・・・「先人の碑」を制作されたのは、
【速水史郎】(1927~)
香川県仲多度郡多度津町生まれ。徳島工業専門学校機械科(現・徳島大学工学部機械工学科)卒業。和瓦の技法を用いた黒陶と石彫の作家である。特に石彫は、モニュメンタルな作品やパブリックアートが多く、東京都庁や国立科学博物館などをはじめ全国100ヶ所を超えるパブリックスペース等に作品が設置されている。また1996年に紫綬褒章、2005年度秋の叙勲において旭日小綬章を受章している。
《NEWS》2018.11.11朝日新聞より
香川)91歳、創作意欲あふれる 彫刻家・速水さん個展
国際的に活躍する彫刻家で造形作家の速水史朗さん(91)=多度津町=の個展が10日、坂出市駒止町1丁目のかまどホールで始まった。卒寿を過ぎてなお創作意欲のあふれる速水さんが今年手がけた23点を展示している。12月16日まで。隔年ペースだった同ホールでの個展を、今回は2年連続で開いた。屋根瓦の土と窯で制作する「瓦彫刻」と呼ぶ独自の作品などが並ぶ。瓦彫刻「肖像Ⅰ」は、目鼻はなくとも柔らかい面影で、「つくっているうちにだんだんと亡くなった妻に似てきた」と速水さん。黒光りする御影石、なめらかな木など、それぞれの素材の美しさを生かしながら、「肖像」「望」など共通のモチーフを表現している。速水さんは「会期中にこの空間で来年の作品も構想したい」と話している。
★「新建築」1985年12月号の表紙
https://www.suga-ac.co.jp/info/book_info/specialty/entry-309.html
多度津町にある彫刻家・速水史郎さんのアトリエ。1985年に建築家・伊丹潤氏の設計で菅組が施工しました。
・・・鳥井駒吉さんの名前も、しっかり刻みこまれています。
《参考》「吹田城(石浦城)」
吹田氏代々の居城。築城時期は不明だが、史料上の初出は1336年まで遡る。永享年間には吹田重通が城主を務めていたとされる。1336年、『吉川家文章』『小早川文書』に北朝に属した安芸国の周防親家・逸見有朝らが水田城(吹田城)を攻めたとの記録が残る。永享年間には吹田重通が城主を務めており、その頃から吹田氏の本拠であったと考えられる。1482年、細川政元に攻められて落城すると、摂津守護代・薬師寺元長が入城。その後も吹田氏の名は細川氏や三好氏の元で確認でき、城主に復帰したものとされる。1578年、荒木村重に呼応して有岡城に籠城した際、城は廃棄された。
城の位置は明らかでなく、発掘調査でもその痕跡は確認されていない。地籍図や旧地名などからの推察では★「片山公園およびアサヒビール吹田工場付近」「吹田市立吹田第一小学校の北側」「吹田市立吹田第三小学校付近」などが候補として挙げられ1ヘクタール以上の規模が推定されている。そのひとつである片山公園には、模擬城門と模擬石垣により虎口が整備されている。
・・・鳥井駒吉さん以外に「大阪麦酒会社」創立にかかわった人たちのことも、紹介しておきましょう。
【石崎喜兵衛】
1885年(明治18)灘の「澤之鶴」醸造元である石崎喜兵衛が、大阪市場において直営店を設置して仲買や小売店に販売する方式に最初に成功すると、他の灘の酒造家も次々に直営店を設置し、問屋を通さずに直接販売をおこなった。明治22年(1889)11月、有限責任大阪麦酒会社創立(資本金15万円)社長:鳥井駒吉(1853~1909)/取締役:宅徳平(1848~1932)、石崎喜兵衛(1854~1928)/相談役:外山脩造(1842~1916)、松本重太郎(1844~1913)。
【宅徳平】資料でみる『ものづくり・堺』のあゆみ/堺市立図書館より
https://www.lib-sakai.jp/kyoudo/kyo_digi/monodukurisakai/monodukuri_meisyu.htm
『方違神社』(堺区北三国ヶ丘町)神社に酒造家・鳥井駒吉が、明治25年(1892)に建てた「三國丘」の大きな石碑があります。石碑の裏側には「耳原に来て鶯の初音かな」という句と「半静」という駒吉の号が刻まれています。また、北側の鳥居は、★宅徳平(銘酒「澤亀」の醸造家・鳥居駒吉と共同で酒造を行う他に、協力して阪堺鉄道や大阪麦酒などの事業を行った)が明治42年に奉納とあります。
《酒文化研究所》「堺の酒小史」より
http://www.sakebunka.co.jp/archive/history/003_2.htm
そのリーダーシップを握っていたのは、中世自治都市・堺の伝統を脈々と受けついでいた大酒造家たちであった。明治16年、川崎源太郎により出版された『住吉、堺名所并に豪商案内記』には、当時の堺を代表する豪商百数十人のリストとその 店舗図が収められている。そのうち最大の豪商群は酒造家であり、43の清酒醸造所が掲載されている。しかもその銘酒の種類は89 にのぼる。因みに明治20年代において、酒造高の多い銘酒ベスト・テンをあげると、一位★澤亀(宅徳平)以下、薫賞(堺酒造株式会社)、キ(宅常三郎)、金露(大塚和三郎)、菊泉(大塚三郎兵衛)、春駒(鳥井駒吉)、若翠(宅徳平柳 之町支店)、菊寿(柴谷古満)、志ら菊盛(肥塚与八郎)、千秋(柴谷武次郎)。
《参考》長岡人「外山脩造」の功績/アサヒビール新潟工場より
https://www.asahibeer.co.jp/area/03/15/nagaokajin/
《参考》明治の大阪財界人「松本重太郎」
http://ktymtskz.my.coocan.jp/kansai/nankai2.htm
《沢の鶴》
657-0864兵庫県神戸市灘区新在家南町5-1-2/078-881-1234
http://www.sawanotsuru.co.jp/site/
1717年(享保二年)に創業した沢の鶴は、米屋を営む初代が、副業として酒造りを始めたことを発祥としています。それ以来、米を目利きする力を代々受け継いできた私たちは、純米酒・米だけの酒にこだわり続け、おかげさまで純米酒の売上げは、第1位を続けております。純米酒・米だけの酒は、米や宮水の生命力を生かし、ていねいに人の手で世話をして初めて造られる“飲みやすいお酒”です。これからも本物の純米酒を造り続ける、そんな誓いも込めて米屋を発祥とする沢の鶴は、米の字を由来とした「※」マークを商品ラベルに刻印しています。
沢の鶴の酒名は・・・「太陽の神・天照大神を伊勢にお祀りしたとき、伊雑(いざわ)の沢で頻りに鳥の鳴く声が聞こえたので、いぶかしく思った倭姫命(やまとひめのみこと)がその啼き声の主をたずねたところ、真っ白な鶴がたわわに実った稲穂をくわえながら鳴いているのを見つけた。鳥ですら田を作って大神へ神饌(神へのお供え)を奉るのかと深く慈しんだ倭姫命は、伊佐波登美神(いさわとみのかみ)に命じてその稲穂から酒を醸させ、初めて大神に供え奉るとともに、その鶴を大歳神(おおとしのかみ=五穀の神)と呼んで大切にした…」という伊雑の宮(伊勢内宮と同じ地位を許されている別宮)の縁起(神社の建てられた由来を書いたもの)が元になっています。
《参考》「溝咋神社」567-0842茨木市五十鈴町 9-21
当社は、二千年以上も昔からあって千二百年ほど前に延喜式内社に指定された官社で、茨木では最も古い神社である。日本書紀神武天皇の本分には、五十鈴媛命は、わが国初代の神武天皇の皇后になられたと記されている。天皇即位の前に皇后をたてんとし、広く豪族より良縁を求められたとき事代主命と三島溝咋玉櫛媛命の子である五十鈴媛こそ才色兼備であるとすすめられ、天皇はよろこんで正妃とされた。また玉櫛媛の父は三島溝咋耳命であって、古代において広くこの地を統制しておられた方である。 元来、溝(みぞ)というのは水が生命で農業にとって欠くことできないものである。その溝を構成する杭(くい)も大切である。耳とは古代では長(おさ)をあらわす。したがって溝咋耳は農業神を意味した。溝咋耳神がこの地方においていかに信仰されたかは、今日立派な松並木をもった馬場先が残っていることからも察せられる。当社は第10代崇神(すじん)天皇のころ(紀元前とされる)、御祭神のゆかり深き当神社の地に創建されたと伝えられている。
■文明年間(西暦1469年~1486年)源氏の子孫である領主溝咋兵庫介質信が再建
■文禄年間(西暦1558年~1569年)領主長谷川式部少輔(織田信 長の家臣、後豊臣秀吉につかえ一万石を領有した、子孫は徳川氏につかえ二千石の旗本として当地を領有する。)が再建した。武将等の信仰厚く、祭日には武士をつかわし警護をする。
■現在の社殿は寛保二年(西暦1742年)に大阪の豪商★殿村平右衛門と★石崎喜兵衛(沢ノ鶴酒造の祖)の寄進によるもので、江戸中期主人の殿村平右衛門が禁制の外国貿易を行い罪に問われたが、石崎喜兵衛が当神社に祈願し罪を許されたことにより、両氏によって再建されたものである。
■その後昭和61年に「溝咋神社奉賛会」(現溝咋神社氏子会)氏子会員らの寄進によって修復される。
浪速10人両替の一人「米屋平右ヱ門」、その別家の「米屋喜兵衛」(石崎喜兵衛)は、が、大阪浪速平野町で米屋を営みながら、副業として酒造りを始め大阪麦酒の発起人に名を連ねた。1885年(明治18)「沢の鶴」の酒銘を商標登録。後の「石崎合名会社」~石崎本店~現在の「沢の鶴」㈱に至る。
●『北区誌』大阪市北区役所1955/新政府の御用金
明治新政府は明治元年一月京都二条城へ京坂の富豪百数十名を召出して、新政府会計基金三百万両の調達を申付けた。また二月に御親征御用金として大坂で五万両の調達をしようとしたとき、大坂の町人富豪は旧幕府からたびたび御用金に悩まされ、また諸侯からも相当の被害を受けているので、鴻池家をはじめ十四人の豪商は承諾しょうとせず、ようやく政府は「心人よろしき者へは格別之御賞美も可有
之候」という達を出して目的が達せられた。この御用金を上納した十五名の富豪町人の割当額は次のようであった。
五千五百両宛 鴻池善右衛門・広岡久右衛門・広岡作兵衛
四千五百両宛 殿村平右衛門
三千五百両宛 和田久左衛門・高木五兵衛★平瀬亀之助★石崎喜兵衛
二千七百両宛 中原庄兵衛
二千五百両宛 殿村伊太郎・長田作五郎
二千両宛 井上市兵衛・樋口重郎兵衛
千八百両宛 今堀長吉郎
千五百両宛 浅田市之助
かくて貨幣経済の発達とともに、武家の権力は町人の金権に屈服するに至り、官軍の江戸征伐、鳥羽伏見の戦、あるいは明治新政府の公債、紙幣の発行など、すべてこれらの維新回天の大事業は大商人の富によってなされたものであり、実際運動の表面に立ち、維新ののち資本主義社会の中堅となったのは下級の武士階級であった。
※屋号等は次の通り
平瀬 千草屋、広岡 加嶋屋、殿村 米屋、和田 辰巳屋、石崎 米屋、中原 (鴻庄)、高木 平野屋、長田 加嶋屋(玉水町)、井上 鴻池家の別家、鴻池 山中善右エ門、樋口 加嶋屋、今堀 米屋、浅田 島屋
●木崎神社祭礼用具/指定:市町村/種別:有形文化財(工芸品)/員数:6
所有者・管理者:木崎神社/指定年月日:平成16年3月1日
952-0604 新潟県佐渡市小木町栄町102/0259-86-3575
http://lalanet.gr.jp/search/searchdtl.aspx?knd=6&ht=7&pageSiz=0&pageNum=0&&stdycd=15944
慶長15年(1610)に最初の神輿が造営された。寛文12年(1672)祭礼の御神事用の新しい神輿が京都より送られてきたことが記録に残されている。同時に神輿附猿田彦面、戸拍子(銅拍子)、鳥毛の鑓2本が下付され、尉之面は十人問屋が寄進したとなっている。現神輿は三代目であり安永2年(1773)大阪の米間屋3人より寄進されている。【造営年代】安永2年大阪にてつくる。【寄進者】大阪米問屋:殿村平右衛門★石崎喜兵衛・中野七郎兵衛【世話人】石崎喜兵衛手船観音丸船頭清七。このように神輿の来歴がはっきりしており、ことに安永期は宿根木回船の興隆期で、佐渡と大阪の米間屋との結びつきが強く、祭礼の豪華さを競って神輿の造営やそれにともなう神事芸能を導入した歴史的意味は重い。
http://www.city.sado.niigata.jp/z_ot/cultural_property/property_c/0400/0403-07.shtml
・・・本当にテイネイな案内・説明をしてくださり、もちろんムッチャうまいビールもたらふく飲ませていただきました。お礼に、アサヒスーパードライ「令和ボトル」で制作した「蝶ウ舞い」をプレゼントさせていただきました。本当に、ありがとうございました。