令和考(2) | すくらんぶるアートヴィレッジ

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・・・「丹波新聞」が注目です。

 

《NEWS》2019.4.4

「和以貴為」「令和」世界平和願って奉納揮毫/全国19寺院で同時開催/兵庫・丹波市など

聖徳太子が作ったとされる「十七条憲法」の「和の精神」などを広める活動を展開している「和プロジェクトTAISHI」(宮本辰彦代表)が3日、全国19寺院と人道の丘公園(岐阜県)で、書家による世界平和を願う「奉納揮毫(きごう)」を行った。

http://www.tatsu.ne.jp/wa/index.html

兵庫県丹波市山南町では、聖徳太子が創建したと伝わる★石龕(せきがん)寺で行われ、書家の新井芳洋(ほうよう)さん(宝塚市)と向井琢美さん(姫路市)が書に臨んだ。新井さんは縦1メートル、横2・3メートルの和紙に同憲法第一条の「和以貴為」、縦1・6メートル、横1メートルの和紙に新元号「令和」を力強くしたためた。書き終えた和紙とともに揮毫を見守った檀家らが集合写真におさまり、世界平和を祈った。檀徒総代代表の和田光平(みつひら)さんは「新元号が発表された良いタイミングで奉納揮毫があった。平和な令和であってほしい」と話していた。同プロジェクトは2年目。昨年は、パリにあるイスラム教モスクや、全国47社の護国神社などで奉納揮毫を行った。

 

 

【宮本辰彦】

http://www.tatsu.ne.jp/index.html

大化の改新の中臣鎌足を祖とする神職、学者、医師の家系に生まれる。一族の出身では学僧寂室堅光や国学者敷田年治が有名。幼少時は父親の仕事のため両親と共に渡米。キリスト教の博愛精神に触れ、帰国後の二十代は思想や宗教について幅広く見聞し、今日の見識を深める。1995年1月17日にヒーリングスペースTatsu開設。現在、気づきや愛をテーマにさまざまなワークショップを各都市で開催。雑誌Yogini(ヨギーニ)では「今教わりたいヨガの先生」として紹介される。多くのヨガ・インストラクターがヨガや瞑想の本質を学びに氏のもとを訪れている。

【新井芳洋】

https://ameblo.jp/kanasyodou/

【向井琢美】

http://picdeer.com/_takumimukai_

 

《NEWS》2019.4.10丹波新聞より

頭を筆に「令和」書き初め/新元号祝って”人間書道”

新元号「令和」が発表された翌日の2日、毎年、元日に髪を筆の代わりにして干支を書くという、その名も「人間書き初め」を行っている兵庫県丹波市出身の有志らが、新元号を祝おうと、頭を使って「令和」の文字をしたためた。メンバーの一人、安達淳也さん(35)=同県篠山市=は「新しい時代に向けて、新しいことに挑戦できて良かった」と話していた。有志らは、★丹波市立氷上中学校を1999年に卒業した同級生約10人。

http://www.tamba.ed.jp/site/hikami/

24歳の年男年女になる★2007年の元日から、「日本の文化を楽しみながら世界に発信しよう」と、毎年、干支を「人間書き初め」し、ネットで配信してきた。筆役は毎年入れ替わり、筆役の自宅の前で書き初め。18年の「戌(いぬ)」で一巡したため、今年は元日に行わず、新元号発表時に行うことにしていた。2日午前、筆役の伏田智さん(35)=同県丹波市=宅のガレージに段ボールが敷かれ、その上に横90センチ、縦2・2メートルの障子紙が置かれた。同級生たちは伏田さんの自宅で着替え、上半身裸のももひき姿で登場。逆さになった伏田さんを4人で抱え、墨汁がたっぷり入ったバケツに頭をドボン。「令」の1画目から書き始めた。これまで干支の1文字しか書いてこなかった同級生たちにとって、2文字は未知の世界。途中休憩もせず、「和」の文字に入ると、画数が多いこともあり、立っていた「筆」が段々と寝るように。気合を入れ直して、書き終えると、みんなで肩を組み、雄叫びを上げた。メンバーの荻野真也さん(35)=大阪府高槻市=は「みんなでいい作品ができた。大阪から★このためだけに帰郷した甲斐があった」と言い、福田隼人さん(35)=兵庫県加東市=は「筆役も持ち役も互いに信頼し、よい作品ができた」と喜んでいた。

 

 

・・・毎年続けているというのが、素晴らしい。

 

《NEWS》2019.5.1朝日新聞より

黒豆の産地、丹波篠山市に市名変更 改元効果で節約も

https://www.city.sasayama.hyogo.jp/pc/photo/public-relations/post-1429.html

兵庫県篠山市が1日、丹波篠山市に市名変更した。地元の★篠山鳳鳴高校書道部が書道パフォーマンスをしたり、市民らが地元の民謡デカンショ節を踊ったりして祝った。

http://www.hyogo-c.ed.jp/~homei-hs/

https://www2.hyogo-c.ed.jp/weblog2/homei-hs/?p=4087

2004年に隣に丹波市が誕生し、丹波篠山黒豆など特産品が丹波市産と勘違いされがちに。昨秋の住民投票をへて、市名に「丹波」を加えることにした。改元と同じ日にすることで、看板の書き換えなどでの経費節減も図った。丹波篠山市幹部らは「令和とともに新市名で新しい時代の出発です」とアピール。

 

《NEWS》2019.5.5丹波新聞より

令和と同時に「丹波篠山市」誕生「地方にこそ幸せありとPR」住民投票経て市名変更

新元号「令和」が幕を開けた1日、兵庫県の内陸部にあり、お節料理の定番、黒大豆の産地として有名な篠山市が、「丹波篠山市」へと市名を変更した。旧国名「丹波」を冠する近隣市との区別をつけることや、農産物の「丹波篠山ブランド」を守ることなどが主な理由で、合併に関係なく市名が変わることは非常に珍しいケース。同日、記念式典が開かれ、関係者や市民らが新元号と共に新たなまちのスタートを祝った。同市役所前では、日本六古窯の一つ「丹波焼」で「丹波篠山市役所」と書かれた銘板の序幕セレモニーが開かれた。その後、記念式典が開かれており、式典後には国史跡の篠山城跡を囲んで市民ら約3000人が踊る伝統の「デカンショ総踊り」が催された。酒井隆明市長は、「今日の日が迎えられたことを改めてうれしく思う。令和の新しい時代と、丹波篠山の時代が一緒になってスタートしていける。都会よりも地方にこそ幸せがあるということを市民みんなでPRしていき、これからもこのまちをつないでいけるようにがんばっていきたい」と述べた。1999年、平成の合併第一号として誕生した篠山市。黒大豆の産地であり、「丹波焼」の里。また、イノシシ肉を使った「ぼたん鍋」や民謡「デカンショ節」のまちとしても知られる。旧丹波国の一部であり、これまでから通称「丹波篠山」を使用してきた。ところが、04年、隣接する同県氷上郡が合併して、旧国名を冠した「丹波市」となったことを機に、「丹波篠山」が「丹波市と篠山市」と誤解されるケースが出てきたこと、さらにはブランドとしての「丹波篠山」を守る目的から、2017年2月以降、商工会や観光協会、JAなどの団体が、市に対して「丹波篠山市」への変更要望書を提出した。一方で、「地名は篠山、愛称は丹波篠山でいいではないか」などと、現状維持を望む市民も多く、「問題」に発展した。市は18年4月、市名変更した場合の経済効果額を「52億円」と発表するなど、変更を進める中、住民投票を求める動きが起こり、11月、「市名を丹波篠山市にするか否か」をテーマに同市初の住民投票が実施された。結果、変更に賛成が1万3646票となり、反対の1万518票を上回り、元号変更に合わせた市名変更が決まった。

 

 

《NEWS》2019.5.20丹波新聞より

村人総出で人文字「令和」0歳から90歳まで230人、東京五輪契機の運動会で/兵庫・丹波市

「令和」も村人仲良く、心身健康で―。兵庫県丹波市青垣町大名草自治会(足立伸一自治会長)の運動会が19日、同自治会宮前広場であり、0歳から90歳の参加者230人で新元号にちなんだ人文字をつくり、ドローンで記念撮影した。同自治会の運動会は54回目。広く国民に運動が奨励された1964年の東京オリンピックを契機に、★翌65年から始まった。以来、毎年5月に開いている。改元の節目に「参加者の記念になることを」と、同自治会公民館(杉本忠司館長)が企画。1文字につき縦横12メートルに収まるよう地面に目印の文字を書き、上空のドローンから位置を確認しながら、「令」の4画目のはねまで忠実に人文字で表現した。令和にちなみ、自転車のリムやフラフープなど「輪」を使った創作競技も楽しんだ。相次ぐ珍プレーに選手も応援の観客も笑いがこぼれた。

 

《西山酒造場》

669-4302 兵庫県丹波市市島町中竹田1171/0795-86-0331

http://www.kotsuzumi.co.jp/officialweb/

日本酒を好きで飲んでいる人は、日本人口1億2千7百万人の中の8%程度です。今後加速的に、アルコールの国内需要が減少していく中、日本酒を取り巻く環境は衰退の一途をたどっています。変革は、必要不可欠です。私たちは、これまでのアルコールに限られたターゲットだけでなく、160年以上続いている酒造りのノウハウ、「米の発酵技術」を活用し、子供からお年寄りまでをターゲットとした、新しいモノづくりに取り組んでいます。米の発酵は様々な栄養素を生み出す、日本独自の優れた伝統技術です。甘酒ヨーグルト、甘麹をはじめ、米の発酵技術を応用したノンアルコール製品は、今後お客様の生活をより豊かにするものとして認知されていくと確信しています。特に女性の観点を重要視し、健康、環境、美容をテーマに、酒の造り方はもちろん、発酵技術を活用したノンアルコールの製品造りにおいても、教科書通りではない、これまでと違う視座から見直していきます。また西山酒造場では、現在24ヶ国に輸出を行っています。国内で需要の伸びない日本酒ですが、一方で海外においての評価は急激に高まっています。近い内に国内より海外での需要が大きくなるという雰囲気を直接現地に行くことで感じ取っています。私たちは、日本酒を日本文化の代表と位置づけ、世界に発信していきます。ただ、その中で守るべきものもあります。まずは丹波に根付いたモノづくり。何があろうと、地元丹波を中心として活動し、貢献していくことが、これまで育んでくれた丹波への恩返しだと思っています。丹波じゃないとできないものが確かにあります。そして素材。丹波、ひいては兵庫県の素材にこだわっていきます。最後に水。当蔵で使用するすべての水は竹田川の伏流水である蔵内の井戸水です。これはたとえ1km先の水を使用しても、これまで通りのモノづくりは出来ない、生命線とも言える存在です。この美しい清水を守るために、環境保護にも取り組んでいきます。伝統産業とはいえ、160年以上も続いて来たのは、その時代に合わせて変革を繰り返してきたからこそです。★「守る」ことと「変えない」ことは全く正反対。挑戦を続けることで、お客様にこれまで無かった新しい製品を提案していく。それが西山酒造場の存在意義です。この丹波地域が、30年後には「画期的な革新が生まれる場所」として発展を遂げている姿を思い描き、私たちは伝統技術を活用し、お客様の「今までなかった!」を創造していきます。

http://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/186073

 

 

西山酒造の主屋を含む建築群3点は、国の登録有形文化財に登録されています。登録されたのは、主屋、塀、三三庵(ささあん)です。主屋は、瓦ぶき木造二階建てで、1891年(明治24年)頃の建築のものになります。江戸中期の丹波地域の特徴的な住宅様式を伝えており、現在は店舗兼住宅となっております。三三庵(ささあん)は、木造平屋建てで、洋間を持つ数奇屋風建築です。1941年(昭和16年)に大阪の著名な建築家★赤松修氏が設計しました。昭和初期の和洋折衷住宅の流れを踏まえ、和室と洋間が機能的に配置されており、モダンな雰囲気をたたえています。弊蔵の屋号「小鼓」は、俳人★高浜虚子にその名を受けたのですが、以来、門下・画人が集う文化サロンとなっており、主屋などは、その舞台となっておりました。三三庵は、当時、伝統の上に新しい創意を加味して作られており、「小鼓」が「古くからの手造り・小仕込での酒造りを継承する中、斬新なボトルやラベルと融合させて新しい酒文化を提唱する」とする精神に脈々と受け継がれております。

 

【赤松修】横浜国立大学(建築、昭和3年卒)横浜国立大学工学系近畿同窓会HPより

http://ynu-dousoukai-kinki.cocolog-nifty.com/blog/2009/08/post-9c8e.html

故・赤松修(建築 昭和3年卒)さんに支部長が移り、同氏が支部の皆さんが仕事の合間に自由に集まりお茶を飲みながら会話や商談ができるような場所の事務 所を、市内の中心街にもちたいと考え、知人の喫茶店経営の方と、交渉を重ねられました。いわゆるサロン風なものと思います。結果は実りませんでしたが、★赤松さんは建築家であると同時に画家で、沢山の作品を残されました。

 

【綿貫宏介】

https://muhouan.org/

芸術家 無汸庵 綿貫宏介、1926年生まれ。知る人ぞ知る独特の作風で、日本を代表する美術作家の一人。戦後初の留学生としてリスボンへ遊学。ポルトガル及びスペインに15年滞在し、ヨーロッパ、アフリカ、南アメリカを訪ねる。その際、美術の才能に目覚め、南ヨーロッパの美術界に名を馳せる。リスボン国立モダンアートミュージアム等、ヨーロッパやアフリカの博物館に合計41点の作品が収蔵されているほか、約20点の書画集を発表している。ポルトガル及びスペインにて伝説的な美術家として知られるようになると、日本へ帰国。神戸及び有馬温泉にある小さなアトリエにて素晴らしい作品を作り続けている。無汸庵の世界「独自の生活様式と美意識」綿貫氏は独自の生活様式と美意識を持ち、「無汸庵」を名乗る。彼にとって、絵や陶器、ガラス等は自身の完成と世界観を表現する手段となる。禅的日本思想等の東洋思想に影響を受けた彼の作品は、詫び寂び、渋み、閑等の美しさが滲み出ている。文字や言葉の生まれた起源を探求し、古代中国の漢詩にも精通しており、無汸庵の世界には、魅力的で遊び心に溢れる言葉や文字に溢れている。

http://www.kotsuzumi.co.jp/officialweb/design/

西山酒造場の一つの個性となっている、存在感あふれるデザイン。それは無汸庵★綿貫宏介氏が表現する、夢幻の世界。小鼓のイメージは全て綿貫氏がつくりあげたものです。

 

 

《参考》ジジのお笑い建築学校より

★中村順平と「横浜高等工業学校建築学科」/2015年8月1日

https://unitjiji.exblog.jp/page/8/

 

・・・なかなか建築家・赤松修さんの情報がつかめなかったのですが、上記HPに「中村順平」さんの教育を受けた第1回生卒業記念写真があり、名前も掲載されていました。

 

【中村順平】(1887~1977)

http://www.mus-his.city.osaka.jp/news/2012/nakamura.html

http://www.mus-his.city.osaka.jp/news/2015/nakamurajunpe.html

明治20年8月29日大阪市北区に生れ、明治40年大阪府立天王寺中学、同43年名古屋高等工業学校建築科を卒業した。東京曾弥中條建築事務所に就職し、旧如水会館、東京大正博覧会会場設計など、大正期の代表的建築設計を手がけた。大正13年フランス国立パリエコールスーペリユールデボザール建築科を修業4ケ年にして卒業、フランス建築士D・P・L・Gの称号を受けた。その後★横浜高等工業(現横浜国大工学部)の建築科主任教授として永年建築教育にあたり、昭和34年日本芸術院賞を受賞した。また教育のかたわら客船の船内装飾も手がけ「田丸」「八幡丸」「あるぜんちな丸」などの設計がある。昭和50年日本芸術院会員となる。