《村の鍛冶屋》作詞者・作曲者:不詳
初出は1912年(大正元年)12月「尋常小学唱歌(四)」。歌詞が当初のものから時代により書き換えられながら、長く全国の小学校で愛唱されてきた。だが昭和30年代頃から農林業が機械化するにつれ野道具の需要が激減し、野鍛冶は成り立たなくなって次第に各地の農村から消えていく。鍛冶屋が作業場で槌音を立てて働く光景が、児童には想像が難しくなった昭和52年には文部省の小学校学習指導要領の共通教材から削除された。以後、教科書出版社の音楽教科書から消えはじめ、昭和60年には★すべての教科書から完全に消滅した。道具屋で販売する刃物を製造する工場はあり、町の鍛冶屋は非常に少なくなっているが日本各地に残っており、地元の農家も支えている。
http://blog.livedoor.jp/kiichirou_sakiyama/4gakunen/muranokajiya.html
一、暫時(しばし)も止まずに槌打つ響 飛び散る火の花 はしる湯玉 ★ふゐごの風さへ息をもつがず 仕事に精出す村の鍛冶屋
二、あるじは名高きいつこく老爺(おやぢ) 早起き早寝の病(やまひ)知らず 鐵より堅しと誇れる腕に 勝りて堅きは彼が心
三、刀はうたねど大鎌小鎌 馬鍬に作鍬(さくぐは) 鋤よ鉈よ 平和の打ち物休まずうちて 日毎に戰ふ 懶惰(らんだ)の敵と
四、稼ぐにおひつく貧乏なくて 名物鍛冶屋は日日に繁昌 あたりに類なき仕事のほまれ 槌うつ響にまして高し
《鞴(ふいご)》和鋼博物館より
http://www.wakou-museum.gr.jp/spot5/
わが国で、最初に記録に現れる鞴は天羽鞴(あまのはぶき)という皮鞴で、真名鹿(まなか)の皮を全剥ぎにして作ったとされます(日本書紀)。具体的な構造は、間宮林蔵の「北蝦夷図説」と岩手県大槌町小林家「製鉄絵巻」に見るくらいしかないですが、いわば皮製の袋に竹あるいは木製の管をつけた程度のもので、その操作は「北蝦夷図説」の場合は、皮袋の管と反対側は口が開いており、その部分を手でつかみ、閉じて押したり、開いたりしながら弁の働きをさせて風を送ったものと想像されます。その後、踏鞴が登場するが、「倭名類聚抄」(934年)では皮鞴を「ふきかわ」とし、これと区別するために踏鞴を「たたら」のこととしています。踏鞴が最初に記録に現れるのは「東大寺再興絵巻」で、12世紀の大仏鋳造の際、銅の溶解に使用されたと紹介されています。18世紀中頃(1754年)に書かれた「日本山海名物図会」の「鉄蹈鞴」の図では、構造は側面と底を粘土で固めた箱を中央で2つに仕切り、各室に吸・排気用の弁をつけ、これに合致するしま板をのせて、しま板を6人の作業者が踏んで上下運動させて風を送っています。図の説明として、鉄を溶かすのに十分な火力は踏み鞴によってこそ得られたと記されています。そして、まっすぐで滑らかな板を加工できる縦引きの大鋸、台鉋などの大工道具が普及してくると、吹差し鞴(差し鞴あるいは箱差鞴ともいう)が登場します。吹差し鞴は鍛冶道具として知られる代表的な構造をもつ鞴ですが、箱底部に特殊な工夫が加えられ、風の分配を均等にするほか、柄を押しても引いても常に風が送り続けられるようになっています。その始まりは明確ではないですが鎌倉初~中期頃とされ、普及するのは板材が安価に作られるようになる15世紀以降と言われています。しかし、鞴自体の大きさには限界があり、たたらの炉を大きくするには、炉の左右に何挺もならべて風を送るという問題があって、中国山地では製鉄用はやがて天秤鞴に置き換わっていきます。天秤鞴の発明の時期は定かではないですが、出雲・杠家の文書に、元禄4年に初めて使用されたとの記録があります。効果的な送風が可能な天秤鞴は中国地方で特徴的な発達、普及をし、大幅な省力と生産力を飛躍的に高めます。その仕組みは左右2枚のしま板の運動を司るために天秤構造としたもので、一人踏みと二人踏みがあり、1時間踏み続けて2時間休むという交代作業であったといわれます。(この作業に従事する作業者を番子と呼び、「代わりバンコ」という言葉の起こりとも言われています)たたら製鉄における鞴の変遷は画一でなく、中国山地でも石見、出雲では踏み鞴→吹差し鞴→天秤鞴となっていますが、伯耆、美作地域では、踏み鞴→天秤鞴となっています。一方、奥羽地方では踏み鞴、天秤鞴はあまり使われず、大型の吹差し鞴(大伝馬と呼ばれた)が主として使われ、幕末期に水車鞴に移行します。ちなみに、天秤鞴への移行が進んだ中国山地で水車が使われるようになるのは明治になってからです。
《参考》映画「もののけ姫」をたたら製鉄から読み解く
http://tetsunomichi.gr.jp/tales-about-tatara/princess-mononoke/
・・・さて、玉手箱プロジェクトとしては、「ふいご(鞴)」=「箱」を作ることにしました。もとより「桐箱」は密閉性が高く、「ふいご(鞴)」にもってこいです。
《参考》桐は防湿・防虫・耐火性に優れています/町八家具HPより
http://kiri.machihachi.com/2011/01/post-42.html
【特長】美術品や歴史ある数々の資料は、先人たちが残した人類の貴重な財産です。その貴重品を大切に保存し、次代へと受け継ぐ事が現代の私たちの 使命ではないでしょうか。そのような美術品、貴重品の保存箱、収納庫の用材として最も理想的といわれているのが桐。優れた気密性・断熱性・防湿性により、箱内部の温度や湿度を一定に保てる上、万一の火災や水害などの事故からも、中のものを守ります。
①防湿性・防カビ性/桐の特性で、一番好まれ知られているのが、湿度調節が可能な点です。桐は気泡質で空気を多く含んでいるため、湿気にあうと気泡の中に水分を吸収し、膨張してきり内部へ湿気の侵入を防ぎます。そして、乾燥時には水分を吐き出し、元通りになるため、内部は常に一定の湿度を保つことが出来ます。
②耐火性/家事に遭っても、桐箪笥の表面は燃えて炭になったが、中の衣類は無事だったそうです。近年、その桐の優れた特性が科学的・学術的に証明され、衣類の保存だけでなく、貴重品保存など多方面にわたって使用されています。明治期の黒い大きな金庫の内部も桐で作られ、外側の鉄が真っ赤になり、桐箱の外側はコゲても、中味のお札や書類は助かったそうです。
【金沢大学での実験資料】1)厚さ1.2cmの桐と杉の板を450度に熱した。桐は杉よりも早く炭化したが、30分後、杉板は半分が灰になり、桐板は炭化したままを保っていた。2)桐と杉で作った箱を加熱したところ、杉箱は95分後に発火したが、桐箱は130分後まで発火しなかった。桐箱の内部の温度上昇は杉箱に比べて 遅く、炭化層の断熱効果を確認した。3)箱に水を掛けると、杉箱の内部温度は変わらなかったが、桐箱の内部温度は約20度下がった。厚さ2.4cmの桐板で使った箱は、半分の厚さのものより内部温度が50度も低く、約70分後まで100度を超えなかった。この実験から・・・火災に遭っても一定の時間ないであれば、桐箪笥・桐箱の中身は、火から守られると、昔から伝えられていた事が実証されました。
③防虫性/桐はアルカリ成分が強いため、虫がつきにくい。という特性を持っており、紙類など虫がつきやすいものの収納には最適といえます。このような事をふまえ宮内庁などでは、天然空調や自然材の特長を活かす事を中心に貴重品の保存がなされているようです。何故なら、停電になり空調が止まり、大切な貴重品に「カビ」など生えてはならないからです。現代の保存方法では、何百年保存出来るという確かな実証がないので、700年も800年も前からの方法が、今日も用いられているようです。
・・・スゴイぞ「桐箱」、みなさんも活用してください。
《水野鍛錬所》
590-0927堺市堺区桜之町西1-1-27/072-229-3253
明治5年(1872)創業の日本刀・庖丁を鍛える工房です。戦後の法隆寺の大改修の時、国宝五重塔九輪の四方にかかっている★「魔除け鎌」を鍛造し、昭和27年(1952)に奉納しました。「魔除け鎌」は200~300年に一度かけかえられるとのことですが、1300年前のものも含まれる法隆寺の古釘を集めて作られています、この「魔除け鎌」と心柱の釘が店内で実際に手にもつことが出来ます。また、全日本学生相撲選手権優勝者に贈られる日本刀の鍛刀もしており、元横綱輪島関や元大関朝潮関なども持っておられます。主力商品である料理用庖丁は国内、海外の多くの調理人の方々にご愛顧いただいております。
《なら再発見》第47回/産経新聞2013年9月28日掲載
「法隆寺五重塔の謎」相輪の鎌、雷除けの呪(まじな)い?
http://www.stomo.jp/3k_kiji/3k130928.html
法隆寺には「七不思議」が伝わる。南大門の鯛石▽3つの地下蔵▽五重塔の鎌▽夢殿の礼盤(らいばん)(台)の裏が汗をかいている▽クモが巣を張らない▽池の蛙に片目がない▽雨だれの穴が地面に残らない―の7つだ。なかでもあまり知られていないのが、五重塔屋根の相輪にかかる4本の鎌だ。なぜこんなところに鎌が4本もかかっているのだろう。この鎌を作ったのは堺市にある★水野鍛錬所だと聞き、4代目の水野康行さんを訪ねた。堺は16世紀後半、ポルトガルから伝来したタバコの葉を刻む包丁の製造で栄え、日本の刃物産業の中心地となった。同じ頃、種子島に伝わった鉄砲の製法が堺に伝えられ、堺は日本一の鉄砲産地にもなった。水野鍛錬所は、そんな伝統産業を今に引き継ぐ多くの刃物店や古い町並みの続く旧紀州街道に面して立つ。店構えはクラシックながら、小粋な鍛冶(かじ)屋の雰囲気である。店で水野さんは、その鎌を手に持たせてくれた。高さ約1.2メートルの鎌で、手に持つとずっしり重みを感じる。水野家には「佐伯定胤(じょういん)五重塔鎌表白」という古文書が残されている。法隆寺123世管長だった佐伯定胤師が五重塔の鎌のいわれを書き残したもので、表白文の内容はおおよそ以下の通りだ。鎌倉時代、五重塔に落雷があり、火災が発生した。幸い4人の大工が死を決して消し止めた。その時、西大寺の興正(こうしょう)菩薩・叡尊(えいそん)が駆けつけ、北室院に泊まり込んで対策を練った。叡尊は木簡に墨書して護符(お札)とし、五重塔の各層に安置するとともに、雷除けのため鉄の鎌4本を相輪最下部の四方にかけた。しかしその後600年を経た今(昭和22年当時)、4本の鎌がたった1本になっているのは大変残念だ。今回の大修理で本来の形に戻すため、堺の名匠・水野正範に鎌の製作を依頼する。法隆寺は昭和9年に昭和の大修理が始まり、水野鍛錬所2代目の正範さんが、その腕を見込まれて刀工として参加した。建物の解体修理のときに集められた古釘(ふるくぎ)を使い、鎌を鍛えて昭和27年に奉納した。鎌は魔物とされる雷を怖がらせる、雷除けの呪(まじな)いのようだ。鎌は予備を含めて8本作られ、同鍛錬所にはあるのは、そのうちの1本である。鍛錬所の奥には昔ながらの工房が残されている。鞴(ふいご)を使い、代々伝わる鍛錬法に従って火造り・鍛造が行われる。五重塔の鎌も、その古式を踏まえて作られた。魔除けの鎌は300年ごとに作り替えられると伝わるが、水野さんによれば、それは正確でないようだ。この鎌は今後100年、200年にわたって法隆寺五重塔に燦然(さんぜん)と輝き、塔を守ってくれることだろう。
《佐助》
590-0004堺市堺区北清水町3丁4-20/072-233-6812
『佐助』は、大阪の堺にある鋏鍛冶(はさみかじ)です。本職用の植木鋏・刈込鋏・盆栽鋏・花鋏・小枝切などの鋏を中心に包丁・小刀(こがたな)・文鎮や燭台等の和の小物などの制作・販売を致しており、より心地の良いもの造りを続けたいという五代目平川康弘の想いより”火の力”を大切にした昔ながらの方法で日々励んでおります。古い時代から支えてきてくださった方々の気持ちの積み重なりによって形作られてきた大切な結晶は、見守り支え続けてくださった皆様のおかげさまで、
今まで続けてくることができました。この土地を培ってきた方、品物づくりに携わって下さっている方ご愛用の皆様、サイトをご覧くださっているみなさまに感謝申し上げます。繋いできたものが、これからを担う次の世代の方々のお役に立てるよう今後もさらなる向上に努めてまいりたいと思いますので、どうぞよろしくお願いいたします。また、お近くへいらっしゃることがありましたら、ぜひ遊びにいらして下さい。昔と変わらぬ空気を少しでも感じていただくことができたら嬉しいです。いつも心地よい時間が流れますよう、お祈りいたしております。
創業に至るまで ~火縄銃から鋏へ~
ここ堺という土地は、古くから「鍛冶」と深い結びつきのある場所です。起源は五世紀前半にさかのぼり、仁徳天皇陵の大土木工事が行われたことで鍬(くわ)・鋤(すき)などの農具作りが根付いたといわれています。また、室町時代にはポルトガル船が種子島に漂着したことにより鉄砲やタバコが日本へ伝来し、もともと鍛冶屋が多く点在していた堺でも鉄砲やタバコ包丁などの製造が盛んになりました。時は移りかわって江戸時代、『住吉屋』という廻船問屋が旧堺市内の一角にございました。各藩の御用商として様々な業務を行っていた『住吉屋』では、火縄銃を主に鉄製品の製造をしておりました。末期に入り、近代化と西洋化の波が訪れると、当主を務めていた定次郎(十七代目)は、著しく変化する世の情勢を見据えて実用的なものづくりを考え、鉄砲技術が活かせる「鋏」の製造を決意。当時新しい構想の鋏を誇っていた種子島へと渡ります。島で技術の研鑽を重ねた後、堺に戻った定次郎は、江戸時代の末期1867(慶応3)年『佐助』を創業。植木鋏・花鋏・盆栽鋏の製造をはじめました。定次郎以来 佐吉、藤一、佐一と続き、現在は康弘が5代目を務めております。
・・・下の画像、足で鞴を操作されているのがわかりますか?すご~い。
★《アニメ「火づくり」》
http://hizukuri.naokimatsuura.com/
この作品は、私が個人の作り手として企画をしている、 オリジナルの短編アニメーションです。 大阪の堺市にいる★「佐助さん」という、実在の鋏鍛冶の職人さんとの出会いを題材にしたお話しです。 佐助さんとの出会いは、私の身に起きた現実の出来事ですが、 より明確に、「鋏と私」にまつわる出来事を表現するため、 架空の世界を舞台にしています。
・・・もう完成しているはず、観てみたい。