★はじめに★
2019年2月、堺市において、鳥井駒吉の曾孫・鳥井洋さんを代表とする「鳥井駒吉の会」が発足しました。公式HPならびにプログ等、まだ準備・発信できない状況にありますが、いち早く多くの方々に周知ならびに賛同いただきたく、会員個人のブログにて紹介していくことにしました。公式HP等ができるまで、よろしくお付き合い願います。
・・・さて本日、5月24日は鳥井駒吉さんの命日です。
《大阪麦酒初代社長★鳥井駒吉の生涯》
https://www.asahibeer.co.jp/area/07/27/sakai/komakichi_vol01.html
アサヒビール株式会社のルーツ、有限責任大阪麦酒会社の初代社長 鳥井駒吉は、1853年3月12日、和泉国堺宿院町で米穀商を営む和泉屋伊助の二男として生まれた。父の伊助は養子であったが、1861年に分家して堺市甲斐町に移り酒造業を始め、商標は駒吉の名にちなみ「春駒」とした。駒吉には男4人・女3人の兄弟姉妹がいたが、長男は早世していたので、駒吉が一家を背負い、家業を繁栄させていかなければならない立場にあった。
父の死により、1870年に鳥井駒吉は17歳で家業を受け継ぐ。このころ、父が存命中に始めた北海道(函館)の回漕業が破綻し、鳥井はその後始末に追われたが、若い当主を危ぶむ声をよそに、みごとに本業の酒造業を盤石のものとしている。北海道の事業は、堺の綿商・回船問屋河盛仁平(1834~1885)の成功にヒントを得たと思われるが、鳥井は河盛から公私にわたり薫陶を受けていた。河盛とは、鳥井の弟がその娘を娶るといった姻戚関係もあり、河盛の堅実な事業運営の方針と利益を社会に還元する考え方は、鳥井の事業に対する考え方や人となりに大きな影響を与えたとされている。(中略)
https://www.asahibeer.co.jp/area/07/27/sakai/komakichi_vol02.html
創業17年目を迎えた1906年3月26日、大阪麦酒は日本麦酒、札幌麦酒と合併し国内屈指の大企業、大日本麦酒が誕生する。しかし、このころ駒吉は体調を崩し、大日本麦酒の社長就任を固辞したばかりか関係先の役職も辞するようになり、その後も快復することなく★1909年5月24日、享年57歳にてこの世を去ったのである。生涯を通じ鳥井駒吉の信を重んじ、人を大事にする姿勢は変わることはなかった。
・・・昨日、5月23日に「アサヒビール吹田工場」を訪問させていただきました。
《アサヒビール吹田工場》
564-0071吹田市西の庄町1-45/06-6388-1231
1889(明治22年)朝日麦酒㈱の前身である大阪麦酒会社設立(11月)。日本麦酒醸造会社、札幌麦酒会社も相前後して創立され、日本のビール産業の興隆期を迎える。
1891(明治24年)★吹田村醸造所[現アサヒビール㈱吹田工場]竣工(10月)
1892(明治25年)「アサヒビール」発売(5月)
1893(明治26年)大阪麦酒㈱に改組(2月)。
1897(明治30年)本格的なビヤホール「アサヒ軒」の第1号店開業(7月)。
1900(明治33年)日本初のびん入り生ビール「アサヒ生ビール」発売。
1906(明治39年)大阪麦酒㈱、日本麦酒㈱、札幌麦酒㈱の3社合同により、大日本麦酒㈱設立(3月)。
1907(明治40年)「平野シャンペンサイダー」発売[三ツ矢サイダーのルーツ「平野水」は1884(明治17年)の発売]。
https://www.asahiinryo.co.jp/mitsuya-cider/sp/
1930(昭和5年)純粋ビール酵母製剤「エビオス錠」発売(5月)。
https://www.asahi-gf.co.jp/special/ebios/
1949(昭和24年)朝日麦酒㈱設立(9月)。山本爲三郎、初代社長に就任。過度経済力集中排除法により、大日本麦酒㈱は、朝日麦酒㈱と日本麦酒㈱に分割。本店/東京、支店/東京・大阪・広島・四国・九州、工場/吾妻橋・吹田・西宮・博多
1950(昭和25年)新日本硝子㈱[後の㈱アサヒビールパックス。平成15年6月、石塚硝子㈱に経営統合]設立(9月)。
1954(昭和29年) ニッカウヰスキー㈱に資本参加(8月)。
1958(昭和33年)日本初の缶入り「アサヒビール」発売(9月)。
1964(昭和39年)北海道の現地資本と共同出資により、北海道朝日麦酒㈱設立[平成6年アサヒビール㈱と合併](4月)。
1965(昭和40年)世界初の屋外発酵貯酒タンクを開発、西宮・吾妻橋・博多の3工場に順次設置(3月)。
1969(昭和44年)日本初のビールギフト券発売(6月)。
(以下略)
★「アサヒスーパードライ」
1987年3月より販売が開始される。スタイルはドライビール。アサヒスーパードライの登場で、日本のビール市場にドライビールというジャンルが定着した。また、日本のビール業界で発生したドライ戦争の引き金となったビールである。なお、2017年3月に発売開始から30周年を迎えた。
●「バヤリース」
https://www.asahiinryo.co.jp/bireleys/sp/index.html
●「カルピス」
・・・ビールやウヰスキーは大人になってからですが、小さいころから親しんでいる「飲料」等も「アサヒ」です。
《参考》「ウヰスキー」
NHKの朝ドラ「マッサン」のモデルである竹鶴政孝氏は、ニッカウヰスキーの創業者です。ニッカの社名ですが、どうしてウヰスキーに「ヰ」の字を使ったのでしょう。
マッサンこと政孝氏は1923年、寿屋(現在のサントリー)の創業者・鳥井信治郎氏にウイスキー造りのため招かれて入社。大阪に建てた山崎蒸留所の初代工場長になり、国内初の本格ウイスキーを造りました。その後、理想のウイスキーづくりのため退社。1934年、気候が本場スコットランドに似ているとされる北海道余市町に「大日本果汁」を設立しました。それから18年後の1952年に社名を「ニッカウヰスキー」に変更し、現在に至ります。ウイスキーは蒸留した後に寝かせて熟成させる必要があるため、すぐに売ることができません。そこでマッサンは、ウイスキーが販売できるようになるまでの間、地元特産のリンゴをジュースにして売ることにしました。そのために設立した会社が大日本果汁でした。ニッカウヰスキーの社名は「大日本果汁」の★「日」「果」をとった略称です。それではウヰスキーの「ヰ」は、なぜこの字を使ったのでしょう。現在、ニッカウヰスキーの親会社は★アサヒビールです。広報を担当しているアサヒグループホールディングスに聞きますと「ウイスキーは水が命なので、★井戸の『井』の字を使って『ニッカウ井スキー』で登記申請したそうです。ところが、当時は漢字とカナを混ぜて登録できず、やむなくカタカナの『ヰ』を使ったそうです。なぜヰなのかというと、発音が英語のウイスキーに近いからという理由だったようです」ヰは「ゐ」のカタカナで、「井」の字に由来するとされています。生涯をかけてウイスキーづくりに取り組んだマッサン。その徹底したこだわりは、社名にもあらわれているのです。
《大阪・堺の一人の人間「鳥井駒吉」》著:鳥井洋
清酒の瓶詰め技術を開発し、アサヒビールの前身「大阪麦酒会社」を創業した堺の実業家、鳥井駒吉(1853~1909年)のひ孫の鳥井洋さん(70)=堺市堺区=が、駒吉の生涯を記した冊子★「大阪・堺の一人の人間 鳥井駒吉」を出版した。構想から約7年かけ、資料を集めてゆかりの地を訪ねた鳥井さんは「駒吉の実業家以外の一面も知ってほしい」と話す。鳥井さんは駒吉の先代から続く家業の酒造業を継ぐつもりで大学で醸造を学んだが、酒蔵は父の代で廃業。鳥井さんは製薬会社(武田薬品)に勤務した。2006年に母が亡くなり、仏壇を整理していた時、駒吉について書かれた原稿を見つけた。曽祖父・駒吉の業績は知られているが、人柄に焦点を当てた書物がほとんどないことから、本を書こうと思い立った。B6判62ページ。堺市堺区★山之口商店街プラザなどで販売している。税込み1000円。
・・・どうぞ、お買い求めください。
次回、「アサヒビール」訪問記を掲載いたします。お楽しみに。