アサヒビール訪問記(1) | すくらんぶるアートヴィレッジ

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・・・「吹田駅」を出ますと、

 

《泉殿宮》

564-0071吹田市西の庄町10-1/06-6388-5680

http://www.idudono.jp/

当宮往古は、次田ノ社と称え奉り、河内の次田連(スキタムラジ)の祖神・天香山命を氏神として、五穀の神「宇迦之御魂大神」[伏見稲荷大社の御祭神]を祀る。第56代清和天皇貞観11年(西暦869年)当地久しく旱魃、草木は色を変じ、大河の流れも通わず、天下疫病流行し、諸民悉く枯渇に苦しむ。播磨(姫路)の広峯神社より王城鎮護の守り神として[祇園八坂神社]の御祭神として迎えられる「建速須佐之男大神」]の御神輿が、しばらく当宮にお立ち寄りになられた。大神に祝詞を奏上し、獅子頭を激しく振り、歎きを告げ、篤く雨を祈ると、忽然と清泉土中より湧漲した。立ち処に、里人渇を免がれ、田畑隈なく潅水した。よって、建速須佐之男大神を勧請し相殿として斎き祀る。この雨乞いの状と雨を喜ぶ童子の姿は、吹田市地域無形民俗文化財の「泉殿宮神楽獅子」の所作となっている。明治22年(西暦1889年)、★「泉殿霊泉」をドイツのミュンヘンに送り、これビール醸造に適水との保証を得、当宮隣接地に同水系の湧水を以って、東洋初のビール醸造工場(現、アサヒビール㈱吹田工場)建設の逸話がある。その後、近隣の都市化に伴い上水道は普及し、又、かつての広々とした水田が殆ど姿を消したのを見届けるかのように、霊泉は地中奥深くに水脈を移し、今は、湧水していない。当宮は、国家権力の保護を求めない庶民信仰に支えられたる諸社にして、創祀以来、氏子の信倚のもと、代々藤原姓南家「宮脇家」祀職を奉仕するところ、天保8年(西暦1837年)大塩平八郎義兵の挙あり、当宮第32代宮司・宮脇志摩は、★大塩平八郎の叔父に当たり、乱の主謀者として寺社方捕手役人の囲みに、この地にて切腹。課刑峻烈にして、男児悉く遠島、家門闕所となり、社運も傾くかに見えたが、明治維新と共にその義挙を認められ、流刑地に生存の遺児総て赦免・出島仰せ付けられ、家門再興、宮脇志津摩・泉殿宮第33代宮司を嗣ぎ、社運再び赫赫として今に到る。昭和45年「人類の進歩と調和」をテーマに開催された★日本万国博覧会会場建設の地鎮祭・立柱祭等、一連の祭典は、当宮宮司が斎主をお仕え申し上げた。祭儀に使用された元柱 [木曽50年杉]は、当宮に奉建され無事成功を祈念してきた。日本万国博が掲げた「科学の進歩と人間尊重の精神」が、永く受け継がれるよう、境内に祀られている。

 

 

 

《地名「吹田」の由来》諸説あり

①低地で水が噴き出したので吹田(ふきた)と称され、「すいた」読みに変わった。

②当地にあった次田堀川の「次田」があやまって「吹田」と書かれた。

③古くは湿地帯を「フケ」と呼んだので、「フケにできた田」の意味で「吹田」と呼ばれた。

④「すき(砂地)」+「た(場所を示す接尾語)」が「すいた」に転じた。

 

・・・ともあれ由緒あるお宮さんに、まずはお参りしました。

 

 

《アサヒビール吹田工場》

564-0071吹田市西の庄町1-45/06-6388-1943

https://www.asahibeer.co.jp/brewery/suita/

 

・・・工場見学に先立って「旭神社」にお参り、「迎賓館」で説明を受けました。

 

《旭神社》

迎賓館の前に、旭神社があります。元はアサヒビール吹田工場の敷地内にあったものを、平成元年この地に遷座されたものだそうです。会社の鎮守として祀られている祠と違い、石造りの鳥居、手水舎、拝殿まである本格的なものです。御祭神は天照大御神、伏見大神、松尾大神、少彦名大神、神農大神。伏見の神は産業の神、松尾の神は酒造りの神。少彦名大神、神農大神は医薬の神です。

 

《参考》アサヒビールの名前の由来

https://www.asahibeer.co.jp/area/07/27/sakai/komakichi_vol03.html

1892(明治25)年5月、大阪麦酒吹田村醸造所から出荷された待望の本格的国産ビールには「アサヒビール」という名前がつけられた。その「アサヒ」にこめられた思いは「輸入を防ぎ国産を興さん」(発売の挨拶状から)という創業の理念から、「日出づる国に生まれたビールへの誇りと、昇る朝日(旭日昇天)のごとき将来性、発展性を願ったもの」と語り継がれてきた。確かに思いはその通りであろうが、駒吉たちの念頭に「アサヒ」の名が浮かんだのには、もうひとつの、もっと素朴な理由があったのではないか?

南海本線堺駅の脇を流れる堅川沿い、堺事件(1868年に起きた土佐藩兵によるフランス兵殺傷事件)の碑の横に★「旭橋」の橋柱が一対残されている。このあたりで堅川と交わる「旭川」にかかる旭橋の名残だが、昭和30年に埋め立てられて川はない。幕末に近い天保年間(1830年から40年にかけて)は飢饉と不況の時代であったが、その対策の意味もあって当時の堺奉行は堀川の開削や浚渫工事を熱心に行い、堺港周辺の開発が進んだ。旭川をはさんで新地の西対岸になる旭橋西詰め一帯には善法寺(龍神堂が今でも残っている)や神明神社(前身は旭神社)が人を集め、旭(または朝日)の家という茶屋が繁盛した。明治維新を経て善法寺は廃寺となり、神明神社は栄橋通に移転、旭の家もすでになくなっていたが、鳥井駒吉は港に面し風光明媚な上に、甲斐町の鳥井本店からもほど近いこの地に着目し、明治21年、財界仲間の宅德平や松本重太郎たちと図って、政府高官や財界人との交遊を図る目的でクラブを開設し、★「旭館」と名づけた。駒吉とその仲間が旭館に集い、阪堺鉄道や大阪麦酒の発展について大いに語り合ったことは想像に難くない。その前年に設立発起され、翌22年に駒吉が社長となって正式にスタートする大阪麦酒が、24年には吹田村醸造所でビールの醸造に着手するが、そのビールの名前として、「旭日昇天」の意味もめでたい上に、身近なあちこちに存在するアサヒが浮かんだのはごく自然のことであったろう。ちなみに昭和24年に大日本麦酒が分割されてできた新会社の社名は、カタカナ表記に変わるまで★朝日麦酒株式会社であったが、大阪麦酒時代の宣伝や挨拶状では、★旭ビールと表記していた。駒吉にとってのアサヒは、やはり堺で馴染んだ旭でなくてはならなかったのだろう。昭和5年の国道敷設工事で閉鎖されたが、旭館には4千坪とも言われる広大な庭があり、行楽の季節には、駒吉が弟妹の家族たちと一緒に、お花見や土筆狩りに興じたことが書き残されている。

 

《参考》その桜を救うことは日本の歴史を守ることでもありました

秀吉ゆかりのしだれ桜を後世に残したい、醍醐寺の願いに住友林業のクローン技術が応えます。

https://sfc.jp/information/gallery/index_09.html

京都伏見、醍醐寺。世界遺産として知られるその広大な境内に一本の桜の木があります。四百年の昔、豊臣秀吉が近隣諸国からおよそ七百本もの桜を集めて『醍醐の花見』を催した、その時の子孫といわれるしだれ桜です。樹高十一メートル、樹齢約百五十年。満開になると淡い花が滝のようにしだれ咲く優美な姿は、長い間多くの人に愛されてきましたが、近年、ずいぶん衰えを見せるようになっていました。「歴史的にも大切な資産であるこのしだれ桜を、なんとかして後世に伝えたい。」醍醐寺から住友林業緑化にそんな相談があったのは1997年のことでした。日本の歴史をずっと見守ってきた秀吉の桜。傷んだ部分の治療や全面的な土壌改良によって桜本体の樹勢を回復させる。と同時にその記憶と美しさを受け継ぐ若い後継樹を育てなければならない。そこで住友林業・筑波研究所では、最新のバイオテクノロジーを用いてしだれ桜のクローン作りに取り組むことにしたのです。組織培養という手法で、桜の芽の先端にある、ほんの数ミリの組織だけを切り出し、特殊な培養液が入った試験管の中でふやす。言葉にすると簡単ですが、しだれ桜は気難しく、少しでも培養液の成分が気に入らないと、すぐに枯れてしまう。少しずつ培養液の成分を変え、試行錯誤を繰り返し、やっと成功したのが99年暮れのこと。組織培養によるしだれ桜クローン化の、★世界で初めての事例となりました。現在、クローンで生まれた最初の苗は、高さ160センチ。花をつけはじめるのに2年、そして母樹のように見事に咲くまでにあと20年はかかります。このプロジェクトの本当の意味での成功は、まだずっと先のことですが。いつか秀吉の桜で、秀吉が愛でたように醍醐の山を再び満開にする日を夢見て。私たちの仕事は未来へ続きます。

 

【清水正己】清水正己デザイン事務所

https://www.shimizu-design.co.jp/top.html

クリエイティブディレクター・アートディレクター

1953年生まれ1975年多摩美術大学デザイン科卒業1979年流行通信社入社1986年流行通信社退社、清水正己デザイン事務所設立

 

 

《アサヒビール迎賓館(先人の碑)

アサヒビール発祥の地「吹田工場」に隣接して1988年(昭和63)4月14日、樋口廣太郎さんによって『アサヒビール迎賓館"先人の碑"』が建立されました。『先人の碑』は、創業以来アサヒビールグループを力強くご支援いただいたお得意先様はじめ、関係業界の皆様方と、社業の発展を念じて業務に尽くされた社内諸先輩の積恩に報い、その遺徳を称えて末永く顕彰するために建立されました。二本の白御影石が、天に向かってカープする黒御影石の翼を支える形になっていますが、この二本の柱は関係業界の諸先達先輩を象徴し、柱に支えられた翼はグループ全体の社業の発展を表現しています。

【樋口廣太郎】

樋口廣太郎と言えば、奇蹟の逆転劇と言われたアサヒビールの 立役者である事を知らない人はいないであろう。成熟した業界と誰もが疑うことはなく、その中で低迷を続け★「夕日ビール」とまで言われていたこの会社を復活させたのも、それは「当たり前のこと」と「感謝」であると樋口氏は言う。

http://www.kunidukuri-hitodukuri.jp/web/koso9/koso9_column_higuchi_koutarou.html

 

《「わたしの道」樋口廣太郎》1993.3.15読売新聞より

6年前に大阪へ行く機内で、キリンビールの小西(秀次)会長とばったりお会いしました。その時、「うちは高野山に会社の先輩をお祀りする供養塔を建てたら、その後業績は上がる一方で、いいことばかりなんです。」といわれたんですよ。それを聞いて考え込んでしまいました。私が以前お世話になった住友銀行では、京都に住友系の物故者をお祀りする「芳泉堂」という立派なお堂があり、新入社員は必ずお参りに行ったものです。アサヒビールにはそういうものが工場ごとにはありますが、まとまったものがないんですよ。この会社に来て、何か一本欠けているものがあると感じていたんですが、それだったのですね。まねするわけじゃないけど、ちゃんとしたものを建てようと、すぐ準備を始めたんです。その後、私は全国の問屋さんを回り始め、静岡県のあるお店を訪ねました。仏壇に写真が飾ってあったので、お参りした後、「この方はご主人様でしょうか」と聞くと、奥さんがうなずいて「主人はかわいそうな人でした。生前アサヒビールしかとりあつかわないと頑張っていましたが、ついにいい目をみないで亡くなったのです。このためご覧のような貧乏暮らし。それに比べてキリンを主体に扱っていた酒屋さんは、立派な建物がたって…。この話を聞いて、今まで随分お客様にご迷惑をかけてきたんだなと、つくづく思いましてね。会社に帰って「先輩の碑を建てようと思ったが、まず最初にご恩になったお客様のを建てよう」と提案したんです。昭和63年に建立しましたが、右側が問屋さん、飲食店さん、原材料供給の会社の方々。さらにうちの商品を愛好していただいている方々にまで広げましてね。新聞に「無宗教でお祀りするので、ご希望のご遺族の方はお申し出下さい」と広告を出し、今お客様千八百人、社員八百人の霊をお祀りし、ご命日には人数分のお花をお供えするんです。春秋二回の例祭には、もちろん御遺族をお招きしています。本社にも碑のミニチュアを置いて、毎日9時半にご命日を迎えた方のお名前を申し上げて、私がお参りしています。不思議なもので、それから会社の業績はどんどん良くなっていったんですよ。これに関連して一つの秘話があります。マツダが戦後、西独のNSU社からロータリーエンジンの技術を導入しようとしましたが、なかなかウンといってくれないんですね。それで松田(恒次)社長が、住友銀行の堀田(庄三)頭取を通じて、吉田茂さん(元首相)から西独のアデナウアー首相あてにお口添えの手紙を出していただいたんです。その手紙の中に「住友は先輩の霊を祀るのに大変熱心な企業グループで、マツダはその一員である」と書いてあって、それがアデナウアー首相の心を打ち、技術提携が実現したんですね。

 

 

★創刊30年記念企画 シティライフアーカイブズ【北摂の歴史記録】第4回アサヒビール創業の地「吹田」-1891年完成-

http://citylife-new.com/archive/24163.html

現在、そして未来にもつながる過去の情報を取材、編集し、記録する特集です。北摂の歴史から、私たちの住むまちの魅力を学び知る機会になればと思います。第4回は、アサヒビールの創業について★石崎光一さんにお話をお聞きしました。

 

 

・・・私たちも、「石崎光一さん」(アサヒビール吹田支店長、見学案内担当)からお話を伺うことができました。

 

 

・・・続いて、「先人の碑」にお参りさせていただきます。