会評議員なども務める。著書は『修験道っておもしろい!』、『吉野薫風抄-修験道に想う』(ともに白馬社)など。
・・・そして、山の神と言えば「磐座(いわくら)」です。
《盤座》
奈良(大和)盆地は、西に生駒山脈(生駒山・二上山・葛城山・金剛山)、東に春日山脈(大和高原・室生火山群)に囲まれています。ご存知の大物主神(大国主命)を祀っている★「大神神社」のご神体である三輪山に「狭井神社」の南側から登って行けば、大きな黒っぽい石(角閃斑糲岩)がゴロゴロ転がっているのがわかります。
http://oomiwa.or.jp/jinja/miwayama/tohai/
《万葉集》巻3─416(★大津皇子)
ももづたふ★磐余(いはれ)の池に鳴くかもをけふのみ見てや雲がくりなむ
《参考》「磐余の邑」桜井市観光情報HPより
http://www.city.sakurai.lg.jp/miyaato/jp/detail10.html
「磐余の邑」は、奈良盆地の東南端に位置し、ここから眼前に広がる桜井市の西部地域をさした古代の地名です。日本書記に記された神武東征の物語には、「磐余の地の旧名は、片居または片立という。大軍集(つど)いてその地に満(いは)めり。因りて改めてその地を磐余とする」との記述があり、神武天皇の和風諡号にも神日本磐余彦天皇と「磐余」が含まれています。この地は、古代ヤマト王権の根拠地として、履中天皇の磐余稚桜宮、清寧天皇の磐余甕栗宮、継体天皇の磐余玉穂宮、神功皇后の磐余若桜宮、用明天皇の磐余池辺雙槻宮などの諸宮があったと伝えられています。また、履中天皇の条には★「磐余池を作る」と記されています。現在、池は存在しませんが、池之内(桜井市)、池尻町(橿原市)など池に由来する地名が残されており、近年の発掘調査では、この地域に池があったのではと推定される遺構が出土しています。この池は、万葉集★大津皇子の辞世の歌をはじめ、平安時代の「枕草子」や「拾遺集」などにも取り上げられていることからかなりの長い期間にわたって存在していたとされています。
石村・石寸とも表記する。「要害地」・「石根(いわね)」などの説があり、「石村」を朝鮮の古語で「いわふれ」とよむところから来ているとも言われている。池田末則は「岩群」ではないか、と述べている。
※磐(いわ、いわお、ばん)
磐越 - 福島県と新潟県の総称。
常磐 - 茨城県と福島県の総称。
地殻を構成する堅い物質をさす。「岩石」「岩体」
石より大きい物の意。「盤石」